真夏の風物詩 -4-
[人間ノ本能]
「俺のは大した話じゃないけど」
智弘は断りを入れてから話し始めた。
「二人と一緒で、このビルで体験した話。っつーか、このビルやばくね?」
「今更じゃん」
「今更だろ」
「確かに。じゃあいいか」
何もよくはないが、三人は「自分には関係ないし、いいや」ぐらいの気持ちで一致する。
「この話をする前に、俺が家で体験したことも話しとくわ」
「あんた霊感強いの?」
「どーだろ? 母親とかはよく見るって言うから血筋なのかも。ちょっと前に此処で十五時間ぐらい働いて、疲れて家に帰って、そのまま寝たんだよ。でも最近暑いじゃん。夜勤明けだとどんどん太陽が昇っていくから、部屋の中も暑くなってきてさ」
「クーラー入れたら?」
「体質的に合わん。無理。暑くて目が覚めたら、部屋の中に女が立ってるんだよね。白いぼんやりした輪郭でさ、ベッドの横で俺を見下ろしてんの」
一人暮らしの男の部屋。施錠はしているし、合い鍵を渡すような相手もいない。
泥棒にしては無防備だし、何より濁ったような目が、それが人間でないことを直感的に伝えていた。
「そうなるとさ。揉むじゃん」
「はい?」
真が眉間に皺を寄せて、素っ頓狂な声を出した。智弘はその目を見返して、諭すように言葉を紡ぐ。
「眠いだろ。疲れてるだろ。ベッドにいるだろ。そこに胸の大きい女がいたら揉むよな?」
「揉まん!」
「まじかよ。人間として終わってんな!」
智弘は幽霊の胸を揉もうとした。
男の大抵の悩みを解決するとも言われる清らかなるそれが、寝ぼけた頭にはとても神々しい物に思えた。
「それで、揉めたの?」
明日香が口を挟んだので、智弘は首を左右に振った。
「このクズ! って罵られて消えた」
「幽霊も相手選ばないと駄目だよね。でもそれ、今から話すことに何の関係があるの?」
「んー、何て言うかな。「人間の本能には逆らえない」ってことかな」
「何それ」
「いや、こういう前振りしておかないと、怒られそうだし」
目論みまで口に出すあたり、智弘は割と素直な分類に入る。
「五階の部屋で起こったことで、確か丁度一ヶ月ぐらい前かな? 確か大川さんと仕事してたんだけど、誰と一緒だったかは関係ないからいいか。中番で六時から入って、仕事して十一時頃に客が全員いなくなったから、各部屋のアメニティの補充に行ったんだよ」
十二時を超えると、終電を逃したサラリーマンや、そもそも家を持たないような面子が部屋を借りに来る。
シャワー付きの部屋一室につき、六時間で三千円。格安である代わりに必要最低限の設備しかない。金を持っていて多少なりとも危機管理を考えるのであれば、絶対に利用しないようなシステムだった。
十一時を超えると半分の部屋は、そのシステムに応じたアメニティの量に変更される。
具体的に言えば、シャンプーは激安特価のリンスインシャンプー。ボディソープは水で薄めた希釈品。温情として歯ブラシは残すが、ボディタオルは没収である。
なぜそんなことをするかというと、図々しくも盗む者が後を絶たないからだった。
「52号室を開けたら電気が消えてたからさ、電気を点けながら中に入って、扉を閉めたんだよ」
智弘は身振り手振りでその様子を説明した。
扉を開けてすぐ右側の壁に照明のスイッチがある。扉は左開きだったので、扉を開いた左手でスイッチに触れた智弘は、そのまま体を反転させて部屋の中に入り、再び扉を右手で掴んで閉じた。
「明かりがついたんで、部屋の中に振り返った。そしたら、本当に目と鼻の先に男が一人立ってたんだ。妙に顔が青白くて、黒い服着こんで、背の高い不気味な男。俺が驚いている間、今度は唐突に明かりが消えた」
一瞬だけ見た男は、明かりが消えると同時に気配まで消え去った。得体の知れぬ存在を前に、智弘は無駄だとわかりながらも、暗闇の中を見回した。
隣接するビルの関係から、窓を全てトタン板で塞いでしまった部屋は、明かりを落とすと何も見えない。
「その男が襲い掛かってくるかもしれないから。焦ってさ。慌ててスイッチに手を伸ばしたんだよ。そしたら左側から、何かに思い切り腕を掴まれた」
「それ、人間の腕?」
真が口を挟む。暗い部屋を想像したのか、少し早口になっていた。
「物凄い冷たかったけど、人間の形してた」
「温度までわかるのかよ」
「いや、その時は気付かなかったけど、後から考えたらって感じかな。その時はテンパっちゃってさぁ」
此処で重要となるのは、結城智弘という人間の性格と精神状態である。
この日、智弘はスロットで珍しく大負けした。普段なら引き際を考えたところを、つい粘ってしまった。気温は高いが財布は寒い。
端的に言えば、あまり機嫌がよくなかった。
さらに言えば、智弘は他の二人よりはまだまともだが、しかし十分なクズである。
機嫌が悪くても寝起きが悪くても、胸の大きな怪異であれば我慢できる。だが薄気味悪いオッサンは、彼の好みではなかった。
「それで俺、傍にあったハンガースタンドでそいつ殴っちゃった」
「殴った!?」
明日香が驚いた声を出す。
「え、生きた人間だったの?」
「いや、実態はなかったけど。でもほら、胸を掴もうとしたら罵倒してきた霊がいるぐらいだし、場合によっては殴れたりもするんじゃねぇの? ハンガーポールにも手ごたえがあったし」
本来はハンガーを引っ掛けるためにそこにあったスタンドも、まさか幽霊を引っ掛けることになるとは思いもよらなかっただろう。
兎に角、虫の居所が悪かった智弘は暗闇の中で幽霊を木製のスタンドで殴った。十二回は殴った。
途中でオッサンの声が命乞いをしてきた。それが智弘が好きな某アイドルの砂糖菓子みたいな声であれば、まだ意味があったかもしれない。
だが、中年男性の汚い嗚咽は全くもって意味がなかった。
「滅茶苦茶殴ってたら、いつの間にか明かりついてて、オッサンはどっか消えちゃった」
「えー……」
呆れた声を出した明日香は、同じく呆然としている真に顔を向ける。
「どう思う?」
「うーん」
真は腕組をして、目を閉じ、何秒か考えた後で顔を上げた。
「怖くはないな」
「そういうこと聞いてるんじゃないんだけど。それに怖くないというか……話にメリハリがない」
「知らねぇし」
折角話したのにケチをつけられた智弘は、不機嫌に吐き捨てた。
「最初に怖くないって言っただろ」
「そういう時は一番怖い話をするのがお約束じゃん」
「何のだよ」
「それで、殴った後の幽霊はどうしたの?」
「さぁ。あの後見かけてないし」
「入口のところで殴ったんだよね?」
「そうだけど」
明日香はそれを聞いて、小さく首を傾げる仕草をした。
「うーん」
「なんだよ」
「いや、一か月くらい前から、その部屋で啜り泣きが聞こえるって苦情が出てるんだよね」
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