鎮魂行

京濱高虚

聖句

 暖かい春の日差しが、少年のふっくらとした頬を照らしていた。と、彼の目覚まし時計代わりに使用している携帯が鳴るが、布団の中から生えてきた手がそれを鳴き止ませる。そんな、ゆっくりとした、時間が、流れて、いた。


      卍


 カチャ。玄関の扉が音を立てた。かと思うと突然、バタン、という音とともに何かが入ってきた。それは、生暖かい日差しに照らされた「繭にくるまった蚕」を見ると大声を上げた。

「望、今何時だと思ってんの!?」

 すると、その蚕――飛鳥望は飛び上がった。

「やっべ、今何時? てか今日何日? 何曜日?」

「四月三十日、木曜日、午前十時」

 そう言い放った望の母親に、

「何で起こしてくれなかったんだよ」

 と言い返すが、

「お母さんだって今帰ってきたのよ。帰ってきてセコムが入ってないから、変だと思ったら……」

 と反論される。望の母親は看護師である。それ故、夜勤当番の時は遅くなってしまうのである。

「いいから速く行く準備して学校行きなさい」

 言うと、家の固定電話が鳴り「ほら多分学校の先生からじゃない?」と電話に出ることを促される。電話に出ると案の定学校の先生だった。

「望君、今日はどうした? また寝坊か? 昨日は休みだったけど、ゴールデンウィークは一応明後日からだぞ」

「は、はい。今すぐ行きます」

 言って、電話を切ると未だに中学の教科書が散らばった部屋を見渡し、今日使う教科書などを拾い集め、鞄に入れる。それからちょっとしたパンを口に詰めながら寝癖を整え、家から飛び出した。そんなせかせかとした時間が流れ始めた。


      卍


 遅刻だ遅刻だ遅刻だ遅刻だ遅刻だ。僕は必死にペダルをこいだ。曲がり角、こちらに走ってくる若いカップルがいた。しかしそれを躱すことができず、あちらもこちらも転倒してしまった。男の方は躱せていたらしく、

「おい、速くしろ!」

 などと叫んでいる。すると向こうから、

「あ、あそこ」

 とこちらに走ってくる影がある。望は、これは厄介なことになったなと思った。

「大丈夫ですか? すみません」

 女の方にそう言うと「ちょっとあんた」と後ろから呼ぶ声にぞっとした。

「すみません」

 咄嗟に踵を返し、頭を下げる。

「あ、違うの。この人達、万引きでね。追い掛けてきたんだけど、物凄いスピードだったでしょ」

 と、息を荒げながら言う。

「で、もう一人は?」

 辺りを見渡すが、さっきの男はどこにもいない。

「可哀想に。捨てられたのね。ろくでもない男と付き合って万引きなんかするから、自業自得ね」

 女店員らしき人がそう言い放つ。

「あのさ、それより、学校はいいの?」

 万引き女に言われて思い出した。完全に忘れてた。自転車に飛び乗り再び漕ぎ始めた。


      卍


 教室に滑り込んだ時、三時間目はすでに始まっていた。万引き女とぶつからなければ、丁度二時間目と三時間目の間に来ることができたのに……。そう思いながら、教室の重いドアを開けた。

