第60話 患者もいろいろ-胸痛 その3

 これは失敗談です。


 医者なら誰でも失敗談はあるものですが、訴訟沙汰になるものは、そんなに多くは経験しません。(←(^ω^)あんまり多い医者はヤブだよね)


 大体は双方の信頼でそれを克服することができるのです。しかし、あまりにはっきりとした間違いを起こすと、どうすることもできません。


 私も、訴訟になっても仕方のない事例に遭遇したことがあります。


 ある時、私が午後の外来を始めようと外来診察室に入ると、隣室のベッドに、中年の女性がうめきながら横たわっていました。


「どうしたの!」


 私は驚いて、外来の看護師に問いただすと、


「胸を苦しがっています」


 午前中に1度、胸痛で外来を訪れています。しかしその時の外来担当医は心電図を取って、特に異常所見がないので、何の処置もせずに帰してしまったのです。


 ところが家に帰って、再び激しい胸痛が出て、うちの病院に駆け込んで来ました。


 ちょうどその時、私が外来室に来たのです。


 その話しを聞いて私は、すぐ心筋梗塞を考えました。


 血管ルートを確保して心電図を取っている最中に、患者は白眼をむいて急に意識を失いました。心肺停止を来たしたのです。心電図は心筋梗塞の典型的所見ST上昇を呈しています。


 待合室は騒然となりました。


 午前中の担当医を呼ぶとともに、私は気管内挿管をし、心臓マッサージと人工呼吸を行ったのです。


「ついに、やってしまった!」


 その時、私は心の中で叫んでいました。


 午前中に来たときには、心筋梗塞に進行する危険性大の不安定狭心症だったのです。


 狭心症は症状が治まると、心電図上には大きな変化が出ません。油断しているとついつい見逃してしまいます。しかしそれに注意してさえいれば、入院させて様子を看た方がベターだということが分かります。


 その10年ほど前に、私は同じような経験をしています。その時は入院させました。


 様子を観察していると、翌日早朝、心筋梗塞を起こしたのです。そこですぐ心カテができる高次病院に搬送し、事なきを得ました。


 その時家族は、


「入院しているのに、なぜこんなことになるのだ」


 すごい形相で迫ってきました。


「こういうことが時にあるために、入院させて観察していたのです」


 そう説明すると、家族も納得してくれたのです。


 もしその時入院させないで、自宅で急変でもして亡くなっていたら、まず訴えられていたことでしょう。


 今回の場合もそれとまったく同じです。本来なら入院させて様子を看るか、あるいは心カテのできる高次病院に紹介すべきところなのに、何もせずに帰してしまったのです。


 心臓マッサージで心拍は再開したので、私は高次の救命救急センターに電話を入れました。


「そういう病状では搬送中に死亡してしまう危険が大きいので、動かさないでそちらで治療している方が良いと思います」


 相手の医師は旧知の仲でしたので、そうアドバイスしてくれました。


 私はその電話のやりとりを、遅れてやって来た長男さんに聞こえるように、わざと大きめの声でしました。それは、「そこまで手を尽くしました」という病院の姿勢を示す、一種のデモンストレーションでもあったのです。


 長男さんはその説明を聞いて了解してくれ、患者は搬送せずにそのままうちの病院で診ることになりました。


 人工呼吸器につないで、循環器専門の医師に治療してもらいましたが、それから数時間後に、その患者さんは死亡したのです。


 このケースは、不安定狭心症の見落としをつかれれば、間違いなく訴訟になったものでした。


 胸痛は、外から見たり触っただけでは分かりません。ところが、病気によっては致命傷となるものがあるだけに、胸痛の診断は正確かつ緊急を要するものとされているのです。


* 豆知識


①心肺蘇生(CardioPulmonary Resuscitation: CPR)のABC


A:Airway(気道確保)口の中に異物があれば除去し、頭部を後屈させ、顎先を挙上することにより、気道を確保します。


B:Breathing(人工呼吸)鼻を押さえ胸部がふくらむよう、マウストゥーマウスで息を吹き込みます。


C:Circulation(心臓マッサージ) 胸の真ん中の胸骨に、手の付け根を置き両手を重ねて、肘を真っ直ぐ伸ばし、100回/分くらいの速さで、5cm以上沈むように圧迫を繰り返します。童謡の「どんぐりころころ」のリズムがちょうど良いようです。別に歌う必要はありません。(←(^ω^)当たり前)


②血管ルートの確保とは、静脈(末梢静脈または大静脈)に、カテーテル(軟らかい中空の管)を挿入して、薬剤注入がすぐ出来るようにすることをいいます。

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