夏休みの宿題を押し付けてくる先輩。

槙村まき

夏休みの宿題を押し付けてくる先輩。

 終業式が終わり、ホームルームも終われば、校舎から吐き出されるかのように生徒が躍り出てくる。


 僕は、「夏休みだ―」と叫びながら校門を通り抜けていく生徒とは違い、本校舎から僅か離れた建物に向かって歩いていた。足取りは重く、日差しと相成りダルさで体を覆われている感覚がする。


 『部室棟』と呼ばれている建物の、三階片隅の部室。


 僕は空白のプレートを見上げる。他の部室であれば、プレートには部活の活動名を現す名前が書かれているのだが、僕の目の前の部室の扉のプレートには何も書かれていない。れっきとした部活動ではあるのだが、変人な先輩の影響で、部活動名は決まっていなかった。


 ため息を吐き、僕は意を決すとドアをノックする。

 返事が返ってこないことはわかっているので、迷わずドアを開いて部室の中に入った。


「おはよーございまーす」


 もうすぐ昼の十二時を回るような気がするが、咄嗟に出てきた言葉がこれだったのでよしとしよう。


 狭い部室の中心に、長机がある。机の上に鞄を放り投げると、僕は壁に立てかけてあるパイプ椅子を組み立てて、それに腰を降ろした。


 それを待ち構えていたかのように、僕と反対側の窓付近にいた女子生徒に声をかけられた。


「おや、遅かったじゃないか、真鍋君」

「先輩が早すぎるんですよ。てか、ホームルーム終わってすぐきたのに、早すぎませんかね? もしかして、サボりました?」

「私があんな退屈なのに出るわけがないだろ」

「ドヤ顔で言わないでください」


 何言ってんだこの人は。そう思いながら、鞄の中からブックカバーを付けた文庫本を取り出し、栞が挟んであるところを開く。


 どうせ暇な部活動だ。やることないし、暇つぶしに趣味の読書にでもいそしもう。


 そう思ったのも束の間、僕の安穏とした時は終わりを告げる。


「真鍋君」


 先輩に話かけられたからだ。こうなることはわかっていたので、僕は観念して顔を上げる。


 開いた窓の近くに、パイプ椅子に足を組んで腰掛けている女子生徒と目が合った。


 ダークブラウン瞳が細められ、夏だというのに長袖を着た先輩は、涼やかな顔で微笑む。唇が弧を描いていき、すぐに意地の悪いニヤニヤとした通常の笑みになった。


 それに嫌な予感がしながらも、僕は平静を装いながら問いかける。


「呼びました?」

「ああ。ちょっと真鍋君に頼みごとがあってね。話だけでもいいから聞いてくれないかな?」

「イヤです」


 ぶっきらぼうに返す。気を許したら負けだ。


 すると、先輩の瞳がまんまるに開かれた。まるで信じられないものを見たとでも言うような、驚いたような表情かおになる。


「なんっ、だって……! ま、真鍋君ッ! 君はいつから尊敬する先輩に対しそんな反抗的な態度をとるようになってしまったんだい!?」

「いつからって、元からですよ。先輩の話には興味ありませんから」

「くっ、なんて毒舌な後輩なんだ」


 というか先輩は結論を先に言わないから、無駄な話が多くってつまらない。大体、自分の話したいことしか話さないし。


 それに、


「まあ、君が嫌だと言っても、聞いてもらうことは決まっているからね。君に訊かないという選択肢も権利もないんだよ。あるのは、私の話を聞くという誉れ高き権利だけだ。なんなら、君の耳元で念仏の如く呟いてあげてもいいんだよ?」


 ほら、ドヤ顔でこんなことをおっしゃる。


 そんな権利なんてはなからねーよ、と言いたくなる。


 最初から僕が話を聞くことは決まっていたのだ。それなのに回りくどいものだから。


 観念して文庫本を閉じると、鞄の脇に置いておく。


 先輩は勿体ぶりながらコホンと咳をすると、口を開いた。


「さて、何から話そうか」

「どうでもいいので結論を言ってください」

「そうだね、それでは、早速――私の、夏休みの宿題をやってくれないかな?」

「は?」


 何をおっしゃってんだ、この人?


