第11話


 悠人は厨房でキャベツを刻みながら、「キャベツって、もし絵文字にするならどんなだろう」などと考えていた。キャベツの千切りはバイトを始めて一番最初にさせられたことで、今では考えごとをしながらでも正しく刻むことができる。バイトを始めたばかりの頃はどんなにゆっくり丁寧に刻んだところで不恰好になってしまっていたが、今の悠人のキャベツは理想的な細さである。常連さんに「俺の家の手動のシュレッダーのほうが細かく紙を刻むぞ」と言われていたのが嘘のようだ。


「悠人、楽しそうだな」

「え?」

「いや、ニコニコしながらキャベツ刻んでるから、何か楽しいことでも考えてるんだろうと思ってな」

「すいません、考えごとしてました」

「いいんだよ。手さえ切らないように気をつけてくれたら。で、何考えてたんだ?」


 仕込みを終えたちょび髭の店主が、悠人のそばに椅子を持ってきて腰かけた。完全に話を聞く気満々のその姿勢を見て、悠人は少し困りながら答える。


「キャベツを絵文字にするならどんな形になるかなって考えてたんです」

「絵文字? 絵文字って、あのメールとかのか?」

「いや、そうじゃなくて、絵文字というか象形文字というか、そういうものとして表したらどんな感じになるかなって」

「何でそんなややこしいこと考えてるんだよ? 大学生ってのは、小難しいこと考えるもんだな」

「これは友達が『新しい文字を開発しよう』って言い出して、言語圏の壁を飛び越えて伝わる文字はやっぱり絵文字かなってことになったんですよ」


 悠人はあれからエルネスタと色々試行錯誤して、新しい文字は絵文字を主体にしようということになった。たとえば、火を起こすのであれば燃え盛る火をイメージして『火』を表す絵文字を、風を起こすなら巻き上がる風をイメージして『風』を表す文字を書いて魔術を発動させるといった具合だ。


「何だ、お勉強の話だったの。悠人くんが最近楽しそうな様子なのはそれだったのね。てっきり好きな女の子でもできたのかと思ってた。でも、理由が何であれ悠人くんが元気になってよかったわー」


 コロボックルを思わせる店主の妻が、ホールの清掃を終えてカウンターからキッチンを覗き込んでいた。


「俺、そんなに元気なかったですか?」

「なかったなかった。よく働くけど、無理してる感じがするし、時々黒いもんがにじみ出てたし」

「うん、少し前までダースベーダーになるんじゃないかって感じだったもの」

「……すみません」


 店主と妻が言うように、数週間前の自分が確かに追い込まれていたということを自覚して悠人は申し訳なくなった。

 ここ最近は元カノのことを思い出すことすらなくなっていたことに悠人は気づいた。自分は一生、あの苦しくて暗い淵のような場所から抜け出せないと思っていたのに。

 突然異世界の女の子とのルームシェアが始まれば、そりゃ元カノのことを鬱々と考える暇もなくなるよなと、ここ最近のことを思い出して笑ってしまった。


「おい、何ニヤけてんだよ悠人。やっぱり何か楽しいことあるんだろ? 女の子か?」


 悠人の表情の変化を目敏く見つけた店主は、そう言って悠人の脇を肘で小突く。


「いや、手のかかる友達がいて大変だなって考えてだけですよ。まぁ、その子のおかげで嫌なことを考える暇がなくなって助かってるんですけどね」


 店主の肘から逃れながら、悠人は言った。言いながら、自分がちっとも大変だなんて思っていないことに気がついていた。




 バイトを終え店の外に出ると、空気の冷たさに悠人は驚いた猫のようにピッと体を跳ねさせた。厨房の中にいると、冬の寒さから遠ざかるが、もうクリスマスに向けてのイルミネーションに違和感を感じなくなる時期なのだ。十月末までハロウィン一色だった街がたった数日でクリスマス仕様に切り替わるのを見てげんなりしたが、十一月も半ばを過ぎると当たり前の光景として目に入るようになるらしい。


「悠人」

「わっ!……びっくりした」


 悠人はチラホラと目に入るイルミネーションを見ながら、クリスマスといえばディナーでの書き入れどきだな、などと色気のないことを自然と考えてながら歩いていたため、突然声をかけられて驚いた。