「お、望。どうした」

「先生、すみません」

 小さく言い、遅刻カードを手渡す。

「なんだまた遅刻か。まだ四月なのに遅刻が多いぞ。気を付けろ。明日から五月だからな」

「はい」

 友達やまだ名前も知らないクラスメイトからの視線を感じながら、溜息を一つ吐いて席に座った。


      卍


 授業終了のチャイム。と同時に望の周りに友達が寄ってくる。

「おい望。ちゃんと朝起きろよな。LINEもしたんだぜ」

 と虎太郎がまず話しかける。

「そう。あたし達みんなでモーニングコールしてたんだからね」

「持永にモーニングコールとか羨ましいな。俺も明日から寝坊しよっかなー」

 中学の時から仲良しの持永いくみが言うと、勝也が話に入ってきた。

「痛っ」と突然頭を殴られ振り向くと「ほらよ」と虎太郎がノートを持っていた。

「一回千円で計二千円な」

 一時間目と二時間目の授業ノートを手渡され、

「高っ」

 と反応すると、

「冗談冗談」

 と笑いながら返してくれた。

「おいおい、こんな奴にノートなんか貸さなくていいんだぜ。虎太郎は優しいな。そもそもノートなんてとらなくたっていいだろ」

 勝也が言う。

「ところでさ、今年のゴールデンウィーク、中学頃の同級生とバーベキュー行こうぜ」

「あ、いいね。じゃあ後で桐子達にも伝えとくね」

 勝也からの突然の提案だったが、計画はすぐに立てられ、早くも中学の同窓会という名のバーベキューをすることが決まった。


      卍


 放課後、駐輪場ではバーベキューの時の持ち物や食べ物を買ってくる担当が話し合われ、一段落つくと、

「じゃ、バーベキューの話、他の学校行った奴にも伝えとくわ」

 という虎太郎の言葉で締めくくられ、みんな自転車に乗り、解散となった。望も自転車に乗り、帰路についた。


      卍


 その帰り道、田舎の、人気の少ない、路地裏を通っているときだった。向こうに道路の脇に座って、煙草を吸っている人影が見えた。そんなことも気にも留めず、前を通り過ぎようとした。

「痛あっつ」

 急に感じた熱さ、というか痛さでバランスを失い、倒れてしまった。原因は、煙草の吸い殻だった。

「ちょっ、何だよこれ」

 咄嗟に振り払い、足で踏みつける。それから、煙草の吸い殻が飛んできた方を睨みつけた。

「お前は……。いいところで遇ったなぁ」

 人影は望のことを知っているのか、望の方を向き、立ち上がったかと思うと望のところへ走り迫った。突然の行動に望はびっくりし、腰を抜かし、地面に倒れ込んでしまった。胸ぐらを掴まれ、顔を近づけられてはっきりと相手の顔が確認できた。朝、学校へ行くときにぶつかりそうになった、万引き男だ。

「ふざけるなよ」

 と、顔にパンチを食らい、腹にキックを食らった。万引き男がもう一発入れようとしたその時だった。高く振り上げたその拳を何者かに掴まれた。

「ちょっ、何すんだ放せ」

 万引き男は振り向いて抵抗を見せる。

「おいおい、こんな所で何してんの? え?」

 それは、中年の男の声だった。

「ちょっとちょっと、拳こんな高く上げちゃだめでしょ。効率悪すぎでしょ。拳は胸の前で構えて殴る直前だけ力を入れなきゃ。無駄に体力使っちゃうよ。しかもまぁ、よくこんな細い腕で人を殴ろうと思ったね。逆に腕が折れちゃうんじゃないの? 朝ご飯ちゃんと食べてる?」

 と、腕を観察し始める。

「え?」

 突然現れて、路上で殴り方の指導を始めるその中年の変なおじさんを目の当たりにして望は、つい声が漏れてしまった。この人はこの万引き男の仲間なのか何なのか……。しかしその答えは万引き男の次の言葉で結論付けられた。

「うるせぇ。誰だおっさん」

 万引き男はそのおじさんが気を緩め、腕を観察している隙を突き、さっと手を引っ込め、おじさんに腹を向け戦闘態勢に入る。

「そんなに睨まないでよ。怖いでしょうが」

 と言うおじさんに、遂に万引き男は突きを入れる。が、それはおじさんには軽々と躱される。突きだけでなく、蹴りも食らわせようとするが、それも虚しく躱される。

「あれ、そんなので決まると思った? 決まるわけ無いでしょ。だって、全然腰入ってないじゃん。突く時はもっと肩を入れろって。肘で突くイメージでやらないと……。鍛えてないなー。明日から指導してあげようか?」

「おっさんと付き合ってる暇なんて無いんだよ」

 そう言い放ち、その場を逃げ去ろうとした瞬間、鈍い音がしたかと思うと、万引き男はその場に倒れていた。

「自分で立て」

 おじさんは低い声で万引き男に言い放ち、望の元へ近付いてきた。

「大丈夫かい? 少年」


      卍


 午後五時半。少年が自転車を押しながら歩き、その隣をおじさんが歩いている。やはり、人気の少ない道である。おじさんはがっしりとした体つきであるが、それと対照的に少年は腕が細く、ひょろっとしている。喩えるなら、大根ともやしか。

