ギリギリ1分前




「最ッッッ高に残念な朝だ!」



 バンッと机を乱暴に叩いた。

 あまりの失望感に俺のもともと無いようなツラの皮なんて無残に剥がれて、あるのは赤裸々なブロークンハートのみだ。

 俺は慟哭する。



「どうしてっ! なにが悲しくてっ! 脂肪の固まりなんか押し付けられて起きなきゃいけないんだ! どうせ隣にいるならお兄さんがよかった! 逞しい胸板に包まれていたかった!」



 ふわりと香るバターの香り。爽やかな春の陽気。

 そんな朝なのに狭っこい貸家の隅っこで頭を抱えて嘆きをのたまう俺を、窓の外で朝鳥たちが嘲笑った。



 俺がもたれかかっているのはリビングに置いてある二人掛けのテーブル。

 それが俺の動きにあわせてキシキシと軋む。



 一人暮らしの癖にってか?

 もちろん反対側は物置だようるせえな。毎日通勤カバンと見つめあいながら飯食ってるわっ!

 どーせ寂しい一人暮らしですよー、と…今はその話じゃなかったな。



「硬い腕に抱かれながら目を覚ましたかった…、太くて針みたいな短い髪を撫でたかった…、生々しい汗の香りを嗅ぎたかった…、日焼けした筋肉質な肌に触れたかった…。」



 そうこれこれ、余りに残念な朝の目覚めを嘆いていたんだったな。



 はーっ、と長く息をついて俯きながら顔を上げると、俺の気分とは正反対の長閑のどかな朝の風景が広がる。

 反射的に目を閉じて顔を片手で覆うと、まだ剃ってないヒゲが掌に当たって少し痛かった。



 そんな一部始終を見ているルシアの苦笑いもいつの間にか消えていて、もはや隠す気もない呆れが伺えるものに変わっている。

 やめろ、そんな目するな。そんな冷めた目しても俺の失望は消えないんだから諦めろ。

 恋愛対象にも性対象にもならないから諦めろ。

 俺は…、



「大胆な鼾を聞きたかった…、太い眉と突き出た喉仏を拝みかった…、薄い唇から吐き出る息を吸いたかった…、力強い上半身に腕を回したかった…、おはようって野太くて甘い声で囁かれたかった…。」


「残念ながら、私…男にはなれないものでして。」


「べつにお前を責めてるんじゃない。どうせこんなエロゲ的経験寄越すなら、ちゃんと最後までいい思いさせろって思ってるだけ!」



 外道な神め! こんな夢はそういうのを喜ぶひとに見せるべきだ。そうだろう? 違うか? 違わない! そうなんだ! そうあるべきなんだ‼︎‼︎



 俺は別に贅沢なんて言ってないだろ? 俺の隣にはもっとこう…頼れるアニキ的な? そんな人が欲しいだけなんだよ!

 美人を俺の隣に置いたってなぁ、サービスでも何でもないのッ!

 ここまでやるならどうしてそうならなかった⁉︎



 残念すぎて悔しい…。こんなラッキースケベは隣の部屋の佐藤さんドルヲタにでもあげとけってんだ。

 喜ぶからっ! 物凄く喜ぶからっ!



