第8話

 悠人が講義を終え、まっすぐ帰宅すると、丸テーブルの前にポツンと座ってエルネスタが待っていた。

 俯いて前髪が顔を隠していたため、悠人はエルネスタが寝ているのかと思って声をかけるのをためらった。だが、よく見てみるとその肩は小刻みに震えており、泣いているのがわかった。

 今日はバイトがなくて早く帰れるから手の込んだ夕飯でも作ろうかな、なんてことしか考えていなかった悠人には、非常に衝撃的な光景だった。

 こうして隣の部屋に女の子がいるなどという非日常を体験してはいるが、悠人は元々あまり女性慣れしていない。

 これまでの人生はずっと男女共学の学校に通っていたが、いつも男友達と連んでばかりで、サシで女の子とじっくり話すようなことはなかった。姉か妹がいればまた違ったのかもしれないが、あいにく弟しかいない。まともに接したことがある異性は母と元カノというくらいの、女の子に縁がない人生だった。

 そんな悠人に、いきなり泣いている女の子のフォローをしろというのも無理な話だった。



「……エル、腹減ってるか?」


 散々悩んだ挙句、悠人の口から出たのはそんな言葉だった。自分でもそんなことを言うつもりはなかったため驚いた。本当はもっと気の利いたことを言うつもりだったのだ。

 エルネスタのほうも、悠人が帰ってきて早々そんなことを尋ねてくるとは思っていなかったため面食らった。だが、その声音が優しく、そして少し戸惑っているのを感じて、思いきって顔をあげてみた。

 そこには、困った顔をしてこちらを覗き込む悠人の姿があった。それは困った顔と言っても、迷惑に思っているわけではないことが伝わる、親しみに満ちた顔だった。

 その顔を見てエルネスタは安心して、小さく頷くことができた。


「よし、わかった。うまいもん作ってやるからな」


 悠人のほうもエルネスタが反応したのを見て、ようやくホッとした。エルネスタの頭にポンポンと優しく触れ、すぐにキッチンに立った。どう励ましてやればいいかわからないなら、得意なことをしてやるしかない。

 他に時給が良いバイトがある中で好んでレストランで働くほど、悠人は料理が好きだった。大学に入学するまで全く料理はできなかったが、バイトを始めてちょび髭の店主にみっちり仕込まれて、今ではかなりレパートリーが増えた。

 食材を確認すると、鶏肉とジャガイモと玉ねぎと、安売りのときに買い置きしておいたトマト缶があったため、トマトシチューを作ることにした。

 普段なら、材料を切ってそのまま全部鍋にぶち込んで、グツグツコトコト煮立ってから味を整えるのだが、今日はきちんと具材を炒めることにした。手抜きをしたくなかったというのもあるが、それよりも炒めるときの匂いがエルネスタに与える影響に期待したのが大きかった。

 帰り道に誰かの家から漂ってくる夕飯の匂いというのはどうにも気持ちを淋しくさせるが、家に帰りついて嗅ぐあたたかな食事の匂いには、疲れた心をホッとさせるものがあると悠人は信じているのだ。

 鍋に油をひき、くし形に切った玉ねぎを炒めていく。同時に別のフライパンにも油をひき、ハーブ塩をふりかけた鶏肉を両面軽く焼いておく。

 玉ねぎと鶏肉の良い匂いが部屋に満ちていく。膝を抱え、涙が流れるままにしておいたエルネスタも、その匂いに顔を上げた。そうすると、泣き疲れて随分と消耗した体が栄養を欲していたことに気づく。

 悠人は、ただ黙々と料理と向き合っていた。その背中を、エルネスタはジッと見つめた。焦げつかないように鍋をかきまぜ、味見をし、調味料を足していく姿は秩序があり、見ているとエルネスタも失いかけた自身のバランスを取り戻していくような気がした。

 胃袋を刺激する美味しそうな匂いと、自分のためにその料理を作ってくれる悠人の後ろ姿に、エルネスタは安心感を得ていた。それと同時にここ最近胸に沸いて落ち着かなくさせた気持ちが、あたたかなもっとはっきりしたものに変わっていくのを感じていた。


「お待たせ。できたぞ」


 悠人は、良いものを食べるときだけに使うと決めている少し上等な器にシチューをよそった。柔らかなフォルムをした白い陶製の器に盛られたシチューは、生クリームとパセリで飾りつけまでされており、その色合いの美しさが食欲をそそった。