「なるほどねぇ」

 大根――おじさんが息を漏らす。

「だからって一方的に殴って人を痛めつけようってのは違うよな」

「はい」

 もやし――望が応える。

「でもさ、それって少年にも悪いところがあるんじゃないかな? 朝早く起きていれば……」

 望は少し驚いたような顔をしておじさんを見る。

「あ、いやそのさ、万引きがあった時間よりも早くその道を通ればよかったとかじゃなくてさ、朝、余裕を持って起きていれば、自転車を飛ばして学校に行くこともないだろ? そうすれば、向こうから走ってきた人がいたとしても躱すことはできるはずだ。そしたら、こんな事件に巻き込まれることも無かったんじゃない?」

 言われ、望は確かに、と納得した。

「まぁ、衝突したから結果的に万引きした男女は捕まったんだけどな」

 ドン、と肩を叩かれる。が、望が撫で肩であるせいかズルッと手が滑り落ちた。

「すみません。せっかく受験で頑張って受かった高校に、四月から遅刻するなんて……」

「あ、いや、俺に謝るなよ。あー、それよりさ、撫で肩だな」

 おじさんは肩から滑り落ちた手を見ながら言い、顔を上げて、

「もっと鍛えろよ」

 と言った。

「あ、は、はい」

 望は、顔を明るくした。


      卍


 五月五日。バーベキュー当日。大きな木々に囲まれ、小川の辺で、中学校同窓会が行われていた。

 男子がバーベキューコンロを囲みながら会話をしている。

「お前、どこの高校行ったんだっけ?」

「城北」

「あれ? ってことはお前らみんな城北」

「いや、俺は城南」

「俺、城西」

 隙を突いて、ややぽっちゃりとした男子が肉に手を出す。

「っておいまだそれ焼けきってねーよ! 生肉だよ、生肉」

「相変わらず食いしん坊だなぁ」

「相変わらずってまだ一ヶ月くらいしか経ってねーだろ」

「豚肉は生で食ってこそ勇者」

「いや、それただのバカ」

「そこはさ、どこの樊噲はんかいだよって突っ込むところだろ」

「知らねーし」

「ほら、そんなこと言ってるうちに焼けたんじゃね?」

「お、よっしゃ」

「っておいおい、俺の分だけ無いじゃねーかよ」

 と、肉をゲットできなかったのは生肉に手を出そうとした男子。

「早い者勝ちだから、一枚少なく焼いといた」

「椅子取りゲームじゃないんだし……」

「肉取りゲームとか面白すぎ」

「お、肉取りゲームか……。じゃ、お次は鶏肉ゲームかな?」

「面白くねーし、つまんねーし。こんなんじゃ生のまま食べときゃよかった……」

 と言うと笑いが起こった。


      卍


 女子はというと、バーベキューが行われている小川の辺を見渡すことができる高い場所で、いくつかのグループを作り、どのグループも木陰に集まり、その男子達の様子を見ながら静かに会話をしている。