「ああくそ! 神様のバカヤローッ‼︎ 」


「まあまあ。」



 あまりの絶望にそう雄叫びをあげて、机に再度突っ伏する。

 ようやくしゅんと静かになった部屋。

 古くてうるさい時計とヤカンのお湯が沸騰する音しか聞こえない。



 その中でコトッと小さな硬い物音が間近で聞こえた。

 視線だけそちらに移すと、細くて綺麗な指がテーブルの上に何かを並べている様だ。



 次々に彩られていくテーブル。

 そうして最後に、ほかほかと湯気をのぼらせたカップが眼前に置かれる。

 中身はコーンスープだろうか? そんな匂いがする。

 俺は顔を上げてその手の主を見上げた。



 数分前にワイシャツを引っぺがされたルシアは昨夜と似たようなコスプレみたいな格好をしている。

 それに俺のタンスの肥やしになってた黒いエプロンをかけて、ちょっと前からキッチンに立っていた。



 つまり、テーブルに並んだこれらがその完成品というわけだ。



「そんなツレない洋介さんの胃袋を掴むために朝ごはんをご用意しましたよ。あまりの美味しさに私から離れられなくなってください!」



 綺麗なラインを描く腰に手を当てて得意げに胸を張るルシアだったが、エプロンのサイズが大きすぎるのだろう。肩紐が片方だけずり落ちて情けない事になっていた。



 それに気づいたのか、ルシアは肩紐をそそくさと直す。でも、俺の相向かいの席に腰を下ろした衝撃で再び落ちる肩紐。



 あまりの微笑ましさにこみ上げる笑いをなんとか嚙み殺していると、ルシアはなにかを期待するように俺を見つめた。



 その視線が俺が箸をつける瞬間を今か今かと待っている。

 すこし座りが悪い気持ちになりつつ、俺はいただきますと息だけで口にして朝食にありついた。



 いかにもあり合わせのもので作りましたって感じの簡単な料理だ。

 パンだとか、インスタントのスープだとか、軽い炒め物や刻んだだけの野菜とか、そんなもの。

 しかしその味は、実は蛇の怪物ってことを素直に疑うほどで…。



「うまい…。」



 自然と、そう口にしていた。



 美人で料理もできるのは有料物件だな。

 …性格に難があるだけ! 種族とかにも難があるだけ!

