第84話 患者もいろいろ-あなたは社長さん

 70代の男性患者さんが、糖尿病で入院しました。他の医師の外来で入院が決まり、私が主治医になったのです。


 軽い認知症があるとのことでしたが、外見からは普通の患者さんに見えました。


 入院して間もなくその患者さんは、私のそばにやってくると、ジロジロと私の顔を見ます。


「どうかしましたかねえ?」


 私が話しかけると、


「あなたは昔勤めていた会社の社長さんだ」


 確信したようにいいます。


「社長なんかしたことないよ。人違いでしょう」


 首を横に振ると、


「そんなことはない。あの時の社長だよ」


 そういい張るのです。


 私もうそはいやですから、


「前から医者だから社長なわけないでしょう」


「そんなことはない。社長に間違いない」


 いつまでも押し問答が続き、最後にはけんかになりそうでした。


 立派な認知症なのです。


 それ以後、私の顔を見るたびに、社長と呼んでいました。


 私も意地を張らずに「そうですよ」とでもいっていれば、問題なかったのですが、うそをいうのはいやで悩みました。


 精神科の先生に相談しました。


「どうしたもんですか。私を社長だと本気に思っているんですよ」


 精神科の先生は、いとも簡単にいいました。


「それなら社長になったらどうですか。仕事はちゃんとやったか?なんていえば、うまくいくんじゃないですか」


 さすがは精神科の先生です。臨機応変に、社長になったらいいとアドバイスをしてくれたのです。


 それから私は、“社長”となりました。


「社長さん」


 患者がいってくると、


「A君、どうかしたかね?」


 社長のつもりで答えるのです。


「ちょっと体がだるいのですが……」


「あなた、仕事は終わったの?」


「はい終わりました」


「そうですか、ご苦労さん。それで疲れたんじゃないの」


「そうかも……」


「じゃあ、ベッドで少し休みなさい」


 こんな調子でことあるごとに、“社長さん”を利用しました。


 患者が治療でいうことを聞かないときなど、


「だめじゃないか、社長命令だ。ちゃんとやりなさい」


 社長命令を下すと、


「はい、わかりました」


 素直に応じてくれるのでした。


 まもなくして、患者さんは糖尿病の治療をきちんと受けて血糖も安定し、めでたく退院していきました。


 私は最後まで、“社長”でいたのです。


〈つづく〉

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