「で、いくみの方はどうなの? 色々と順調?」

 中学の時の持永の親友、山元が訊く。

「勉強の方はまだ始まったばっかだから大丈夫だけど、部活がね……」

「あ、そうか部活かー。そういえば今日、部活で来れない人、結構いるもんねー。ところでさ、望と同じクラスなんでしょ? 最近どうなの?」

「どうって、そんなの私いちいち知らないし、そういう関係じゃないんだから」

 持永が強く言うと、山元はふふっと笑い、黙る。

「あれ? みんな食べないの? ほら、色々持ってきたからさ」

 と、そこへ虎太郎が焼きたての肉と野菜が盛られた皿を持ってきた。

「あ、ありがとう! さっすが虎太郎。気が利くね」

 持永は元気に応え、皿を受け取る。

「みんな、もう焼き始めてるから食べにきなよ」

 虎太郎のその言葉に、何人かの女子達はそちらへ向かった。しかし持永は、

「せっかく持ってきてくれたんだし、ここで食べようよ、ね」

「いや、俺は、みんなのところに戻るよ」

 背を向けようとした虎太郎に対し、

「えー。ここにいると落ち着くからいいのになぁ」

 と、ここにいるように促す。

「わかったよ」

 虎太郎が言い、そこに置いてあった持ち運びようの椅子に座る。

「え? あ、あれ?」

 山元が声を漏らす。持永と虎太郎が「ん?」と山元の方を振り向くと、

「あ、いやなんでもない……」

 と、少々声を震わせながら応えるのみであった。それから、持永と虎太郎と山元の会話が始まる。

 いよいよ食べ物が少なくなってきたところで山元は、

「ちょっと、みんなのところに行ってくる」

 と言い、踵を返してその場を立ち去った。


      卍


 さっき、男子達がバーベキューをしていた場所に山元が行ってみると、そこはすでに女子達が占領していた。

「あれ? 男子達は?」

「あ、なんかあっちに走ってどっか行っちゃったよ」

 山元の問いに桐子が応える。


      卍


 その頃男子達は、あり得ないものを見上げていた。

「なんだこれ?」

 全員が口を揃えて言う。

「さすがにデカすぎるな」

 木から木へ、木から木へと白い糸が右往左往している。

「もしかして、蜘蛛の巣?」

 確かにそれは糸の張られ方が蜘蛛の巣のようであった。しかもそのサイズは高さ四メートル、幅百メートルか。

「馬鹿、こんなにデカい蜘蛛の巣があるわけ無いだろ」

 即座に勝也がツッコミを入れる。しかし、やはり変だと思ったのか、怖くて逃げ出したくなったのか、

「ちょっと他の奴らにも伝えに行ってくる」

 と、その場を後にした。


      卍


「桐子!」

 向こうから勝也が走ってくる。

「あっちに、でっかい蜘蛛の巣が……」

「何、子供じゃないんだし、蜘蛛の巣ぐらいで報告しに来たの?」

 桐子をはじめ、そこにいた全員に笑われる。

「いや、それが普通じゃないんだよ。大きさが、ええっと、そう、幅が百メートルくらいあって……。取り敢えず来てよ!」

「えぇ。んなわけないっしょ。ねぇ」

 興奮しきってる勝也を前に、女子達は冷静であった。


      卍


「あれ? みんなどっか行っちゃったよ?」

 バーベキューをしていた女子達が勝也に連れて行かれた為か、虎太郎と話していた持永は、その妙な静けさに気付き、バーベキューコンロを見て言う。

「本当だ。どこ行っちゃったんだろう?」

 と、虎太郎はバーベキューコンロがある場所まで降りる。それを持永が追い掛ける。

 降りて周りを見渡し、持永が桐子達の後ろ姿を発見する。

「あ、あそこ」

 虎太郎は「うん」とだけ言って、持永と桐子達の後を追う。


      卍


「ここ、なんだけど……」

 勝也に言われ、桐子達は前を向く。それまで桐子は携帯で誰かにメールをしており、他の女子達は横を向いて友達同士で喋っていたので、目の前にあるそれに気付かなかった。

「これって……」

 その全貌を確認しようと、自然と目線が上下左右に動く。確かにこれは、蜘蛛の巣、かもしれない。

「え~!? 何あれ」

 後ろから声が聞こえ、後を追ってきた持永も到着したことが判る。一緒に来た虎太郎が、前へ進む。巨大な蜘蛛の巣の前まで進む。

「これ、蜘蛛の巣なのか?」

 虎太郎は言い、手を近づけた。

「あんまり触んない方が……」

 望が囁くように言う。

「大丈夫だって」

 何の根拠も無しに返す。そして、虎太郎はそれを触った。

「ほら、大丈夫だって。触った感じ、やっぱり蜘蛛の巣だね」

 触り、蜘蛛の巣の糸を指で切る。

「いや、蜘蛛の巣だとしても蜘蛛の巣じゃないとしても異常なんだってば……この大きさは」

 望が言った時、どこからともなくこちらに駆け寄ってくる足音がし、だんだんと大きくなってくる。

 次の瞬間「うわっ」と虎太郎がその場に押し倒された。虎太郎の上には黒い陰が乗っている。二メートル程の黒い陰。よく見るとそれは、大きな蜘蛛であった。恐ろしい、恐ろしいが誰も声を上げなかった。いや、誰も恐ろしさのあまり声が出なかった。