 俺以外の誰かに恋をした時は全力でこのうまさについて語って、推してやろう。そうしよう。



「ぐすん。あーうめー、人外の作った飯うめー。」


「そうでしょうとも、そうでしょうとも。」



 俺の安い胃袋をたった一度でキリキリとがんじがらめに縛り上げたルシアは、ふふふと嬉しそうに笑った。



 そんな笑顔が正面にあるから。

 意味もなく二人用だったテーブルがやっと反対側を機能させ始めたのだと気づく。

 どこかしみじみとする思いだった。





 ………………幕間………………





 机に並んだそれらを綺麗に平らげた後。

 何気なくルシアの席のもっと奥にある壁掛けの丸い時計を見る。



 おお、あと三十分で出勤だ。

 俺はルシアの方を向く。



「そういえばホントに家任せて大丈夫なのか?通帳とかそういうの盗まれると困るんだけど。」


「まあ、やっぱりそこですよねー。心中お察しします。」



 うん、さすがに会って間もない女の子に家を頼むのは大分勇気がいる。



 確認したいだけなのだ。一応念を押す意味で言葉にしただけで違うんだ。

 別に疑ってる訳じゃなくて、と訳もなく頭の中で弁解して、探るような視線を送る。



 そんな視線も、ルシアは気にした風もなく、むしろ薄く微笑んで口を開いた。



「でも心配ないですよ。私たちの間では大して価値のないものですので。」


「あ、そりゃそうか。」



 もし、欲しいものがあれば、自分でって来ますよ。



 そのセリフがどこかにすとんと嵌って、それだけで一安心した。

 特に力を入れていた訳でもないが、何かが抜けていく感覚を覚える。

 これなら家を任せても大丈夫だろう。



 あ、でも…。



「電話とかチャイム鳴っても出ないでくれよ? 今のまま一人暮らしってことにしておきたいし。」



 ほら、俺にも世間体ってもんがあるわけですし。

 変に疑われたりとかされたくないし。



「はい。お任せください!」



 びしっとルシアに人差し指を突きつけてそう言えば、元気のいい返事が返ってきた。

 ついでとばかりに胸を拳で叩くルシア。

 その衝撃にゆらゆらと重そうな膨らみが上下に揺れる。



「んじゃあ、任せたぞ。」


「はいっ!命に代えてもこの寝床をお守りしますっ!」


「………命?」



 少しズレてはいたが、その返事を確認してから、出勤支度しゅっきんじたくを整え始める。

 適当に髪をなでて、手早く髭を剃って、財布の中身を数え足りなければ補充する。

 そして、スーツを着て、ネクタイを締めて、カバンの中の書類の存在を確かめる。

 たったそれだけのルーティーンワーク。



 それをこなせば30分なんてあっという間だ。

 ちょっとフライング気味だが、余裕を持って出て行くぐらいがちょうどいいだろう。



 じゃあ行ってくる、とひと声をかけてリビングを後にした。

 途中でハットスタンドにかけてあるマフラーを無造作に引っ掴んで、玄関へと向かう。



 しかし、パタパタとそれを追う足音が聞こえてくるではないか。



 何かあるのかと振り返ってみると、小走りで駆け寄ってきたルシアが俺の前で足を止める。

 そして爪先立ちになって、目を閉じ唇を突き出す…、何かを待つような体勢。



 これは、その。



「……、なにしてんの?」


「行ってらっしゃいのちゅー、です。…しないんですか?」


「あ、ごめんホント勘弁。」



 やめてくれ。俺の唇はまだ見ぬダーリンのためにあるのだ。

 断じて、目の前の少女ではない。



 俺がげんなりした風にそう返すと、ルシアは口を尖らせた。



「えー、ニンゲンの恋人たちはこうするって友人に聞きましたよ?」



 誰だその友人。ルシアみたいな人外が他にもいるのか、恐ろしすぎて俺は夜しか寝れないよ。



 いやいや、そんなことよりも聞き逃せない発言があったはず。

 まずはそれを突っ込まないと。



「あのさぁ、この際だハッキリ言っとくけど…。」


「なんですか?」









「俺、別にお前を恋人にしたわけじゃないからな?」






 そう、俺は別に家に上げただけ。恋人として認めたわけではない。もとい告白を受け入れたわけじゃないのだ。



 え?っと固まったルシアはしばし瞬きを繰り返す。

 俺はその縦に割れた金色の目が、見えたり隠れたりする様をただ眺めていた。

 そして、不思議そうな顔のまま首をルシアが捻る。



「えー、家の合鍵くださったじゃないですかー。」


「あげたけど…。命惜しさであげたけど。」



 仕方ないよねー、俺は普通の一介のサラリーマンだよ? 巨大なヘビのバケモノなんかに敵うはずないし、奥の手なんかないんだから。

 脅されたりしたらさーあ、素直に従うしかないじゃん?

 ほらなんでもいいんだって言ってたし、 恋愛対象じゃないならいいかなって…。



 俺は靴を履くのをやめ、ルシアに向き直る。



「俺はホント男専門なの。両刀とかではなくていわば片刀。日本刀、オーケイ?」


「さっぱりです。日本語でお願いします。洋介さんが重症だってことぐらいしかわかりません。」


「わかってんじゃねえか。ていうか日本語だっつの。」



 日本語じゃないのなんて最後の一つぐらいだろ。



 はぁ、とわざとらしく大きくため息をついてみせてその流れで意識的にルシアから目をそらす。

 その行動に深い意味はない。なんとなく、そうなんとなくだ。



「そーゆーことだからお前のことを俺は愛せない。なぜなら性対象じゃないから。」


「むぅ…。つまり、洋介さんの洋介くんは…………………不能?」


「おらァ! 失礼なこというなや! 俺の洋介は健康優良児じゃボケェ‼︎」



 朝からなんて暴言吐いてくれとんじゃこのアマッ!

 俺の息子は機能するとこではちゃんと機能してますぅー。ちょっと好みが特殊なだけ!



 しかし、俺の弁解なんて聞いていないのかルシアは悲しそうな表情を作ってみせた。



「朝からもしやとは思ってましたけど…。」


「そりゃ隣で寝てんのが女じゃ反応するもんもしねえだろうよ。」



 やめろっ! そんなかわいそうな 人を見る目で俺を見るな!

 なんか居た堪れない気持ちになんだよ、ちゃんとおかしいって自覚あるからなっ!



 そもそもお前も勝手に布団に入ってくるんじゃありません。

 客間に用意してあげたでしょーが。それよりお前も女の子のでしょーが。節操を持ちなさいよ節操を。



「うぅっ…、大丈夫です洋介さん。息子さんはきっと治ります!」


「やめろォ! 人を病気みたいに言いやがってっ。俺のちょっとズレた性癖の悪口はそこまでだ!」



 遂には顔を覆って泣き真似をし始めた大蛇に俺は全身全霊の声を上げる。

 人とはすこし違うところをやり玉に挙げてイジるのってどうかと思うぞ。このひとでなしー!

