第78話 患者もいろいろ-ホスピスの日々-輸血はしない

 これはホスピス医療をやっていた時に経験した、最も悲しくてやるせない事例でした。


 それは5歳ぐらいの男の子でした。


 急性白血病にかかったのです。


 県立がんセンターを受診したのですが、宗教上の理由から診療を拒否されたのです。


 両親は「エホバの証人」の熱心な信者でした。(⇒豆知識)


 ご存知のようにエホバの証人は、輸血を禁じています。どんな重病であっても、輸血を行なうことは、教義上、許されないのです。


 白血病の治療は輸血を前提として行うので、がんセンターでは診療を拒否されたのです。


 どこの医療機関にあたっても同じでした。


 そこで、人づてに聞いて、私たちのホスピスに来たのです。


 何か少しでも治療してもらえないかと、すがるような思いで、両親はここに息子さんを連れて来たのです。


 初めてホスピス病棟で患者さんに会った時、私は絶句しました。


 いたいけな男の子は、自分の置かれた事情が分からず、はしゃいで廊下を走り回っていました。


 その底抜けに明るい笑顔が、 かえって私の胸を締め付けました。


「こんな幼い元気な子供を治療しないとは、一体どうなっているんだ!」


 天をあおぎました。


 ちょうど私の息子も同じぐらいの年齢でしたので、それが重なり絶句してしまったのです。


「本当にここでいいんですか!」


 思わず両親に向かって叫びました。


 両親は無念な思いを押し殺し涙声で、


「覚悟を決めてここに参りました……」


 キリスト者である私は、信仰と現実のはざ間で苦悩する両親の思いが手に取るように分かり、嗚咽しそうになったのです。


 私は前から、「エホバの証人」の輸血拒否はよく知っていました。無駄だと分かっていましたが、輸血拒否を撤回して治療を受けるよう、両親を説得しようとしました。


「十分承知の上で、お願いに上がりました」


 両親も私も、話しながら泣いていました。


 急性白血病は、適切な化学療法を行えば寛解(臨床的にコントロールされた状態)する病気なのです。しかしその途上で、重度の副作用が生じて貧血が出た時は、輸血を必要とするのです。


 私はがん治療の専門ではありません。


 がんセンターをはじめ、色々な病院の医師に電話をしました。やはり断られました。輸血を前提としない白血病治療は、専門家の間ではありえなかったからです。


 恥ずかしながら勉強不足で、骨髄移植の実際について私はよく知りませんでした。骨髄移植は、骨を取って埋め込むかのようにイメージしていたのです。


 なんとかこの子を助けたい一心で、私はがんセンターの医師に輸血なしに骨髄移植はできないか尋ねたのでした。


「おとといおいで」


と言わんばかりに笑われました。


 骨髄は血の塊なのです。専門家からすれば、「何をこの医者は寝ぼけたことを言っているのか」といったところでした。


「こんなあどけない子供の治療に、専門でもない自分が手を染めていいのか……」


 自問自答しながら、私はがんの化学療法の本を買って読みあさりました。


 いくら専門書を読んだからといって、すぐ治療技術がつくわけがありません。 しかし、それしか手がありませんでした。


 患者は白血病とはいえ、貧血が中等度に見られるくらいで、はたからは元気な子供に見えました。病棟内をまるで自分の家のように、大声を上げて遊び回っていました。


 なるべく副作用の少ない抗がん剤を選びました。白血球が強く減少すれば感染症で死亡してしまいます。少量ずつ使ってみたのです。


 治ることはありませんでしたが特に強い副作用も出ず、しばらくは落ち着いた入院生活でした。


 夕方に家族が病室にやってくると、キャッキャッキャッキャッと声を上げて、走り回っています。


 3か月ほど経った夕方でした。急変しました。意識を無くし心肺停止が来たのです。


 とんでかけつけましたが、すでに死に顔でした。心肺蘇生をする間もありませんでした。


 出血傾向があったので、脳出血を起こしたのかもしれません。


 茫然と立つ両親の傍らで、


「お兄ちゃん、お兄ちゃん……」


 兄の身体を揺すって泣き叫ぶ弟の声が、病棟じゅうに響き渡りました。夕暮れ時の薄暗さが、さらにその悲愴さを倍加していました。


「ほんとうに残念です。何といったらいいのか……」


「いいえ、ありがとうございました。私たちも覚悟の上のことです」


 両親は、頬をつたう涙をぬぐおうともせず、深々と頭を下げられました。


 スタッフもみんな、頭を垂れてすすり泣いていました。


 キリスト者である私は、宗派こそ違いましたが、


「神よ、彼らの強き信仰を祝福してください」


 そう祈らずにはおられませんでした。


*豆知識


①エホバの証人(エホバのしょうにん、英: Jehovah's Witnesses)はキリスト教系の新宗教。ものみの塔聖書冊子協会などの法人が各国にあり、ほぼ全世界で活動しており、「神の王国」という国境なき世界政府の確立を支持している。


 聖書は主に新世界訳聖書を使用している。キリスト教主流派が重要視する基本信条を否定しているため、主流派から異端とされている。一般的には熱心な伝道活動を行うこと、輸血を拒否すること、戦争に参加しない事などで知られている。


参照:Wikipedia


②骨髄移植(こつずいいしょく、英: Bone marrow transplantation)は、白血病や再生不良性貧血などの血液難病の患者に、提供者ドナーの正常な骨髄細胞を静脈内に注入して移植する治療である。


 移植に先立って、患者の造血組織および腫瘍化した細胞を根絶するため、大量の抗がん剤投与および放射線照射が行われる。 これを前処置といい、患者の造血機能を完全に破壊する為、その後必ず移植を行わないと患者は死亡してしまう。 その上で、ドナーの骨髄液(造血幹細胞)を静脈から注入する。


 移植といっても、外科手術的操作は行わない。順調にいけば2週間ほどで輸注したドナーの造血幹細胞が生着し正常な血液を造り出すようになる。


参照:Wikipedia

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