第2話
針で刺すと、眠りを誘う場所があるらしい。しかし、それだけで、ことりと眠りはしない。アズミールは薬も使う。
愚かしいと、リューズはそれについて批判めいた愚痴を述べていたが、名君の誉れ高きあいつも、自分の玉座がある場所では、独裁者ではない。部族の伝統を破壊して、何事も我が儘に推し進めるというのは無理なものらしい。
俺はお前のような、我が儘勝手な暴君ではないからなと、リューズは恨めしげな流し目で睨み、異国の都サウザスで、愚痴愚痴と話していった。我が宮廷には太祖の昔より、厳然とした序列がある。それに従った、分相応というものがある。最下層の任にある者も、玉座に座す族長も、自分の序列に準じた箱から出てはならないというのが、厄介ではあるが、やむをえぬ秩序というものだ。
秩序。忌々しいが、極めて重要なこれを、決して乱さぬように、それでいて、諸悪の根源となる病巣を、患者を生かしたまま切り取る手練れの医師のように、改革は行われねばならない。野蛮な長剣でなぎ払い、ぶった切るような、お前のやり方は野蛮なのだ。
ヘンリック・ウェルンは野蛮な男だ。蛮勇ばかりが異郷に聞こえ、人は皆お前のことを、交渉よりも剣と血で、物事を推し進める野卑な男と思いこんでいる。左利きのヘンリック。お前も秩序に添って事を進める手際を学ばねば。きっとまた、泣き所を突いてこられる。孕み女を殺されて、その次は誰か。可愛い遺児の手足の指を、一本ずつもがれるような事にならねば良いが。
お前が自分で信じていたように、そうなっても顔色一つ変わらない、非情な男であればいいがなあ、我が友マルドゥーク。俺もかつては自分のことを、血も涙もない王宮の毒蛇と、勘違いをしていたが、妻子を虜囚にとられ、もしも敵の獄吏が間違えず、切って落として送りつけてきたのが、可愛い息子の指のほうだったら、きっと正気ではいなかっただろう。発狂していた。なにしろ高貴で繊細な神経の血筋なのでな。
お前は野蛮な奴隷の出だから平気だろうか。それが本当だかどうだか、試してみることにならねばよいが。なんせ死んだらそれっきり、たった二人しかいない息子なのだろう。俺には息子が十七人もいて、それでも二人も死んだらつらい。それで全部のお前には、きっともっとつらいのだろうなあ。
しかし安心しろヘンリック。お前の息子はまだ死んでない。母が死んでも平気で生きている。寄る辺はなくても命があれば、子供は勝手に育つ。それでも誰か守る者はいてくれたほうが、何倍も気楽だ。お前もまだ、発狂している場合ではないのじゃないか。
にやにや心配げに苦笑して、目の前にしゃがみ込み、頬杖をついて話すリューズの長広舌が、夢に出てきた。
悪夢の類だろうかとヘンリックは思った。
離宮でヘレンが毒死して、その後、どれくらい経った後か、呆然と過ごしていると、リューズが現れて、ぺらぺらそう喋った。そして、堪えがたいというように、さらに苦笑し、持っていた絹の布で、口元と、白い鼻先を覆って言った。女を墓に埋めてやれと。
あれはもう、死んでいる。寝ているのではない。死体だ、ヘンリック。見て分からないのかと。
分からないなら、それもやむを得ない。お前はもう正気じゃないのだろう。しかし見せるな、子供には。子供は俺が貰っていってやる。それが嫌なら、早々に正気に返れ。さもないと、譲位することになるぞ、ヘンリック。族長冠と首を奪われる。そうなったら、お前の子らはどうなるんだ。
俺はもう帰るが、よく考えろ。俺も新しいマルドゥークが好きとは限らん。
さらばだ友よ。また会おう。そう遠くない、いつかの日に。
信じているぞと励ますような、苦々しい笑みを残して、立ち去る様子のリューズの姿は、
離宮でヘレンが死んだのは、やつの息子が虜囚にとられたのよりも、ずいぶん前のことなのだから、それを同時に話しているわけがない。
だからこれは夢なのだろうが、まるでその場にいるようだった。真っ暗な闇だけの中に、その闇から生まれ出たような黒髪と、黒衣のリューズが立っていて、もう立ち去りそうだった。
いつだったか、何でもない用件にかこつけて湾岸にふらりと物見遊山に現れて、ではまた会おうと、いつも通りに帰っていったが、それが本人を見た最後で、あれから何年も、一度も海辺に現れていない。使者や手紙は頻々と送ってくるが、それだけだ。