 …あ、そうだ人じゃないのか。



 言いたいことだけ言って泣き真似に飽きたのか、ルシアは小さく短息して姿勢を直す。

 あからさまに気に入らないような、むすっとした表情をして、頰を膨らませた。



「…、じゃあ私はあなたの何として認められたんですか。」


「同居してるでかい蛇の知り合い。」



 間髪入れずそう答えて俺は土間に足を下ろす。

 幾ら余裕があるからと言ってこれ以上はヤバイだろ。リビングから聞こえるうるさい時計の音が俺を急かした。



 ルシアはその答えに不服のようだが、こればっかりはどうしようもない。

 さすがに出会って1日もたたないうちにそれ以上は困る。



「置物とか非常食とか、奴隷よかマシだと思うけど?」



 靴を履きながら素っ気なくそう言って、後ろを振り返れば、なぜかまだ頰を膨らませている。



 そして、返ってきたのはあろうことかこんなセリフ。



「…、不満です。」


「どこがァ⁈ むしろ結構譲歩してるだろ俺ぇッ!」


「なので。」



 そこで言葉を切って俺をまっすぐに見つめるルシア。

 左側の高いところで綺麗に結われた髪が彼女の動きに合わせて揺れる。



 ルシアはふふんと鼻を鳴らした。



「首を洗って待っててくださいねっ。」


「…、」


「狙いは確実に仕留めるタチなので。」



 そう言って悪戯っぽく笑ったルシアが、半分に伏せた目を流してくる。



 うーん、わかりにくい言葉の使い方すんなぁこの子は。首洗ってとか時代劇かよ。

 本当になんのために日本語勉強したんだよ。「アイヲツタエルタメ」ならこれだけは必要ないって断言できるぞ。



 まあ、要約するとこれから下克上狙ってくぜってことだろ?

 確かにそんな。オトモダチから始めよう的なカンジにはなってたから、いいっちゃいいのか、な?



 ルシアの方に軍牌が上がることは全くなさげたけど。

 ルシアがそれでよければ別に俺はなんとも…。



 それよりなによりひとつ、一つ気になることがある。



「あのさぁ、最初…そばに居られるならなんでもいい〜みたいなこと言ってなかった?」



 言ってたはずだ。変なのがいろいろ出てきてたよな? 昨日のことだ、忘れるわけない。



 今さらアレに変更な、とかいう気はないけど…、いやそもそもなかったんだけど。

 そんなの冗談に決まってんじゃないですかとか言われたら、本気で倫理観について教えようとしてた俺が報われない。



「ふふ、知らないんですか? 洋介さんは。」

「…?」



 くすくすと笑って、金色の目が細くなる。

 それはまるで獲物を捉えた猛獣のようで、しかし獣ほど熱を持っていない…冷たいもの。

 ぞわり、昨夜と同じ背筋が凍える感覚が俺を襲った。



 ルシアが自らの唇にちょんと乗せた長い人差し指。

 それが艶めかしくそこをなぞっていく。

 今は人並みの大きさしかない、唇を。

 昨晩は何倍にも広がった、そこを。



 彼女のどこか含みのある笑みは、毒の牙を持つその姿を連想させた。



 ルシアが言う。



わたしたちって強欲の象徴なんですよ?」


「あー…。」



 そうかそうか、そういうことか。

 俺はその辿り着いた答えにひそかに身震いする。



 つまりは足先だけ許したが最後、次は踝を飲み込んで、脚、尻、胴、頭までぺろりと平らげてしまう算段ってわけか。



 もともとそのつもりでああゆう発言をしてたんだ。

 餌をぶら下げて、せめて爪だけでも許すようにと。


 なるほどなるほど。




 ジワリ、冷や汗が頰に浮かぶ。



 そう、俺は今まさに…口を開けたその生き物に足のつま先を捕らえられてしまったその状態で。



 ぐるり全身をあの一直線の体に絡め取られたような気になって。

 金色の、縦に割れた目が俺を見上げて細く細く、歪む。

 そして、ぱっくり開いた口に落ちていく…そんな錯覚。



 目の前のルシアにはにっこり笑顔が綺麗に貼り付けられていて、感情が読めない。

 この女には、一寸の、一切の、全くの隙がない。

 忍び寄る恐怖にそっと袖を掴まれて、這い上がる震えが身を焼く。



 それをどうにか悟られまいと、ニィっと無理やりに口角をあげて余裕ぶってみるが。

 お粗末すぎて、…苦笑いにしか見えてないかもな。




 玄関の上がりかまちに立ったルシアの目線は土間に降りた俺と丁度同じところ。

 ゆったりとした笑顔のルシア。

 一方の俺はどうにか作った引き笑い。



 両者の目がかち合って、





 視線が交わる。



 



「この悪魔め。」


「いやですね。私は蛇、ですよ?」






 その生意気な不敵な笑みに何か言葉を返したいのはやまやま。

 しかしリビングからここまで聞こえるカチカチうるさい時計の音が、俺を急かしているのだった。

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