あまいゆめ
剣崎一
Story1「あの日の僕」
“ホームズは緊張した顔つきでランプをつけ、先に立って廊下を進んだ。二度ドアをたたいてみたが返事がないので、そのままハンドルを回してなかへはいっていった。私は撃鉄をあげたピストルを手に、すぐそのあとにつづいた――。”
「
「っ・・・・・・!」
背中から聞こえた声に、僕はほんの一瞬、肩が震えて声が出せなくなってしまった。それでもすぐに我に返って、長い、安堵のため息を吐いた。そして、
「
気になるところだけど、と思いつつ
窓から差し込む光が手元を漂っていて、暖かい。いかにも春らしい、のどかな昼下がりだ。
「ふふっ。やっぱり驚いたんだ。普通に声を掛けただけで、びくってなるなんて。いったいどんな面白い本を読んでいたの?」
優芽はくすくすと笑いながら僕の手元を覗いてきた。僕が読んでいたのは「シャーロック・ホームズの冒険」だった。
「へぇ。面白い?」
「面白いよ」
「怖くない?」
「怖くは、ないと思う」
「ふふっ。読んでみようかな」
「僕ももうすぐ終わるから、そしたら」
「そうね、読んでみる」
僕と彼女が小さな廃墟での秘密を共有して、もう三年以上が経つ。こんなにも長く、二人だけの秘密が続くなんて、正直、思いもよらなかった。それは、暖かな安心感のある日々で、僕は密かに嬉しく思っていた。
ただ一つ、僕の心を掠める不安があるとしたら、それは解決しようのない不安だった。
僕は、この小さな空間への安心か、それとももう一つの方にある安心か、どちらかを選び、どちらかを捨てる決断をしなければいけなかった――いや、この空間の安心そのものが、消えてしまうことさえも、考えなければならなかった。
「それにしても、珍しいね。優芽が僕のあとに来るなんて」
僕はその懸念を曖昧な笑みに変えて、振り返って優芽に微笑む。どの不安も、ただの不安でありながら、解決のしようがない。そう自分自身に言い聞かせながら。
「そうね、最近はやりたいことがあって少し遅くなっていたけれど、今日は律也よりも遅くなっちゃった」
カーテンを吹き抜ける風が、悪戯に微笑む彼女と僕との間をくぐり抜けてゆく。小柄な、それでも少し背の大きくなった優芽のロングスカートをふわりと揺らした。
実は、その言葉に、また僕は少しだけ焦った。
「そう、だったんだ」
上手く笑えた気がしなかった。もしかしたら、少しだけ、困ったような顔をしてしまったかもしれない。優芽を見ることも出来ずに、僕は本に視界を戻そうとした。
「ねぇ律也、これ・・・・・・」
刹那、優芽が少し焦るように僕を呼んだ。再び振り向くと、優芽は何か箱を差し出した。それは、白くて小さな箱だった。
「これは?」
受け取りながら聞くと、優芽は得意気に微笑んだ。
「開けてみて。テーブルで、慎重にね」
僕は首を傾げてテーブルに向き直った。優芽から受け取った白い箱をテーブルに置いて、静かにその箱を開けた。
その中にあったのは、ケーキだった。可愛らしいモンブランが二つ、綺麗に並べられていた。それは、モンブランと分かる見た目でありながら、珍しいピンク色のもので、春の暖かな微笑みを閉じ込めたような儚さを兼ね備えていた。
「甘いもの、平気だった?」
いつの間にかテーブルの向かい側に座っていた優芽が僕の目を覗いた。
「平気だよ。これは、優芽が作ったの?」
「うん、私の初めてのオリジナルスイーツ、一緒に食べよ?」
多分、美味しいからさ。そう言って優芽は少し照れたように目を逸らしながら微笑んだ。
そのとき、ふと初めて優芽と逢った日のことを思い出した。黒くて長い髪と透明感のある瞳は相変わらずで、それなのに彼女はあの日よりもずっと大人びていて、過ぎ去った日々の足跡が妙に痛々しく感じた。
・・・今日の僕は、少しおかしいのかもしれない。僕は余計なことを考えるのを意識的に止め、ピンク色のモンブランにフォークを立てた。
「いただきます」
僕はそのとき、言葉を失った。
しっとりとしたクリームと柔らかな生地を掬って口に運ぶと、甘い、ほのかな桃の香りが広がった。すぐに溶けてしまう食感と控えめな甘味が、花園に咲き誇る桃の花と同時に、儚く散りゆく桜の花弁を連想させる。
「・・・・・・どう、かな?」
少し時間を置いて、優芽が不安そうに口を開いた。
僕は少し考えあぐねた。それは、一言で美味しいと言うべきものではなかったから。食べたあとの、えも言われぬ感覚を、なんと言えばいいのか――。
「あまいゆめ」
「・・・・・・え?」
「あまい、ゆめの味がする」
陳腐な言葉で表現するのが嫌だったのかもしれないし、優芽ならばこの言葉でも充分に受け取ってくれると思ったのかもしれない。ともあれ僕が出した答えは、百の言葉を飲み込んだ、たった五文字の言葉だった。
