名前もない感情を…
ふらふらとした足で朝日の中、帰路をたどる。
いつもより明るい道だが、やっぱり人通りの少ない。
朝の澄んだ空に朝鳥が線を引いた。
道なりに並んだ住宅もしんと静まり返っている。
囲う生垣からみ出す草木の枝先にはもう時期を終えた萎れた花弁が揺れていた。
とぼとぼ家へ向かうスーツ姿の俺。
なに一つ変わらない、日常の一ページ。
「あー…、疲れた…。」
あれから実に5日経った朝だ。
この5日間、休みといった休みもなくがむしゃらに働いた。
何から何まで振り払いたくて。必死だった。
そうして、仕事にようやく一区切りがついて、帰宅を許された現在。
思い出すのはひたすら見つめた電光板と書類と数字ぐらいのもの。…それが常だった。
だと言うのに、俺の頭をずっと占めているのはたった一人の人のこと。
毎日飽きもせず俺を口説いて来るその子だ。
考えてみてわかったことだが、彼女について俺が知っていること…、それは案外少なくない。
活発ではあるが、心根はどこか大人しいというか、大人っぽい落ち着きを持ったその子。
まあ確かに年齢は四千いくらって言ってたっけ。さすが稀代のモンスターといったところか。
案外ノリがいいし、悪戯好きなとこがある。
蛇というだけあって、結構執念深くて計算高い。
自分の可愛さってやつを理解してるフシがあるというか、それをフル活用した色仕掛けを仕掛けて来る巧妙さである。
俺なんかじゃなく、普通の男にやったら一発で思い通り動いてくれることだろう。
料理が上手くて、日本に来たばかりという割には和食のレパートリーも多い。
綺麗好き。仕事が丁寧。面倒事も嫌忌しない。気が回る。
人じゃないけど、人の基準でいけば高スペック認定間違いない。
そんな…、短い期間で知り得たことにしてはあまりに多すぎた、ルシアというひと。
これだけのことを知っているのに、彼女を理解できないのが現状だ。
告白はもとより家に入れてからのルシアの行動からして彼女の言う「好き」とはそういう「好き」で間違いなくて。それには嘘は感じられない。
だからこそ、より一層わからなくなる。
「…なんで俺なんだろ。」
俺は清廉な朝の風の中でため息をつく。
わからないから、無意識に理解しようと近づいて…、後悔するんだ。
…ルシアがどんなに、想ってくれてるかがより顕著になるから。
ただそれが証明されるだけだから。
でも、今回のことでもうそんな事も無いのかもしれない。
だって、一緒に暮らしているうちにも笑ったり泣いたりと普通だった。
いくら齢四千年の大蛇だって、なにも心がないわけではあるまいさ。
…帰ったらもういないなんてことも、ありうるのだ。
それならそれはそれで好都合、だなんて強気な言葉が頭をかすめた。
我ながら余りに、…あんまりで、笑おうとして持ち上がらない口端に悪戦苦闘する。
ざあっと風が吹いて、切るのがめんどくさくてしばらく手入れをしてなかった前髪をさらう。
あぁ、そろそろ切らなきゃなあ。
そんな事を思いながら顔を上げて、
「あ。」
見えた青い色に足が止まる。
俺の部屋の見える公園の前を行く、影。
それが固まった俺を見つけて、綺麗に微笑んだ。
「あ、…お帰りなさい、洋介さん。」
小さく首だけで頭を下げて、ルシアはこちらにゆっくり近づいてくる。
大袈裟に身体が跳ねたのがわかった。
「る、ルシア?」
「えへへ、出る時体調悪そうだったので心配になって来ちゃいました。」
「…。」
「お身体は、その…大丈夫ですか?」
からりといつも通りを振る舞う彼女だが、少し思うところはあるのだろう。
いや、こちらがそうだから色眼鏡で見えてるだけかもしれない。
気まずそう、だと思った。
どこか笑顔が固いというか、いつもは流れるような所作がところどころ角ばってるというか。
でも、ルシアはそんな中でも器用に笑みを作って。
堪らず俺は口を、開く。
「大、丈夫だけど…。」
「それなら良かったですっ! いつ倒れちゃうんだろうって心配で心配で…。」
「…、そっか。」
俺の相槌を最後にやっぱり気まずい沈黙が流れた。
少し俯いた彼女のつむじがちょうどこちらを向いている。