 エルネスタは本当は、シチューの出来の素晴らしさを悠人に伝えたかったのだが、泣き疲れた喉はすぐに声を出すことができなかった。

 仕方なくエルネスタは、悠人を真似て手を合わせ、シチューを食べはじめることにした。

 シチューは見た目ほど酸味はなく、炒めた玉ねぎの香ばしさとジャガイモの甘みがうまくまざりあっていた。鶏肉も焼き色をつけてから煮ているため、柔らかく食べやすかった。


「……美味しい」


 喉が潤いを取り戻し、ようやくエルネスタはそう小さく呟くことができた。それを聞いて悠人は、安心したように笑い、軽く頷いてまた食事を再開した。

 エルネスタもシチューを口に運びながら、悠人のことをそっと見つめた。対で買った器ではなかったらしく、悠人の分のシチューは素っ気ないつるりとした器に盛られていた。

(良いものをあたしに譲ってくれたんだわ)

 悠人のそういった優しさに気づいて、エルネスタはもう自分の中に見つけた感情を抑えることが難しくなった。


「……ユート」


 シチューを完食し、お腹が満たされ力を取り戻したエルネスタは、少し強気になっていた。これはもう伝えるしかないと、初めての感覚に勢い込んでいた。

 だが、相手は女慣れしていない悠人である。


「お、食ったか。おかわりするだろ? とりあえずたくさん食って元気出さねぇと」

「あ……うん、そうね……」


 エルネスタの返事を聞く前に悠人は空になった皿を持って立ち上がり、おかわりをよそって戻ってきた。ニコニコと、元気のない子にはご飯を食べさせてさえいれば大丈夫と思っているその顔を見て、エルネスタは「あんたはあたしのお母さんか」と心の中で突っ込んだ。

 こうやって悪気なくフラグを折り続けてきた人生なんだろうな、とエルネスタは呆れた。そうしてまともなフラグを無意識のうちにへし折ってきて、挙句ろくでもない女に騙されてきたのだろう、と。


「ユートは、彼女に料理を作ってあげたことあるの?」


 口にしてみて、これはちょっとどうなんだろうと思ったけれど、エルネスタはそんなことを悠人に尋ねてしまっていた。聞いたところで何が変わるわけでもないのに、知りたいという気持ちが抑えられなかったのだ。


「あー……一回だけ。でもな、不評だったんだよ。彼氏にこういうことされると女としてのプライドが傷つくってさ。……って、俺のこと彼氏とも思ってなかったくせにな」


 悠人は笑っていた。それは、以前見た卑屈な笑いではなく、ほとんど吹っ切れたという表情だったため、エルネスタはホッとした。自分の不用意な言葉が彼を傷つけることがなくてよかった、と。

 だが、悠人への気持ちに気付いてしまった今、元彼女のことを話題にして不快になるのは自身だったのだと思い知って嫌になった。


「……こんなに美味しいものを作ってくれるユートに向かってそんなこと言うなんて、その人は馬鹿ね」

「だよな。料理作るのに男とか女とか関係ないのにな」

「……そうよ。誰が作っても美味しければいいのよ」


 エルネスタは本当は、もっともっと元彼女のことを悪く言ってしまいそうだった。だが、そんなことを悠人は望んでいないだろうし、言えば自身の心が余計にささくれ立つことがわかっていた。だから、エルネスタはグッと堪えた。

 何となく会話はそこでぷっつりと途切れてしまい、悠人がおかわりを食べ終えるまでどちらも口を開かなかった。


「そういえば……今日はどうしたんだ? 何か、嫌なことあったか?」


 食器を片付けてもう一度エルネスタの前に座って、悠人はそう尋ねた。食器を洗うために席を立てば話しやすくなるかと考えたのだが、エルネスタが話し出す気配はなかった。

 エルネスタのほうも話さなければと思っていたのだが、自分が何にショックを受けたのか、どこから話せばいいのかを考えていたら、なかなか言葉が出なかったのだ。


「あのね、ユート――」


 エルネスタはすべてを話すつもりで、口を開いた。魔術使いになろうとしたきっかけから、今抱えている問題と、今日あったショックな出来事まで。すべて聞いてもらいたくて、話し始めた。