 首をかしげている僕に構うことなく、いつも通り先輩は満面の笑みで無理難題を突き付けてくる。


「一生のお願いだ! 私は君と違って頭が悪いんだ! だから授業もサボる以外の選択肢しかなくってね、宿題も全くわからないんだよ! 学年二位の君なら、二年生の範囲も軽々とできるだろ? な?」

「な、と言われても」


 ほんと何をおっしゃっているんだか。


 僕は一年生で、先輩は二年生だ。いくら僕が学年二位の成績を誇っているからといっても、勉強をしていない二年生の範囲が分かるわけがない。もしかして、今から勉強して二年生の範囲を覚えてから宿題をやれとは言わないよな?


 疑心する僕の心に構うことなく、先輩は続けて言う。


「一生のお願いだよ、真鍋君! ほんと、私の一生を君に捧げてもいいぐらい切なる願いなんだ!」


 すると、先輩はなんとも突飛な行動に出た。


 頭を下げたのだ。その上両手を合わせている。


 まるで拝んでいるような光景に、僕は言葉を失う。


「……一生のお願いって、一番信じられない言葉ですよね」


 一生のうちに、一生のお願いを頻繁に口にする人はどこにでもいる。


 特に先輩の口から聞くと、信憑性の欠片もない。


「私は、君と同じで二位という成績を誇っているのだけど、それは下から数えた場合なんだよ。つまり、ワースト二位なんだ」

「最下位ってことですか」

「最下位では断じてない! 下に一人か二人はいるぞ! 確かなぁ!」


 先輩は、まだ入学して三か月ほどの僕ら一年生の間でも有名な「変人」だ。変人の先輩の噂はよく一年生の耳にも入ってくるので、先輩の成績が不良なのは有名な話だった。もっと有名なのは、先輩が起こしたとんでも事件の数々だけど。


「ふむ、これでも折れないのかい? 仕方ない」


 先輩が立ち上がった。


 僕は身構える。


 何をする気だ。


 先輩が長机を避けて近づいてくると、僕の前の机の上に座り、足を組んだ。黒いソックスで覆われたすらりと長い足に目が吸い寄せられていく。


 はらりと、前に垂れた黒髪を耳にかけ、ダークブラウンの瞳を妖艶に細めた。


 先輩は僕の額に指を当てると、言うのだった。


「もしも私の夏休みの宿題をやってくれたら、私を一日君の好きに使ってくれて構わないよ」


 ふふっ、とさくら色の唇を開き、先輩は笑う。


 目を奪われそうなほど、誰をも魅了する微笑みだった。


「どうだい?」

「――――はあああ。わかりましたよ! 宿題をやればいいんでしょ! ついでに教科書も貸してくださいね! 僕、二年生の勉強わからないんですから!」

「ありがとう」


 やけくそ気味に叫ぶ。もう、どうとでもなれ。もとより、僕の夏休みは、この「名前のない部活動」三昧で終わるのだ。それは入学してからいままでも変わることがなく、僕には先輩のお願いを聞く以外の選択権を与えられてなんかいなかった。だって――。


 先輩の足から目を逸らし、僕はみるみる赤くなっていく頬を隠すように文庫本を適当に開いて顔を覆う。


「でも、その条件はいりません。僕が、馬鹿な先輩のために、善意でやってあげることなんですから!」

「そうなのかい? 助かるよ!」


 わーいと嬉しそうに先輩が、足を組み直す。


 意識して顔を逸らしながら、僕は軽くため息を吐いた。


 この「名前のない部活動」の部長である木曽川英美きそがわえいみ先輩は変人だ。変人以外のなにものでもない。たとえ見た目が、誰もが目を惹かれるほどの絶世の美少女であったとしても、変人である。大事なことだから何度でもいう。


 だけど男子としては、先輩の美貌に一度は心が惹かれたっておかしくないだろう。特に入学したての僕みたいな一年生は、英美先輩の噂なんて知らないものだから、美少女である先輩に心が惹かれたっておかしくないのだ。――そう、おかしくない。僕はなにもおかしくはない。


 だから入学式の帰りに校門で先輩に声をかけられた僕は、先輩に部活動に誘われて無意識に頷いてしまったのだ。なにもおかしくはない。


 ただ、一つだけおかしいことがあるとすれば、先輩には誰もが一度心を惹かれてもすぐにその変人具合を知り愛想を尽かす反面、僕はというと……。



 ――今でも、先輩にドキドキさせられることだろうか。



 ほんと、荒唐無稽に、軽々しく、僕は木曽川英美先輩を、好きになってしまったのだ。

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