(5)
「疲れた……」
放課後。私は、加奈と理穂の課題を終わらせるために、教室で二人の課題をこなしていた。
どうして、二人はこんなに課題を溜め込んでしまうのだろう。そもそも、どうして私が二人の課題をやらなければならないのだろう。
ため息を零して、ふと教室を見渡した。
さっきまで、あんなに騒がしかった教室は、今は私しかいなくて静かだ。
思わず大きな欠伸がでてしまい、口を押えた。
眠気がじわじわと襲ってくる。
「眠たい」
ほんのりと冷たい机の上で、うつ伏せの姿勢になって、腕の中に顔を埋めた。
「……だめだ」
連日の睡眠不足で、帰宅するとすぐに眠ってしまいそうだから、教室で課題をこなしているのに。
最近、毎日のように夢を見る。
いじめられていた、あの頃の夢。
白鳥さんに嫌われる夢。
嫌な夢を見て目が覚めると、その後、眠れないことが多い。
今日だって三時間しか睡眠時間が取れていない。
ため息を零して、大きく背伸びをした。
とりあえず、早く課題を終わらせないと。
眠気を覚ます為に、カフェオレを買いに行こう。
通学用のバックから、お財布を取り出して、カフェオレを買いに教室を後にした。
放課後の校内は、わりと自由だ。
教室でひたすら雑談をしている生徒や、机の上にうつ伏せになって眠っている生徒。
校庭のベンチで、黙々と読書をしている生徒。
それぞれが常識の範囲内で、放課後の校舎を利用している。
二階にある教室から、一階へ降りて購買へ向かい、購買にある自販機でお目当てのカフェオレを買った。
カフェオレは好きで、よく飲む。
私は喫茶店で働いているのだが、恥ずかしいことにコーヒーが飲めない。
どうにも、コーヒーの苦みや後味が苦手で、飲むときは必ずコーヒーミルクや牛乳を沢山入れて、カフェオレにしてしまう。
購買の窓から、中庭の方に視線を向けると、さっきまで黙々と読書をしていた生徒が、友人と思わしき人と、楽し気に雑談をしていた。
「友達って……いいな」
放課後に、お出かけしたり。他愛もないことを話しながら一緒に帰ったり、テストが近くなったら、一緒にテスト勉強をしたり。
加奈と理穂は、私のことを友達だと言ってくれるけれど、とてもそうとは思えない。
課題を押し付けられたリ、これを買ってきてとパシリにされたり、一緒に遊ぶ度に二人は、何かしらの理由を付けて、私にお金を出すようにお願いしてくる。
二人のことは嫌いではないし、一緒にいて楽しい時もある。
嫌われるのが怖くて、頼まれたら断ることの出来ない自分も悪いということも、分かっている。
そんな自分が嫌で、変えたくて、思い切って二人とは別のクラスを選んだのに。
ふと、いじめにあったあの頃のことを思い出した。
あの時、私はどうすればよかったのだろうか。
私に何かが出来たのだろうか。
答えの出ない問いに苛まれると、矛先は必ずと言っていいほど、そこへ向かう。
――男の人は勝手だ。
親友だったあの子の想いに気づいていたはずなのに、私のことなんかを好きになって。私がいじめにあえば、手のひらを返して、いじめに加わって。
父だって、そうだ。
きっと、母はこれから、三人で幸せな家庭を作りたい思っていたはずだ。それなのに、私が産まれてすぐに、別の女の人を好きになって――
思わず涙が零れそうになった。
もちろん、アルバイト先の喫茶店のマスターのように、優しい男の人も居ると思う。
でも、そんなのはごく少数だ。
少なくとも、私は喫茶店のマスター以外に、そんな人を知らない。
「……課題、やらないと」
行き場の無い怒りや悲しみと共に、涙を堪えて、購買を後にした。
カフェオレを口にすると、窓から風が吹き入れて、そっと髪が揺れた。
少しずつカフェオレを飲み進めながら、加奈と理穂の課題を再開する。
ほんの少し、眠気が覚めたような、そんな気がする。
早く終わらせて、家に帰ってベッドで寝よう。
