茶色
溝から離れた場所に運ばれた茶色を心配げにのぞきこむガキどもが何重にも取り囲んでいた。
茶色の胸に耳を押し当てていた少年は、茶色が目を開けたことに気がついていなかった。
ゆっくりと手を持ち上げ、少年の肩に置いた。
「どうした?」
茶色が少年に聞いた。
少年は身を震わせてから顔を上げた。その目が赤くなっていた。
「ひでえ顔してる」
茶色はかすかに笑ったあと、大きく息を吐いた。
少年は泣いていなかった。涙はまだ出せなかった。何もかも、最後まで見ていたかった。
「あの、鉄筋を曲げる奴、奴が、やらずに死ぬのがいけないのかって言ってただろ、あれが今なら分かる」
茶色の声が小さくなっていた。
「いいんだな、それでも。やらずに死んで悪いことなんて、ひとつもない」
「なに言ってんだよ。まだ死ねないって言ってたじゃないか」
少年の声が詰まった。言葉が続かなかった。言いたかった。一緒に宮殿に行こうと言いたかった。そのために必要なものは何もかも用意した。すぐにでも行ける。
「どうして」
少年は搾り出すように言った。
茶色は胸元に手を入れ、首にかけた紐をなんとか外した。
「次に会うまで持っていてくれ」
茶色は紐につながれた笛を少年に手渡した。
少年は笛を強く握り締めた。
「疲れた」
茶色は上を向いて目を閉じた。
「なあ、オレにも名前を付けてくれよ」
目を閉じたまま茶色が言った。
少年は答えなかった。名前を付けてしまうことが怖かった。
「生きてるうちに名前が欲しい。自分が、どんな名前で覚えられるのか、知っておきたい」
茶色の声は静かだった。
「できない」
少年が言った。
茶色は答えなかった。
少年は慌てて茶色の耳に唇を寄せた。
「大丈夫?」
「やめろよ、くすぐったいよ」
茶色がわずかに身をよじった。
「名前、頼む」
茶色は目を開けた。
「できない」
「名前」
茶色は笛を握った少年の手にそっと触れた。
「名前」
茶色の目がまっすぐ少年を見つめた。
その目を見てしまうと、もう断れなかった。
少年は目を伏せ、小さく息を吐いた。
名前は自然に浮かんできた。
いや、会ったときから少年は、心の中で、ずっとその名前を呼んでいた。
「茶色」
「え?」
「茶色」
「名前?」
「そう」
「髪の毛の色だ」
茶色い髪をした優しい顔の若者は満足げに微笑んだ。
「そう」
「いい名前だ」
「うん」
少年は溢れ出る涙を止められなかった。若者の顔が見えなくなっていた。
「オレのことを忘れないでくれ」
若者が言った。
「忘れないよ」
少年が答えた。
若者は少年を見つめていた目を上に向け、世界を覆う灰色の丸天井を見上げた。
「続いてるんだな」
若者はたった今それに気がついたかのように言った。
「疲れた」
若者は静かに目を閉じた。
痩せた胸が大きく持ち上がり、やがて吐き出す息とともに静かに沈んでいく。
胸の動きが止まった。
少年は若者の耳に口を近づけ、その名前を何度も呼んだ。
若者の閉ざされた目からこぼれた涙が一滴、埃にまみれた頬を伝わり地面に落ちた。
乾いた地面に、小さな黒い染みが広がった。
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