俺はそれをただただ見下ろした。
小さく張られた肩も、もぞもぞと擦りあわされる細い指も、しかし唯一収まりどころの定まったままの長い脚も。
視覚情報だけが増えていく。
でも、
ようやく顔を上げたルシアは何かを振り切ったような表情で…。
ザワザワと胸の内がどよめきだした。
あの、と重そうに吐き出された声の後、
────ルシアが大きく息を吸ったから。
「えっと、この前はごめんなさ…「ごめん。俺が悪かった。」
言い終わる前に俺はそう言って頭を下げた。
何となくその先の言葉を聞きたくなかったのだ。
ルシアが瞠目する。
「え。」
「俺がもう少しハッキリするべきだったんだな。」
うんうんと一人頷いて、額に手を添える。
好きになる気もないのに家にあげて期待させた。それから無意味な時間を過ごさせた。
命と天秤にかけたって事を踏まえると仕方ないのだけど。
彼女は人間世界に疎いだけなのだ。
ちゃんと時間をかけて説得すればどうにかなったかもしれない。
その手間を惜しんだ俺にも非がある。
「悪かったよ。」
だから、そう謝罪した。
この前のことだって、俺が曖昧にしていたのがそもそもの原因だ。
ずっとダラダラと諦めてくれるのを待っていたんだ。
何故もっと当たりを強くして追い払わなかったかといえば、前に言ったように別に俺はルシアが嫌いなわけじゃないから…。
…いや、もうそれは言い訳だな。
俺は自嘲気味に笑った。
ああ、認めるよ、認める。ここまできたら仕方がない、腹括って白状するよ。
俺はルシアのことが好きだ。
あんな特殊な出会いをしておいて、同居人として、友人として、彼女が好きになってたんだ。
…ちゃんと好きだったんだ。
出会って半年経たないうちに何言ってんだか。自分でもそう思う。
春の初めに出会って、今はまだその終わりだ。
ルシアに流されてるだけだって言われてもしょうがない。
うるせえな、どうせ安い男だ。文字通り情が湧いたんだよ。
ルシアが笑うのが好きだ。
ルシアが作る弁当が好きだ。
ルシアがいる家に帰るのが好きだ。
ルシアがくれるたくさんの言葉が好きだ。
だから、
…傷つけたくないって思ってしまったんだ。
なるべく緩やかに、諦めてくれる事を祈ってた。
傷つかずに、泣かずに、後悔せずに、…できるなら嫌われずに。
離れていってくれればと思ってたんだ。
そんなんじゃいつまで経ったって宙ぶらりんでいることしかできやしない。
むしろ嫌いだったのは、そう…
彼女に応えられない自分自身。
「お前がそこまでするほど…俺、いい奴じゃないよ。」
俺は僅かに俯いて目を伏せた。
わかってはいるのだ。
ルシアを愛せたならきっと…俺は幸せなんだろうよ。
そんな風に思うのに、心のどこか深いところがダメだと叫ぶ。
一人の女性として想うこともできないくせに、ありもしない愛を謳うなんて。
まるでそれは今までの…。
昔の自分と彼女が重なって交わって。
そうとしか思えなくなったから。
俺はどちらにも踏み出せないまま、ダラダラと彼女の恋が冷めるのを待っていたのだ。
すこし自虐的に笑いながら俺はルシアから視線を逸らした。
ルシアが真摯な目で俺を見上げるから、その視線が苦しかったのだ。
でも、下を向いたってルシアが見えるから、顔の向けどころを悩んで。
結局遠く澄み渡った空を見上げる。
視線が合わなくったって、ルシアは言葉を吐いた。
「そんなこと…、ないです。今回のことは私が悪いんです。勝手に早まったりしたから…。」
申し訳なさそうに沈んだ声が地面に落ちて溶けていく。
まぁ、確かにそれもあるんだけどさ。
次の誰かに恋したときは相手にその気がないのに焦っちゃ駄目だぜ。
折角の美人なんだから、唇を安売りするもんじゃない。ちゃんと段階を踏むことをオススメするよ。
苦笑った俺に謝罪を受け取る気がないと察したのだろう。ルシアは唇をひき結んだ。
その歪めた顔が痛々しくて、ついつい情をかけてしまいそうになるが、
それでも、
「そうだとしても、もうこんな不毛なことはやめよう。」
「洋介さん…。」
オレンジ色のあの日、俺をソノ
後で又聞きした話だが、どうやら俺を棄ててまで望んだその女と結婚したらしい。
