おじさんと図書館へと向かう途中の道すがら、少年はどこかに通じる道や扉が無いか真剣に探していた。

 鍵のかかった部屋から降りる最初の階段の途中には他の場所に通じる扉は無い。茶色の見つけた通路は地下に降りてすぐだった。この階段とは直接つながっていないはずだ。

 フードをかぶり音の壁を越える。初めてここを越える時、ひどい目にあったことを思い出す。身震いした。あのまま音に押しつぶされていたらどうなっていたのだろう。

 音の壁を越えた先の広い空間を、おじさんはホールと呼んでいた。ホールの高い天井から降り注ぐ照明のきらめきと床の美しさにはいつも心を奪われる。

「ここは本当に綺麗だよね」

 つややかな床に触れた。

 おじさんは少年を不思議そうに見ていた。

「ここが、綺麗?」

「うん。すごく綺麗だ」

 おじさんは少し考えてからホールの一角に向かって歩き出した。

「そこにいろ」

 少年は広いホールの片隅に立ち、反対の隅へと向かうおじさんを見守っていた。おじさんは何をしたいのだろうか。

 おじさんは場所を確かめるようにうろうろとしていた。ようやく一箇所に落ち着くと、少年の方を向き、手を叩く。

 驚いた。

 一度しか手を叩かなかったはずなのに、その音が繰り返し聞こえる。しかも、手を叩いただけのはずなのに、一つ一つの音が伸びやかに、艶やかに、豊かに、聞こえる。

 おじさんが声を出した。

 いつもの話し方とは違う。

 声をつなげ、高さを変え、言葉と言葉の合間合間を同じような長さで繰り返す。

 その声。声が、さっきの手を叩いた音よりもさらに豊かに、少年の心に直接響いてくる。

 懐かしい。

 その言葉は文字で読んで知っていた。けれど、懐かしいという気持ちを少年は今まで理解していなかった。

 少年の中で何かが動いていた。茶色が言葉を思い出していく時の気持ちはこれなのだろうか。もしかしたらそこにいることになるかも知れない未来、いや、そこにいたかもしれない過去。記憶の奥底にあるものがゆったりと蘇ってくる。とっくの昔に失ってしまった記憶の僅かなかけらにそっと触れるような、そんな感情がこみ上げてくる。

 おじさんは突然、声を止めた。

「悪いが、これ以上は。歌はあまり歌わない。音楽はよく分からない」

 おじさんはばつが悪そうに頭をかいた。

「あれが、歌?」

 楽器庫を通過しながら少年がおじさんに聞いた。

「そう、歌だ。長いこと歌っていなかったが、歌だ。ホールは音楽を、歌もだ、演奏する場所だったんだな」

 おじさんも何かを思い出していることが少年にはよくわかった。

「これもホールで使うはずだ」

 おじさんは珍しく楽器庫の楽器に触っていた。

「歌も音楽なの?」

「歌は、そうだな、歌も音楽だ。ただ、今歌ったような歌は楽器を使って奏でるような音楽とは少し違う。もっと簡単なものだ」

「楽器を使った音楽ってどんなの?」

「楽器を使った音楽は……、いや、よくわからない。ワタシは楽器はできない。歌は、そうだな、歌は歌っていた。今の今まで思い出せなかった。いつの頃かは分からないが、確かに歌っていた」

「今度、教えてよ」

 何かを思い出す話をするとおじさんの頭痛が始まる。少年は先回りして話題を終わらせた。

「そうだな、いつか」

 おじさんは何かを思い出している時は苦しそうだ。何かを思い出せなかった時は悲しそうだ。

 今は、少しだけ悲しそうに見えた。

「時間を取られてしまった。先に進もう」

「うん」

 ふと、居住区では音を出すなと言っていたおじさんが地下では平気だったことに気がつく。地下でならいいのか。そういうことか。

 少年は壁の丸いガラスに向かって手をかざし壁を動かした。

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