なんてことを考えていると、どこからか、ピアノの演奏が聞こえてきた。
「……綺麗」
綺麗で、しっとりとした曲。
どこか寂し気なその演奏は、まるで言葉を口にするように自然で滑らかで。
誰かの奏でるピアノの演奏が、校内に静かに響き渡る。
心地が良かった。身体が、心が、安らいでいくような、そんな感覚に包まれる。
課題を進める手が止まり、机の上でうつ伏せの姿勢になって、耳を澄ませた。
その演奏をなぞるように、そっと言葉を紡ぐ。
「追いかけるあなたの背に、祈ることしか出来なくて」
紡ぐ言葉は、雪の雫。
「穢れきったこの翼では――、隣に立つことすら叶わない」
夕闇に染まる空の下で歌う、一人の少女。
行く宛のない孤独と、終わりの無い苦しみ。
その言葉は胸に響いて、切なくて。
ゆっくりと、意識が遠のいていく。
優しく穏やかに、眠気が私を包んでいった。
目を覚ますと、教室は夕焼けに包まれていた。
ピアノの演奏は、もう聞こえてこない。
どれくらい眠っていたのだろうか、課題が全然進んでいないことに気がついて、焦りが込み上げてきた。慌てて時間を確認しようと、教室の時計に視線を向けようとして――、
「……白鳥さん?」
私の席の隣には、静かに読書をする白鳥さんの姿があった。
夢を見ているのだろうか。
夕焼けに染まる白鳥さんの横顔は、相変わらず綺麗で、どこか儚げだった。
白鳥さんは私を一瞥すると、読んでいた本を閉じて、そっと机の上に置いた。
そして、制服のポケットからメモ帳とペンを取り出して、メモ帳に何かを書き込み始めた。
「よく眠れた?」
身体を私の方に向けて、両手で控えめに見せてくれたメモ帳には、そう書かれていて、
「え、あ、はい。ぐっすり……」
思いがけない言葉に、戸惑いが隠せない。
「白鳥さんは、どうしてここに……?」
私の問いに、白鳥さんが再びメモ帳に言葉を書き始める。
「校舎、閉まっちゃうといけないと思って」
教室の時計に視線を向けると、時刻は午後五時三十分。
午後六時には、部活動をしている生徒以外は、校舎を出て帰宅しなければならない。
もしかして白鳥さんは、私が起きるのをずっと待っていてくれたのだろうか。
「あ、その……ごめんなさい」
白鳥さんは首を小さく横に振り、再びメモ帳に言葉を書き込んだ。
「ちょうど本を読みたかったから、気にしないで」
思わず涙が零れそうになった。
どうして、私なんかに優しくしてくれるのだろう。
この前のことは、何かの誤解だったのだろうか。
白鳥さんは、私のことが嫌いじゃないのだろうか。
涙を堪えるために俯いていた私の肩を、白鳥さんが優しくつついた。
咄嗟に白鳥さんの方に視線を向けると、そこには――、
「この前はごめんなさい」
白鳥さんが両手でメモ帳を掲げ、申し訳なさそうな表情で私を見ている。
「そんな……白鳥さんは何も悪いことなんか……」
白鳥さんが頭を横に振った。そして、再びメモ帳に言葉を書き込む。
「冷たい態度をとってごめんなさい。楽譜、届けてくれてありがとう」
思わぬ言葉に、
「あれ……、ごめんなさい……。なんで泣いてるんだろう」
安堵に包まれて、涙が溢れた。
白鳥さんが慌てて、ハンカチを渡してくれた。
あの時、勇気を出して白鳥さんに話しかけてよかった。
白鳥さんに嫌われてなくて、本当によかった。
そう思う度に、そう感じる度に、涙が次々に零れた。
白鳥さんに背中を摩って貰いながら、白鳥さんが貸してくれたハンカチで涙を拭う。
ポップなピンクのうさぎが描かれた、可愛いハンカチ。
なんだか無性に、白鳥さんが可愛らしく見えて、
「メモ帳もハンカチも、可愛いですね。白鳥さん」
涙を流しながらも何とか口にし、白鳥さんは頬をほんのり赤らめて、恥ずかしそうに俯いた。
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