酔いに踊る
志央生
酔いに踊る
地震が起きた! と誤認したのは酔いすぎた結果である。尿意を催した私が席から立ち上がると、足下が大きく揺れたのを感知した。それは、激しく揺れ、あわやその場に倒れ込んでしまいそうなほどである。
だが、それは私の脳が起こし錯覚であることはすぐに理解した。同席していた私の後輩が、この滑稽な姿を見て笑っていたからだ。
私は醜態をさらしたことを恥じる。それでも、何とか自分の情けない格好を完全な笑い種とするため「こらぁ、失敬」と、おどけて厠へ急いだ。
厠へ入ると、私は目の前に現れた自分自身に驚き「あっ」と小さく声を上げてしまった。酔うにも程があると自覚しながら、鏡に映った自分の顔を見る。頬から首元までが完全に赤く染まり、ひとりの酔っ払いを完成させていた。
そんな自分の状態を確認してから、私は用を足す。
「はぁー、すっきりする」
堪えれていたものから解放される感覚は気持ちがいい。酔いの最中ににあっても、それは同じだ。 そんな中、ふと私は思い返す。厠へ行く前の醜態である。自分でも油断していたと思う。だが、私が一番腹に据えかねているのは、それを見て笑っていた後輩だ。
いま思い返してもムカムカと腹が立ってくる。「どうしたものか」
手を洗いながら、鈍くなっている思考を巡らせる。このまま戻れば私はあの席上で道化を演じ続けることになるだろう。むしろ、そうすることで私は先ほどの醜態を完全な笑い種として消化することができる。
道化を演じる心を決め、私は厠の戸を開ける。すると、あの後輩の笑い声が耳に入ってきた。瞬間的に私の腹の中に再びムカムカが蘇ってくる。
足元が覚束ないまま、私はできる限り早く席上に急いだ。
「お帰りなさい、オドケ先輩」
席上に戻った私を出迎えたのは、口角を大きく上げて楽しそうな顔をした後輩だった。このとき、私の腹の中に蘇ったムカムカとした感情がひとつの形を持つ存在となった。私はそいつに腹の虫と名付け、自らの座っていた席に腰を下ろす。
私は至って冷静に、それでいて笑顔を浮かべ「おいおい、なんだその名前は」と、酔っていることを漂わせて尋ねる。周りで騒ぐ、先輩、同期、後輩は声量を変えずに話しながら、視線だけをこちらに向けた。
「いやいや、先輩があんなヘンテコにお道化をしたので。ピッタリじゃないですか、ねぇオドケ先輩」
大笑いしながら面と向かって私にそう口にした。あぁ、私の後輩はこうも問答無用に無礼を働くのか、と治まりつかぬ怒りが込み上げてくる。
しかし、それを表立って出すほど私も子供ではない。酔っていても分別はつく。私は怒りを腹の虫に与えて、ゆっくりと成長させる。
「まぁまぁ、その辺りにしておけよ。お前の先輩だろう」
隣で様子を窺っていた私の同期の男がフォローを入れてくる。私は「別に気にしていないさ」と言ってから大げさに笑ってみせる。
それを聞いて男は「それならいいけど」と声を潜めて言った。その顔には不安そうな表情が浮かんでいる。
「ところで、今回の幹事は誰だ」
遠くにある上座から下座に向けて発せられた言葉。私はすかさず目の前に座る後輩を見て、ニタリと笑う。今日の幹事はこの男である。さきほどまで笑っていた後輩の顔が青ざめていて、同一人物とは思えない。
上座から声を掛けてきたのは、このサークルの会長だ。彼は何か思うことがあるとき、必ずと言っていいほど「ところで」口にする。
「は、はい。僕ですけど」
ビクビクしながら手を挙げる姿を見て、私は必死に笑いをこらえる。さて、いまからどんな説教をされるのか、見物だと心の底で思っていた。
しかし、結果は私の想像としていたものとは違っていた。
「君はなかなか良い場所を選ぶ。これからも頼むよ」
すでに私以上にできあっている会長は高笑いをしながら酒を煽っている。私は開いた口が塞がらなかった。
どうして、今回に限り褒めているのだと心の中で地団駄を踏み荒れ狂う。
「どうしたんですか、オドケ先輩」
青ざめていた顔が再び満面の笑みを浮かべ、私を見つけていた。私は苛立ちをすくすくと育つ腹の虫に与え続ける。
それでも止むことなき後輩の言葉は私の中で消化しきれないほどに溢れ返す。いつの間にか握っていたジョッキグラスを大きく振り上げ、そのまま後輩の頭をめがけて振り下ろした。
ガシャン、と音が鳴ったのを遠耳に聞こえた。そこで私はハッと目を覚ます。厠の中、洋式の便器に腰掛けて眠りこけていたのだ。慌てて時間を確認すると、そこまで長い時間が経っていなかった。
安心した私は自分の尻の始末をつけて、すべてを洗い流す。厠の外から漏れ入る声は誰かに謝っている。その声は、先ほど私のことを笑っていた後輩だった。
私は急いで厠から出て、席上に戻る。足元は相も変わらず覚束ないままで。
了
酔いに踊る 志央生 @n-shion
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