「あまいゆめ、かぁ」
優芽はそう言って、そして僕に笑いかけた。
「そう、これからこのケーキは、あまいゆめ。決めた」
嬉しそうに、大切そうに‘あまいゆめ’と言う優芽を見て、僕は不似合いな哀しさを抱いた。どうして僕は今、こんなに哀しいのだろうか――。
「律也、最高の褒め言葉、ありがとう」
こんなにも、僕を見つめて笑う彼女に、何故か苦しく感じてしまう。いつか感じたことのある、それでもその時はどこか他人事のように感じていたもどかしさと痛み。朧気に、僕の胸の中の、どこか海底に沈んでいるそれは一体、何なのだろうか。
「私ね、パティシエになりたいの」
優芽が僕の目を真っ直ぐと見て言った。
「高校を卒業したら、隣町にある専門学校に通って、いつか、この作品をショーケースに並べてみたい」
夢を語る彼女に、僕ははっとした。僕の不安の正体が、海底に沈むそれが、目の前で顕になろうとしている。
「春色のモンブラン、優芽らしい作品だ」
いつもは心地好い空間が、今日は少しだけ苦しくて、窒息してしまいそうだった。
「実は、その将来も、少しだけ迷っているんだけ、ど?」
僕は優芽の話している言葉を遮って立ち上がった。視界に映ったたくさんの本が、何段にも積み上げられた本棚の中で息を潜めて固唾を飲んでいた。
「優芽」
きょとんとして僕を見た優芽が、驚いた表情で「え・・・」と声を漏らした。
僕は一体、どんな表情をしていたのだろう。
「同じ空間に住みたい。・・・って思って、あ、僕も、父さんと姉さんに薦められていたんだ。その、大きな病院のある隣町・・・・・・」
言いたいことがまとまる訳もなかった。柄にもなく、早口で捲し立てた話し方をしているのが自分でも分かった。
不安は、僕の胸に沈んでいたそれは、優芽自身だった。それは、きっと内の中で何度も思っていた痛み。
「この町に残るかも考えたけど、優芽が一緒なら・・・・・・いや、優芽と、ずっと一緒にいたいんだ」
僕は目をうろうろとさせながら、自分がいかに情けない物言いをしていたのかと思うと恥ずかしくなった。
優芽はそんな僕の言葉を聞いて、少し固まっていたかと思うと、不意に破顔して、肩を小刻みに揺らし始めた。
そして耐え切れないと言いたげに吹き出して、お腹を抱えて、呼吸が苦しそうなほど長く笑っていた。しばらく経って、
「そうだね、」
優芽は笑いすぎて出た涙を拭いながら、
「いままでずっと一緒にいたもんね。これからも、ずぅっと一緒にいようか」
と言って悪戯に笑った。そして、暖かいね、と、テーブルに置いてあったガラスの瓶を手に持って、話し始めた。
「私、迷ってたんだ。隣の町に行くだけなのに、パティシエになりたいって小さい時から思っていたのに」
そうだ、僕が立ち上がる前、優芽は迷っていると言っていた。新しい環境への不安は、一度経験している優芽だからこそ、いっそう強いのかもしれない。
「違うの、そうじゃなくて。律也が、この町に残るって勝手に思ってたからなの」
ガラスの瓶を両手で握り締めながら、優芽がそっと泣きそうに笑いかけた。
「僕が?」
「うん、この図書館に律也だけが来て、私だけが思い出になったら、せっかく‘あまいゆめ’を作っても、離れ離れになっちゃうのが嫌で・・・・・・」
ふぅ。と、優芽が目を閉じてため息を吐いた。そして、ガラスの瓶を眺めながら、
「でも、ずぅっと不安だったのに、なんだか馬鹿みたいだったなぁ」
と、頬をピンク色に染めて声を伸ばした。
「律也も同じこと、考えていたなんて」
優芽の微笑みに、僕も笑い返す。
テーブルに手を伸ばして優芽の名を呼ぶ。優芽は悪戯に笑って、小さな両手で僕の手をぎゅっと握り締める。離し難いな、なんて心の中でしか言えない僕は案外素直とは程遠いのかもしれない。
「律也ってさ、」
「ん?」
「変なところで笑わせるよね」
「やっぱり、おかしかった?」
「もちろん、お腹抱えるくらい笑っちゃったもん。でもね」
少し前の会話ではありえなかった安心感が空間を包んでいる気がした。
僕の声も、優芽の悪戯な笑顔も、
「今の私、すっごぅく、幸せだよ」
全てを止まらせてしまいたいくらい、暖かな幸せが僕たちを閉じ込めている。
「だからね、もう一回、しっかりと聞きたいな。ずぅっと一緒に――」
そのとき、優芽の声が遠のいて、僕は窓を吹き抜ける風にバランスを崩した。感覚は風に呑み込まれて、遠く、遠く連れ去られてゆく。
その空のどこかで、また愛おしい声が響いていた。
※「シャーロック・ホームズの冒険/コナン・ドイル/訳:延原謙」を冒頭で引用させていただきました。
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