 一分経って、初めて声を出せるようになった。誰かの悲鳴を合図に、固まっていた体が動き出す。

「逃げるぞ」

「でも、虎太郎が……」

 勝也が虎太郎をその蜘蛛から引き剝がそうとして近寄ろうとすると、蜘蛛が勝也に向かって糸を吐く。吐くというよりかは、吹き矢の矢を飛ばす、といった感じか。

「うわっ、何だこれ。前が見えねー」

 顔面に糸が付く。どうやらそう簡単には近付けないようだ。

「いい! いいからみんな逃げて」

 蜘蛛の下敷きになりながら虎太郎が必死の思いで声を振り絞る。

「駄目だよ、虎太郎。そんなの駄目」

 持永が叫び、虎太郎の元へ駆け寄る。白い糸を顔面に掛けられる。しかし、めげずに走り続ける。何度も掛けられ、地面に張っていた木の根っこに足を奪われ、転んでしまった。持永は俯せのまま、顔に付いた糸を取り払い、とうとう目前に迫っていた虎太郎に手を伸ばす。が、あとちょっとのところで手が届かない。

 蜘蛛は人間の無力を知ったのか、次は虎太郎に目を向ける。誰もが直感的にまずい、と思ったが動けなかった。それはまるで金縛りに遭っているようだった。いや、本当に何者かの力で金縛りに遭っているのか。何が起きていても不思議ではない。

「ぐはっ」

 虎太郎が、血を吐いた。


      卍


 そこに残ったのは、血と肉と骨の原形を留めない無残な姿であった。しかしそれを前にしながら、誰もその場を離れられなかった。顔を動かし、目線を逸らすことはできた。だがそれ以外はできなかった。しなかった。

 すると今度は持永をターゲットにしたのか、蜘蛛の視線が移る。望は危険を察知し、無意識に大声を上げ、持永に駆け寄っていく。

「うをーーーーーーーーーーーーー」

 と目の前を何かが横切った。同時に巨大な蜘蛛が吹き飛ばされる。

「早く逃げろ!」

 目の前を横切った、蜘蛛を吹き飛ばした【彼】がそう叫ぶ。しかし、混乱しているのか、誰も動こうとはしない。

「危ないから、早くしろ! 逃げろ速く!」

 筋肉の付いた、頼れそうな後ろ姿に促され、勝也たちは走り去る。望は取り敢えず、持永を立たせようとした。

「だ、大丈夫?」

 しかし持永からの返事は無い。目は開いている。ショックで口元が小刻みに震え、何か言葉を発したいけど発せない。そんな様子が伝わってくる。

「立てる?」

 と肩に手をやり、立たせようとする。

「ごめんね。ごめんね。足が……転んで足怪我しちゃって……」

 視線が定まらない目に涙を浮かべ、震え声で言う持永に、

「わかった。一旦ここを離れよう」

 と望は応え、持永の肩を抱えながら歩き出す。

 ドスッと言う鈍い音の後、

「お前も、早く走れ!」

 と【彼】が再び望達に近付いてきた蜘蛛を叩き落とし、望の方を振り向いて怒鳴る。望は顔を見、驚いた。そこには最近知り合った顔があった。そう、それは、

「おじさん!」

 奇跡の再会に感動した望だが、

「走れ!」

 と、あの時の優しそうなおじさんはどこへ行ったのか、望はその力強い目に怒鳴られる。

 走れと言われても、持永の肩を抱えている為そう簡単には走れない。が、なるべく速く立ち去ろうと足を速める。後ろからは、戦いが始まったのか鈍い音が聞こえてくる。


      卍


 おじさんと呼ばれた彼は、化け物を殴り続ける。

「おいおい今日の蜘蛛は元気がいいな」

 おじさんは、自分自身で発した言葉に、嫌な予感を覚えた。まさか、と蜘蛛の口元をよく見ると、案の定赤く染まっているのが確認できた。それから辺りを見渡し、蜘蛛の巣の手前に赤い肉の塊が在るのを発見し、

「お前なぁ!」

 と、化け物の顔面に一本突きを食らわせた。化け物の、八本もある足の内一本を掴み、根元からへし折った。

「なぜデカくなる必要がある? なぜデカくする必要がある?」

 叫びながら、更に化け物に攻撃を加えた。その後も足を折り続け、八本全てを折りきったところで最後に突きを入れた。化け物は動きを停め、数秒後に爆散した。

 爆散――バケツの水をひっくり返した時のような音とともに土の塊や枯れ葉となって四散、したのである。その時枯れ葉は、蝶が舞うようにして、地に落ちていった。


      卍


 バケツの水をひっくり返したかのような音が後ろから聞こえ、望はびっくりして後ろを振り向く。そこ立っていた人間の目は、日の光の反射のためか、光っているように見えた。

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