カルテット番外編「失楽園」
椎堂かおる
第1話
「船(オルドヴァス)、月(レイナ)、星(パスハ)……」
赤銅色の壁にランプの明かりを寄せて、スィグルはそこに描かれている古びた絵を撫でた。ざらりとした手触りが、指に触れる。壁はしんしんと冷えている。
古い漆喰の匂い、壁を染めた赤い顔料の匂い。石畳の床に降り積もった、砂っぽい積年のホコリの匂い。
ずっと長い間、誰にもかき乱されたことのない深い地下の空気を吸い込むと、自分がこの地の静寂の中で、もう死んでいるような気がする。
ちらりと、ほんとうにそうだったらいいのに、とスィグルは思った。すでに死んだもののように、永遠にここから動かずにすむのなら、どんなに気楽だったろう。
ランプの明かりは、スィグルが手を伸ばした先ほどまでしか届かない。光の中にある世界にだけ、鮮やかな色合いがあり、その先は不吉な無彩色、そのさらに先は、完全な虚無だった。
濃密な闇の底に、小さく新しい世界が生まれ、その中に突然生み出された、最初の人になったような気分だ。
「森(ウィドラン)、砂漠(サラセン)……都(タンジール)」
ざらつく壁を指でなぞりながら、スィグルはそこに描かれているものの名を呼んだ。公用語ではなく、砂漠の部族が話す土着の言葉でだ。
壁画の中で、鬱蒼とした森から血の道が続き、黒い髪を長くなびかせた黒エルフたちが、涙を流しながら逃げてくる。彼らは、砂漠の渦巻きのなかに隠された、王都タンジールにたどり着くと、泣くのをやめ、美しい花が咲き乱れ、果実がたわわに実る、宝石で輝く楽園の中で抱き合い、体を丸くして眠っていた。
その中で、たったひとり起きていて、真冬の新月のように鋭い剣と弓矢を掲げ、同胞たちを守っている男がいた。額には燃えるような赤の額冠(ティアラ)。黒エルフ族最初の族長、アンフィバロウだ。眠る同族の者たちの何倍もの大きさに描かれた彼は、魔法を象徴する白銀に輝く蛇を、肩に巻いている。
彼の末裔として、その血を受け継いだ自分が負っている義務のことを、スィグルはよく分かっているつもりだった。
誰もがくつろいで眠っている間も、こうして起きていることだ。民が安心して眠れるように。
必要があれば真っ先に血を流し、命を落とす。それが王家の者の誉れだ。そうやって作られた血の道を踏んで、部族の民は楽園へと導かれる。
自分も、そのような一生を生きて行けるものと思っていた。なんの疑いもなく。今でも、そういう名誉を心底から望んでいる。
ランプを石造りの床にそっと置いて、スィグルはほこりっぽい地下通路にぺたりと座り込んだ。視界いっぱいに広がるくすんだ壁画は、覆い被さってくるような巨大さだ。
抱え込んだ自分の膝がふるえているのを、スィグルは大きく息をつきながら見下ろした。
明日にはここを出ていかなければならない。黒エルフの魂と結び付けられた、この楽園から放たれて、再び遠い異郷へ。
同盟を取り結ぶための人質が必要なのだという。山エルフの部族領にあるトルレッキオという土地へ、神聖神殿の求める人質として、自分が赴くことになっている。
同盟による和平が長続きするなどとは、誰も思っていなかった。そのうちどこかから約束ごとが破られて、また戦いが始まる。その時には、人質として差し出された者は見せしめのために殺されるだろう。
人質の命を惜しんで敵に媚びるのは、部族の恥だ。族長は息子の命を見限るだろう。
同胞たちに余計な気苦労をかけないように、いよいよの時には、自らすみやかに命を絶つことが、部族長の一族のものの作法だとされている。
長衣(ジュラバ)の飾り帯に提げていた短刀を抜いて、スィグルはその鋭い切っ先が揺らめく薄明かりに浮かび上がるのを見つめた。
職人たちが精魂をこめた刃は鋭く、触れただけで切れそうなほどに研ぎ澄まされている。
刃渡りはちょうど、スィグルが手を広げた親指から小指までの幅より少しだけ長い程度。それが心臓までの距離だと教えられた。自害するためだけに作られた高貴な武器だ。
刃先には塗りつけられた毒が乾いて、美しい虹色の薄膜を作っている。この短刀で胸を一突きすれば、傷つけられた心臓は止まり、2度と目覚めない眠りがやってくる。なにかの間違いで手元が狂っても、切っ先の毒が代わって役目を果たすだろう。
そのように説明して、宮廷に使える医師たちが、スィグルにこの短刀を渡したのだ。お苦しみになるのは、ほんの一瞬です、と彼らは言った。
スィグルは試しに、自分の心臓をねらって、短刀を構えてみた。
宝石で装飾された短刀は、とても美しい。異民族の下品な武器で命を奪われるよりは、ずっとましだ。
しかし、見下ろした切っ先は無様に細かく震えていた。
もし本当に、これを胸に突き立てる時がきたとして、自分はうまくやれるだろうか。誇り高い、アンフィバロウの子孫として、笑って死ねるか?
