第86話 患者もいろいろ-慢性硬膜下血腫の自然経過
人は高齢になり、しかもそこに認知症が加わると、痛みや苦しみなどの感受性が低下するものです。
その典型例を2例経験しました。
1例は慢性硬膜下血腫で、もう1例は外傷性気胸です。
慢性硬膜下血腫の患者さんは92才の男性Kさんで、認知症は軽度のものでした。
家族は、ある病院の事務長さんで、 Kさんはその病院に入院していたのですが、夜間せん妄(激しい興奮)、徘徊がはげしくなって転院してきたのです。
転院後まもなくして、自力歩行中に転倒し、頭部を強く打ちました。
その時は前額部(おでこ)にタンコブが見られるていどでした。
それから1カ月ほどして、徐々に意識障害が出現し傾眠がちとなりました。そして突然、右片マヒ(⇒豆知識①)になったのです。
傾眠がちは認知症のせいとばかり思っていましたが、片マヒの出現で、急きょ頭部CTを撮ってみました。
すると慢性硬膜下血腫があったのです。(⇒豆知識②)
それはきわめて高度なもので、左側脳室はつぶれ、脳全体が右にシフト(偏位)していました。
意識障害と片マヒはこのせいだったのです。
こういう場合は通常、緊急手術によって頭蓋骨に穴をあけて、血腫(←(^ω^)血の塊)を取り除きます。
そこで家族と相談しました。
家族は事務長さんなので、当然のことながら世間の病院事情をよく理解されていました。
「私の病院に入院していた時も大変でしたので、認知症患者を受け入れてくれるところがあるかどうか……」
「ここまで長生きしましたから、苦痛のないようにしていただければ……」
涙ぐみながら、そういわれました。
話し合いの結果、保存的に行くことになりました。
慢性硬膜下血腫の緊急手術は何例も経験していますが、ここまでひどい例を保存的に治療したのは、初めてのことです。
おっかなびっくり、グリセオール 200mlにニコリン 500mg を入れて、1日2回点滴静注しました。
すると驚くべきかな、翌日には意識が戻ってきたのです。
「ええ!ほんと!」
医学書には、こんな記述はひとつもありません。このような重症例を保存的に治療した経験が、医療界にもないからです。
片マヒもだんだんと改善しました。
1週間後に頭部CTをすると、シフトは少し改善していました。
そして 2カ月半後には、ほぼ完全に血腫は消失していたのです。
医療者の方々には勉強になる事例だと思いますので、全体の流れを、カルテからひろってまとめてみます。
2011/12/13
昨夜Kさんが転倒して頭部を打撲した。頭部CTで大きな異常なし。
2012/2/4
Kさんは得意な掛け算が少しへたになっている。
2012/2/6
Kさんがどんどんと衰えている。午後には娘さんが来たので、体操や掛け算をやらせたり、いろいろな写真を見せたりして、刺激してもらった。
2012/2/8
Kさんは傾眠がちだ。覚醒しているときは掛け算をやる。
2012/2/9
Kさんの右腕が動かないので、頭部CTを撮った。左側に多量の硬膜下血腫が見られる。左の側脳室はつぶれ、脳は右にシフトしていた。グリセオール200ml+ニコリン500mgを1日2回点滴静注した。
2012/2/10
Kさんは今日は驚くべきいい表情だ。グリセオールが効いたのかも知れない。掛け算も会話も、大体できる。帰り際に、私が「それでは失礼します」というと、「ご苦労さま」といった。
2012/2/15
Kさんは大変元気だ。昨日も娘さんが来て、家族の写真などを見せたが、たいへんよくしゃべり、元気だったという。
頭部CTを撮った。まだ多量の硬膜下血腫が見られる。
2012/2/26
グリセオール200ml+ニコリン500mgの点滴静注を終了した。
2012/3/6
Kさんは大変元気だ。右手のマヒも軽快して、ジャンケンをしたそうだ。
2012/4/28
頭部CTを撮ると、ほぼ血腫は消失し、おおむね脳の圧排は取れていた。
☆まとめ
マヒなどの強い症状の出た慢性硬膜下血腫を、保存的に治療することは珍しく、その自然経過は、この事例のような特殊事情がないと見られないものです。
この例はそういう意味で、大変珍しい事例といえるでしょう。
救急救命をしている同僚のドクターにこの事例を話してみると、是非、学会で症例報告したらいいとすすめてくれました。
しかし、 医学書にも書いてない、綱渡りのような危険な事例なので、学会で報告するのは躊躇されたのです。
そこで、この場を借りて報告した次第です。
特に医療者の方々には、参考にしていただければ幸いに思います。
☆豆知識
①片マヒ(へんまひ、かたまひ、hemiplegia)とは、一側性にみられる上下肢の運動マヒで、いわゆる半身不随の状態といえます。
不完全なマヒ(障害が部分的であるか、筋力低下にとどまる)を不全マヒ(ふぜんまひ、paresis)といいます。
原因疾患は脳内出血、脳腫瘍、脊髄腫瘍などさまざまな原因があります。
②慢性硬膜下血腫
慢性硬膜下血腫(まんせいこうまくかけっしゅ、chronic subdural hematoma)は、硬膜と脳の間に血腫が緩徐に形成される疾患です。多くは、数カ月前に頭をぶつけたなど、比較的軽度な頭部外傷が原因のことが多く、原因となる外傷が思い当たらないことも多いのです。
アルコール常飲者の高齢者の男性に多いです。
症状
数週間か数カ月前に頭をぶつけた等の既往歴があり、しばらく全く異常がなかったものが、だんだん痛みだし、片マヒ、意識障害が徐々に出現・進行してきます。
診断
頭部CTにて三日月状の血腫をみとめます。
治療
血腫量が多く症状のある場合は、局所麻酔下に穿頭血腫ドレナージ術を行います。この手術は侵襲が比較的低く、術後劇的に症状が改善することが多いため、患者が超高齢であっても手術適応となり得ます。
血腫が小さい場合は、経過観察のみで血腫の自然吸収が得られることも稀ではありません。
予後
すぐ手術が行われれば基本的には予後が良好な疾患です。術直後から症状の改善が見られることが多いのです。
出典:Wikipedia
〈つづく〉
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。