 しかもそれが女性の声だったため、「え? 誰? ヤダ。待ち伏せ怖い」と本気で怯えた。


「……美咲」


 気持ちを落ち着けて冷静になってから、悠人は声の主を確認した。そして、約ふた月ぶりくらいにその名を口にした。


「何してんの? バイト終わるまで待ってたの?」

「うん。待ってたら確実に会えると思って」

「……」


 屈託無く言う美咲に、悠人は薄ら寒い心地がした。この人は何を言っているのだろうと、外国の言葉を聞いたような気分になった。

 一体、この期に及んで、どの面下げて、会いに来たというのだろう。

 事前に連絡すれば回避する可能性を考慮して、待ち伏せという捨て身で悠人の退路を絶ってまで、何の目的があったというのだろう。


「……とりあえず、コンビニで何か買うか。寒いしな」

「うん」


 以前ならするりと出てきた気遣うための言葉が、しばらく考えなければ出てこなかった。悠人は、隣を歩くこの子とどんなふうに会話をしていたのかも、もう思い出せない気がした。

 美咲も何も言わないため、無言のまま二人は夜の街をコンビニに向かって歩いた。冷えびえとした空気を肌に感じて、悠人は上着のポケットに両手を突っ込んだ。

 ふと、エルネスタはもう部屋で待っているだろうかと、そんなことが頭に浮かぶ。早く終わらせて帰ってやらなければ、などと考えてしまう。


「カフェラテでいいか」

「うん」


 コンビニに入って、目の前で抽出してくれるタイプのコーヒーを二つ注文して、再び外へ出た。悠人は一つを美咲に渡し、コンビニの壁に寄りかかって一口啜った。


「それで、今日は何の用なんだ?」


 思いのほか冷たい声が出たことに、悠人は自分で驚いた。だが、美咲はそれを気にする様子はない。


「話をしに来たんだよ」

「話って何? どうせ彼氏と別れたとか、そういうことだろ?」


 美咲のペースに飲まれたくなくて、それによって不用意なままで傷つけられたくなくて、先回りをするように悠人は言う。


「そうだけど、よくわかったね。悠人ってエスパー?」


 動じることなくニコニコして悠人は言う。その笑顔や物腰を付き合っているときは無邪気だと感じていたが、こうして一歩離れてみるとただ厚顔なだけなのだと、興醒めして悠人は見ていた。


「彼氏と別れて、辛くて、誰かに優しくしてもらいたくて会いに来たの。悠人はいつだって私に優しかったから」


 そう言って、美咲は笑った。欲しがれば何でも手に入ると思っている表情だった。

 それを見て、悠人は無性に腹が立った。この顔で、美咲は悠人を平然と騙してきたのだから。無邪気を装う傲慢さで、甘え、ワガママを言い、悠人から与えられるものを罪悪感もなく享受していたのだ。そう思うと、黒いものが胸の奥から湧き上がってくるような気がした。


「俺が何で優しかったかわかるか?」


 届くとは思わずに、悠人はそう尋ねた。案の定、美咲は微笑んだまま首を傾げた。


「わかんねぇか。……好きだったからだよ。俺は、美咲のことが好きだったし、好かれてるって信じてたからな」


 それをお前は踏みにじったんだよーーその言葉を飲み込んで、悠人は俯いた。

 届かない相手に怒りをぶつけることほど虚しいものはないと、美咲を見ながら思ったのだ。だが、美咲はそれを泣くのを堪えたのだと勘違いし、立ち上がって悠人の手を掴んだ。


「傷つけてごめんね。……ねぇ、私とやりなおして? 離れてみてわかったの。悠人のことが一番好きだって」


 悠人は、首の後ろにぞわぞわとしたものが這い上がってくるような気がしていた。悠人が何に傷ついているのかもわかっていないんだろうと思うと、掴まれた手が不愉快で、乱暴にならないよう気をつけて振り払った。