虹色の刃先を見つめていると、眩暈がして息があがった。地下の空気は土臭いカビの匂いを漂わせている。いくら息を吸っても、胸が苦しい。
不意に視線を感じて、壁画のアンフィバロウに目をやり、スィグルは握っていた短刀を取り落とした。床の岩盤を叩く硬質な音が闇にこだまする。
絵の中の部族民が、自分を見ているような気がしたのだ。白い蛇に抱かれたアンフィバロウが、金色のするどい眼差しでこちらを見ている。
厳しい眦(まなじり)が冷ややかな、鋭く端整な顔立ちは、どこか父・リューズに似ていた。タンジールの都を守護する、力強い族長。民を守り、労り、富を与える部族の家長。父は卑怯者を許さない。族長は、いつも正しくあらねばならないからだ。
「…………スィ……グル……」
遠くから幻のような声が、名前を呼んでいる。スィグルは恐怖にとりつかれて、冷たい石の床をあとずさった。
「スィーーーグーーーーーール?」
「今度はちゃんとやるよ……約束するから……!」
真っ暗な天井を振り仰ぎ、スィグルはか細い声で答えた。
見つめると、どの絵も安らかに眠っている。楽園のような都で。しかし誰も彼も、眠ったふりをしてほくそ笑んでいるようだ。目をそらせばまた元通り、嘲りの目でスィグルの背中を見つめているのだ。そうに決まっている。
耳をふさいで、スィグルは床にうずくまった。
「ちゃんとやれる、僕は、臆病者じゃない。ちゃんとやれる、ほんとに……命なんて……惜しくないんだよ!」
恐怖から逃れる呪文のように、スィグルはうわごとのような言葉を口走っていた。
心にもないことだ。父祖たちの鋭い視線は、胸の奥に隠した臆病心を見とおしているに違いない。そう思って、スィグルはますます、深い恐怖に心を奪われた。
不意に肩を突付かれて、スィグルは悲鳴を上げた。
飛び起きてあとずさると、遠くの壁に悲鳴がこだまする残響がいくつも聞こえた。
「スィグル」
目の前の床に片膝をつき、ランプをかざした誰かが、スィグルの顔をのぞきこんできた。
淡く暖かい色の明かりに、金色の目が爛々と輝いている。暗闇に白く浮かび上がる顔は、たったいま壁画から現れ出たように鋭く端整だ。
彼が連れているはずの白い蛇がどこにいるのかを、スィグルは無意識に目を走らせて探していた。そうして少したってから、自分がなにをやっているのか不思議になった。
「……父上」
自分の長衣(ジュラバ)の胸元を掴み、スィグルは激しく鼓動を送ってくる心臓の場所を確かめた。
身をかがめ、こちらを覗き込んでいる顔は、確かに父・リューズのものだ。身につけた長衣(ジュラバ)は闇に溶け込みそうな黒で、普段着のための質素なものとはいえ、つややかな絹糸で見事な刺繍がほどこされている。
「父上」
かすれた小声が届かなかったのかと不安になって、スィグルはもう一度つぶやいた。
「もうすぐ宴がはじまるので、侍従や女官たちがお前を探していたぞ。戻って着替えなさい。今日は特に、お前の好きなものを作らせた」
うずくまっているスィグルの腕を引いて立たせ、リューズは穏やかに言った。
「それとも、宴は飽きたか?」
床に転がっていた短刀を拾い上げ、父がそれを灯りに透かしているのを、スィグルはまともに見られない気持ちで上目遣いに見た。
「そなたの母上の具合はどうだ」
「宴には出席なさいませんが、だいぶお元気になられたようです」