そんな風に、何も俺を選ばなくたって幸せにはなれるのだ。
なにもおれじゃなくても、いいんだ。
「ルシアには、もっといい人がいるよ」
その心根にも美貌にも見合う誰かが。
身を尽くして、心を砕いて、なお余りあるほどに満たしてくれる誰かが。
そんな俺には到底できないことをやってのけてくれる強い、ひとがきっとルシアには似合う。
でも彼女はそれを否定する。
「いません。」
「…ルシア。」
それを咎めるように名前を呼んだ。
でも彼女は止まらない。
「いないんです。洋介さん、本当に。本当にあなたしかいないんです。」
「…?」
ふふっとルシアが薄く笑んだ。
朝の爽やかな、しかし温まり始めた柔らかな陽だまりの中。
ルシアは涼やかな風に溶けて揺らいだ。
「ずっと、ずっと私の中には。あなた一人だけなんです。」
目を伏せて、胸に手を添えた祈るような格好になる。
遠くを想うように、深く息をしてもともと大きさのある胸を更に膨らませた。
そんな風に、ルシアが毅然と立っているから…、
ああ、またわからなくなる。
「なんで、…俺お前になんかしたか?」
「はい。とんでもないことをしてくれました。」
そう言ったルシアがくすくすと喉を鳴らした。
もちろん俺には、心当たりなんてない。
これまでルシアに出会った事は絶対にないはずだ。こんなに目を惹くひとを忘れるはずがない。
彼女どころかただの蛇にさえ、実物を見た記憶など無いのだから。
俺は首を傾げるばかりだ。
「なんだよ、覚えがないんだけど…。」
「ダメです、教えません。」
「は? なんで…、」
問い詰めようとして、息を吸い込んで…
そのまま呼吸が止まる。
「洋介さんが、私のこと好きになってくれたら教えますっ。」
それは、ふわり笑った少女の顔がどこか幻想的だったからだろうか。
ほんのり染まった赤い頰が俺の脳みそを現実から切り離したのか。
彼女を照らした朝日がドラマを観ているような気にさせたのか。
どこか、知らない場所に立っている気分だ。
彼女に目を奪われて、体が言うことを聞かない。
白い陽光のつくるリボンが、彼女の周りを取り巻いて。
ルシアの立つそこをいつもの帰り道から、ひたすらに美しいだけの朝焼けに変えてみせた。
「今更私から逃げようだなんて、無駄ですよ? おとなしく諦めてください。」
意味ありげにそう笑ったルシアは少女ではない。
気高く、力強く、底の見えない深い奥底をのぞかせながら立つそのひと。
…4000年を生きる蛇の化生が、眼の前で俺を見据えているのだ。
逃げられることも、傷つくことも、弾かれることも、苦しむことも、悲しむことも。
何もかも覚悟の上で恋をして、会いに来たのだ。
想いを捧げたのだ。だから、
───絶対に逃がさない。
そんな獰猛な本性を覗かせながら、俺をまっすぐに見るルシアの黄金に、囚われる。
その長い体に、捕われる。
「あなたは私に愛されてしまったので!」
どこからか吹いた風がルシアの藍色の髪をより一層大きく揺らした。
それは一瞬だったはずだ。
なのに、動きを止めた俺の脳みそがそれを処理するのに大分時間がかかったみたいで。
ぶわり広がる藍色、光に照らされた白い肌。
ほんのり染まった頰に、大きく笑った彼女の表情がよく映えて。
つまり一言でいうなら、そう…。
その瞬間は息を呑むほど、美しかった。
ただし、彫刻や絵画のようなものとして。
美術工芸品を見ているときの「美しい」だ。
悔しいことだが、それ以上では…なかった。
俺の中の性的な部分にかすりもしない。
その部分を動かすには彼女はあまりにもか細くて、女性的すぎたのだ。
俺は顔を歪めて言葉を吐く。
「俺は、お前に応えられないよ。」
「ふふっ、いつか縋ってくるほどにしてみせます。」
ああ、本当にどうかしてる。
「女とかありえねえって思うし、いくらやっても独り相撲だからな。」
「いつか二人相撲になりますよ。モチロン深い意味で。」
だってこんなの、何の意味もない。
「それは絶対ナイ。」
「そんなことないですよ。」
宙に浮いたままの関係をずるずる引きずってこの先も生きていく気か?