かつては玉座を留守にしても、代わって宮廷を切り回していた乳兄弟の兄がいたが、それが死んでしまって、もういないので、代わりの留守居を決めかねて、旅に出るにも腰が重いのだという話だ。
たぶん、さしものリューズも歳を食ったのだろう。四十路も間近ともなると、玉座を蹴って物見遊山に出るという気も薄れたのだろう。
たまには来いとタンジールに呼ばれてはいても、ヘンリックは
あいつもやっと大人になったのだ。口うるさい兄貴が死んで。守ってくれる者がいなくなったので、実は自分が家長だということに、突如として気がついたのだろう。
だが、しかし、また会おうと別れて、それきり今生の別れというのでは、あまりに愛想のない話だ。またどこかで、会う機会もあればいいが。離宮に激励に来た件の礼も、そういえば言ったことがない。実は何かと、返していない借りがあるのだ。
いつか言うからと、立ち去る黒衣の姿を眺めると、リューズはこちらを振り返り、にやりと人の悪そうな笑みを、白い顔に浮かべた。
それきりだった。
どれくらいの間か分からない。そのまま深く眠った。ぐっすりと深い、泥のような眠りで、もう夢も見なかった。
ごう、と風の鳴る音がして、それに煽られた何かが、けたたましく窓辺で転がり落ちた。びくりとして目を醒ますと、長椅子の脇に腰掛けを持ち出してきて座っていた
小卓に置かれていた蝋燭が、まだ火のついたままで、砂漠の趣味で作られた浅い真鍮の燭台の中で、もうじき燃え果てようとしていた。ゆらゆら揺れる灯火が風にくすぶるきな臭い臭いに混ざり、
深い眠りから醒めた気怠さと、深く眠った爽快感の両方が、体に残っていた。
ヘンリックが長椅子に身を起こすと、アズミールはこちらを見たが、起きあがるなとはもう言わなかった。とっくに針は抜いてあったらしい。着衣も直され、肌かけらしい綿布が、いつの間にやらヘンリックの体にかけられていた。
たぶんアズミールが側仕えの従僕を呼んで、持ってこさせたのだろう。眠りこけた族長ヘンリックが、風邪でもひいたらまずいということで。
生来、殴っても死なない質だ。居眠りしたぐらいで風邪などひくまいが、それも人の心遣いだろう。破れた屋根からの雨垂れに打たれるまま、びしょ濡れで眠っていた子供時代とは違う。今ではもう、うたた寝すれば布団をかける者がいるような、人並みのいいご身分だ。
「良くお休みで」
それで良かったという口調で言って、アズミールはそれでも、待ちくたびれたような顔をしていた。
椅子に腰掛け、手には薄煙を上げる煙管を握っている。
煙管を使って喫煙するのは、砂漠の民には普通のことだが、よくも異国の王宮の、族長の眠る部屋で、暇つぶしに煙をふかしたりするものだ。謙譲し、身分を弁えているようでいて、アズミールは案外ふてぶてしかった。それをやっても許されると考えている。
そして実際許されている。ヘンリックには、咎めようかという気は起きなかった。何とはなしに、この
「ぐっすり眠った。久々に」
「薬が効きすぎたかと焦り始めたところでした。お疲れのようで。どうしてお疲れなのに眠れないのか不思議です」
遠慮する気配もなく、煙管をふかして、アズミールはゆっくりと、淡く灰色がかった煙を吐き出した。それには、甘いような芳香があった。
その匂いには、覚えがある。
サウザスは内海に臨む貿易港でもあり、隣大陸から良質の
それも貴重な貿易品で、アズミールの故郷の黒エルフ領にも、隊商に積ませて運び込まれていく。かつては砂漠が煙りに霞むほど、大量の
リューズが市井での
今では奴の英雄たちが鎮痛のために使う
しかし湾岸では今も変わらない。酔いたい者は煙に酔っている。それがたとえ、禁令厳しきタンジールから送り込まれた、白い顔に蛇眼を光らす、族長リューズに仕える建前の
「実は閣下。先頃、本国より命令書が参りまして、我が玉座の君が、閣下が
アズミールは淡々と話した。
送りつけてから十年を越え、リューズも焦れたのだろう。こちらがあまりにも無反応なので。それで、最後に駄目押しと、揺さぶりをかけてきたのだろう。
「お
ふはあと煙を吐いて、
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