「……俺、お前にもう優しくできねぇよ」

「え?」

「俺はもう優しくできないって言ったんだ」

「何で?」

「……言わなきゃわかんねぇのか?」


 抑えてもにじみ出る悠人の怒りに、美咲はようやく気がついて言葉を失った。それでもすがるように悠人を見上げるが、冷たい目で一瞥されただけだった。


「怒ってるんでしょ? 高いカバンねだったこと。返すから! もうあんなワガママ言わないから!」


 的外れな美咲に言葉に、悠人は怒りを通り越して呆れた。やっぱりわかっていないんだ、と。


「返すなよ。大事に持っとけよ。……俺の愛情突き返すって、お前どんだけだよ」


 飲み終えたカップをゴミ箱へ捨てて、悠人は歩き出した。美咲はもう、何も言わなかった。追っても来なかった。

 結局、付き合っている間も別れた後も、美咲に自分の気持ちが通じてたことなどないのだろうなと思うと、ただただ早く帰りたかった。

 恋愛をしていたと思っていたのは自分だけなのだと思うと虚しくて、心に暗くて深い穴が空いたような気持ちに悠人はなった。

 その穴に吸い込まれてしまいそうになったとき、エルネスタが泣きながら言っていたことを思い出した。

 報われなくても、愛したことは無駄じゃない――自分のために泣いてくれた女の子の顔と一緒にその言葉を思い出し、悠人は止まりそうになる足を何とか動かした。



「ただいま」


 ようやく帰り着いて玄関のドアを開けると、灯りのついた部屋が悠人を出迎えた。今日ほど部屋が明るくて良かったと思ったことはない。


「……おかえりなさい、悠人。ごめんなさい。待ってたら眠たくなってしまって」

「こっちこそごめん、遅くなって」


 さっきまで眠っていたらしく、エルネスタは丸テーブルの前で座って頬を拭っていた。その仕草に、よだれ垂らしてたのかよと思い、悠人は頬が緩んだ。


「……ちょっとお客さんが多くてさ」

「そうなの。お疲れ様」

「この時期は忘年会だなんだって言って飲み会が増えるからさ……ありがたいんだけど参るよ」


 先程のことをエルネスタに気取られたくなくて、悠人は愚痴をこぼすふりをして無駄に喋り続けた。

 そんな悠人の様子を、エルネスタは怪訝な顔で見ていた。


「あ、ごめんな。今日の勉強始めよう。今日、もしキャベツを絵文字にしたらどんなかなとか考えながら仕事してたんだよ。キャベツの千切りをするための魔術とかあったら便利かなって思って」

「……ユート」


 放っておくとそのまま話し続けそうな悠人を、エルネスタは遮った。悠人はどちらかといえば気怠げで無駄なことは話さないタイプだ。この前のように眠気に飽かせておかしなことを言い出すことはあっても、今日のように話すために話すというのは何だからしくないと、エルネスタは感じていたのだ。


「ユート、疲れてるんでしょ? ……何があったかは聞かないから、無理しないで?」

「……エル」

「はいはい、ここに座りなさい」


 両手を広げて待ち構える姿勢のエルネスタを見て、もうダメだと悠人は思った。誤魔化していたかったのに、弱ったところを見せたくないと思っていたのに、そんなふうに見透かされると甘えてしまいたくなる。


「今日だけ特別よ? ほら、ここに頭乗っけなさい」


 悠人が素直に隣に座ると、エルネスタは今度は自分の膝を叩いてみせた。膝枕をしてやるということだとわかって悠人はためらったが、その笑顔に抗う気力がもう残っていなかった。


「小さい頃、悔しいことがあって泣いて帰るとね、お母さんがよくこうしてくれたの。ただ黙って、髪を撫でて。あんまりにも自尊心を傷つけられたりすると、自分のことを大切にしてくれる人には話しにくいじゃない? だから、そうやって何も聞かないけれど優しくしてもらえると、安心するわよね」


 言いながら、エルネスタは悠人の髪を撫でていた。

 その言葉を聞いて、悠人はなぜエルネスタに美咲とのことを話したくなかったかを理解した。


「……このまま寝ていい?」

「うん。ゆっくり休んで」


 何もはっきりさせないままでこんなふうにするのはよくないと思いながらも、疲れに抗えず悠人は目を閉じた。細くても、エルネスタの太ももは柔らかかった。その柔らかさと温もり、髪を指でそっと梳かれる心地良さに包まれて、悠人はゆっくりと眠りに落ちていった。 

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