「あたしね、小さいときから魔術師になりたかったの。日常の中にあるちょっとした魔術を見て覚えて使っているうちに、どんどん知りたくなって、楽しくなって……」


 話しているうちにエルネスタは、初めて魔術を使ったときのことを思い出した。

 実家が農業を営んでいるため、エルネスタが初めて使った魔術は虫除けの魔術だった。春先に新芽が伸びていくときにやる、ささやかだが一種恒例行事と化したものだ。

 緑色のツヤツヤした柔らかな芽を、健やかな風が撫でていく様を眺め、自分が使った魔術がその芽を守るのだということをすごく誇らしく思ったのだ。

 それ以来、エルネスタは魔術の虜だ。

 エルネスタの世界は、魔術師ではない人々の生活の中にも魔術が息づいている。虫除けの魔術だったり、竈(かまど)の火を長くもたせる魔術だったり、生活に根ざした小さな魔術が身の回りにたくさんあるのだ。

 両親や祖父母、近所の人からそういった小さな魔術を教わるうちに、エルネスタはすべての人が魔術を使えるわけではないと知った。

 魔術師ではない人々が使う魔術は、覚えれば幼児でも使うことができるほど簡略化されている。だが、それでも呪文を唱えること、その魔術の効果を明確にイメージすることが必要なため、そういったことが不得手な人にはやはり使うことが難しいのだ。

 そこで、エルネスタはもっと魔術を簡単に、もっともっと身近なものにしたいと思うようになった。そのためには新しい魔術を作り出す必要があった。

 だが、独学ではそれは不可能だとわかり、学院に入ってからはより多くの知識と研究が必要であるとわかった。


「だからあたしは魔術従士を目指すことにしたの。あたしの本来の目的は魔術をより簡略化することだけど、そのためには研究が必要で。じゃあ研究することが仕事になる職業といえば、魔術従士だったから」


 そうはいっても、目指したところで簡単になれるというわけではなかった。援助をしてくれる有力者を見つけて初めて魔術従士を名乗ることができる。だが、有力者の後ろ盾を得るためには、プレゼン用にそういった人たちが気に入るような研究をする必要がある。そして、そういった人たちというのは得てして派手好みだ。


「そういうわけで、派手なパフォーマンスをするためにお金が必要だったの。だから、ちょっと研究費を出してくれるようなお知り合いが欲しいな、ついでにダンスパーティーに行けるような素敵な人だともっといいなって思って、『良縁を引き寄せる魔術』を使ったってわけ」


 お茶目な感じで言ってみたが、エルネスタはかなり真剣だったのだ。

 少しまとまったお金さえ手に入れば、遠征に行けたのだから。エルネスタは西の森に棲息するユニコーンに目をつけていた。ユニコーンは知能と魔力が高い生き物だ。だが、魔力を出力するための術を持たない。

 エルネスタはそういった生き物を研究し、魔術を使わせることができれば、多くの人間が手軽に使える平易な魔術を新しく生み出すことが可能だと考えていた。


「でもね、お金持ちがユニコーンとか変わった生き物が好きっていうのが、別の形で当たっちゃってね……学院にいる貴族の子弟のグループに先を越されちゃったの。捕獲をしたって話を聞いただけで、何をするかまではよくわからないけど……ユニコーンに関心があるってこと以外、誰にも話してなくてよかったわ」

「それって……エルの思いつきをその金持ちたちがパクったってことだろ?……それで泣いてたんだな」


 話しながら頭を整理して、エルネスタは自身に落ち度があったことに気がついた。不用意に自分の思いつきを周囲に話してしまったのは愚かだった、と。そこに少し得意な気持ちもあったということを。だから、それが恥ずかしくなって、ブラージウスたちだけを責める気になれなくて不満を口にしなかったのだ。

 だが、悠人はエルネスタがそのことを口にしなくても察してくれた。


「悔しいよな。アイデアに著作権がないってわかってても、自分の思いついたことが他人に奪われたんじゃないかって思うと、悔しくてたまらないよな」

 悠人は、心底気持ちに寄り添って言った。


「……でも、そういうことを想定できなかったあたしが悪いのよ」

「そうやって、自分に落ち度があったって思うと、尚更やりきれないよな」

「……うん」


 手を握って、目を見て力強く言ってくれる悠人に、エルネスタは救われる気がした。

 今のエルネスタには、悔しい気持ちを誰かと分かち合う必要があった。思いきり受けとめて、共感してくれる人が欲しかったのだ。

 悠人がその役割を十分こなしてくれたことで、エルネスタの気持ちは落ち着いた。落ち着いたことで、また少し涙が出た。


「なぁ、エル」


 ひとしきりエルネスタが涙を流すのを見守って、悠人は唐突に口を開いた。


「俺って、研究材料にならないか?」

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