馬鹿馬鹿しい。
なんの生産性もないのに…。
「アリエナイ。」
「そうでしょうか。」
「そうに決まってる。」
それもいいかな、なんて…。
思ってしまってるあたりがもう救えない。
「まぁ、構いませんよ。結局呑み込むのは私ですから。」
「…ははっ、どーだか。」
ああ、でも…、
救えないなら、救われなくていいか。
このままでも充分俺は満足できる気がする。
ちゅんちゅんと空を行く鳥が俺たちの頭上で高らかに鳴いた。
さらり流れる薄い雲の下を、仲睦まじく飛んでいく。
それを俺は横目で眺めて、小さく息をついた。
少しずつ強くなってきた日の光のなか、ルシアが手を伸ばす。
「さて、そろそろ帰りましょうか。」
「…まだ人ン
まぁいいんだけどさ。
そう言って吹き出して、伸ばされた手をやんわりと払う。
その手を取る時がこれから先にあったとしても、残念ながらそれは今じゃない。
ルシア不服そうに頰を膨らましたが、諦めたのか息をつく。
俺の言葉に、当たり前ですと応えて通り過ぎていく俺の隣に小走りで並んだ。
早朝、と呼ぶには日の登りすぎた朝の街。
ゆらりぶらりと二人の淡い影が並んだ。
くっつくでも離れるでもなく一定の距離を保ったまま、俺の少し後ろをルシアの影が。ルシアの少し前を俺の影が。
人通りもまばらに多くなった道をくだらない談笑が続く。
「知ってますか? 蛇の歯は獲物を逃さないように内側を向いてるんですよ?」
「うっわ、そんな話聞きたくなかったナァ。」
けらけら笑った俺にニヤリと意味深な笑みを作ったルシアが視線を流す。
「毒を持ってるものも多くて一噛みで20人ぐらい殺せちゃう毒を出すものもいるんです。」
「へぇー、そらすげえなぁ。」
相手の意図が掴めぬまま俺は苦笑いをする。
何でもいいけど、思ってたより怖い生き物だってことがわかった。
結局、また曖昧なままになってしまった。
いい機会だからハッキリさせようと、終わりにしようと思っていたのだけど。
どうにも俺はものぐさらしい。
俺はこれからも、ルシアの奇行に悩まされていくのに。
そしてこれからも、ルシアを傷つけていくのに。
それでこんなモヤモヤするのが嫌なだけなのに。
何も伝わらなかったのだと肩を落とし、これからも続く日々の途方のなさに疲労感を感じたのも事実。
彼女が好きでいてくれることに胸のどこかでホッとしたのも事実。
「馬鹿みたいだ。」
そう一人ごちる声はきっと、隣にいるルシアにだって聞こえやしない筈だ。
聞こえていたって、別に構わないのだけど。
隣を歩くルシアは不穏な
「あとは…そうですねぇ、蛇って全身筋肉で出来てるので小型のものでも本気を出せば人なんて絞め殺せるんですよ?」
「ん? ねぇちょっと待ってなんの話?」
「今言ったみたいに毒や体で殺してから呑み込む
「ちょっと⁉︎ ホント待ってくれ! ストップストップ‼︎」
そう大声で叫ぶと、ルシアは楽しそうに笑い声をたてた。
どうやら今の今まで突っ込まれるのを待っていたらしい。
物思いに耽って突っ込むのが遅れたばっかりに、俺の方は自分の生命の行方を案じなければならなくなった。
「なんで今その
「やだなぁもう、ただのジョークですよぉ。」
「タチの悪いやつやめて! お前が言うと笑えねえんだよ‼︎」
お前からしたら笑い事だろうけど! 俺にとっては命の危機なの!
こんな話されたんじゃそんな意図なんかなくても意図を感じちゃうでしょーが‼︎
そんな俺の心を知ってか知らずか…、いや、絶対こいつわかってんな。
ルシアはそんな俺の心のうちを知った上で、
キラキラの光の中で微笑んだ。
「笑ってくださいっ。私、洋介さんの笑顔が好きなんです。」
「今のじゃちょっとどころかものすごく無理かなぁ。」
「薄気味悪い地獄の亡者のような笑顔が!」
「あ、ダメだ。早速ぶん殴りたくなってきた。」
鬱陶しいぐらい晴れ渡った空の下。
人々が家から目的地へと足を急がせる中、俺たち二人だけは帰路をたどる。
通りすがりにすれ違ったそのひと達のように、
行き当たりばったりで、
どこへ行くかも知れない、
とりとめなく通り過ぎていく、
明日になったら忘れるような、
くだらない言葉たちが、続く…、続く…、続く…、
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