早口に答えると、リューズはじっとスィグルの顔を見下ろしてきた。
スィグルの長衣(ジュラバ)の帯に挟んだ鞘に、注意深く短刀を戻して、リューズは髪をおろしたままのスィグルの頭に手を置いた。
「誰がお前に嘘をつくことを教えた?」
伏目がちにこちらを見つめる、父の厳しい目を見上げて、スィグルは息を吸い込んだまま、なにも言い返せなかった。
ふと壁画を見上げて、リューズがスィグルから気をそらせた。
「船(オルドヴァス)……古い伝承だ」
ゆるく髪を梳いてすべり落ちてきた、父の手が肩を抱いた。族長の長衣(ジュラバ)からは、かすかに心地よい匂いの香が漂っている。
スィグルに灯りを拾わせ、寄り添ったまま、リューズはスィグルを促して暗い地下通路を歩きはじめた。スィグルはおとなしく、父が歩くのについていった。
父と二人きりで口をきくのは、本当に久しぶりだ。
子供のころは稀に、決まりごとの通りに母の部屋へ通ってきた父が、子供らを呼びつけて顔を見ることがあったので、たまには父のそば近くで話をすることもあったが、年齢があがって、母親とは別の部屋で生活するようになってからは、特に用事でもないかぎり、スィグルがリューズと二人きりになることはなかった。
宮廷にはべる誰もが、族長の目にとまりたいと躍起になっていた。ひとこと誉められるために、学問で目立ったことをしてみせたり、人が真似できないような魔法を身につけたいと、王子たちの全員が競い合っていたし、父は理由もなく誰か一人に目をかけることはしなかった。とても平等で、遠い存在だ。
並んで歩いているのが、嘘のようだ。スィグルはすぐ目の前にある父親のすらりとした体躯を見上げ、何度もまばたきした。
「お前はいつか、船を見つけるといっていたな。太祖アンフィバロウは、部族をこのタンジールという楽園に導いたが、お前が船を見つけることができれば、我が民はさらに幸福な楽園へとたどり着けるだろう」
「父上は昔、これは作り話だから信じるなと笑っておられました」
スィグルが言うと、リューズは淡い苦笑で顔をゆがめる。
「ひとが笑い飛ばして信じないようなことが、真実ということもある」
「月と星の船がどこかに?」
「タンジールも、元から楽園だったわけではない。父祖たちが築き、ここまでの都市に作り上げてきた」
「その血に恥じない者として、誇り高く死にます」
父の顔を見上げて言うと、リューズはまじまじとスィグルの目を見つめ返してきた。同じような金色の瞳だ。母ゆずりの顔立ちのなかに、たったひとつだけ、父に似たところがあるのが、スィグルには嬉しかった。
「タンジールも勇敢なお前を誇りに思うだろう」
ゆるぎない冷静な声で応える父の眉がかすかに曇るのを、スィグルは不思議に思った。
「客地では、ヘンリックの息子と会うことになる。知る者もなく心細いだろうから、お前が力になってやるといい。友というのは良いものだ。ヘンリックは信用に足る男、その息子も同じ血を持っているだろう」
「友達というのは、初めてです」
「そうか……」
スィグルが本心から言うと、リューズが笑った。父が少し照れているような気がした。
いくつかの曲がり角を折れて、複雑に入り組んだ通路を進んでいくと、広い一角に出た。そこには他の場所と違って、壁にある松明がちらちらと灯りを放ち、赤茶の壁の色と、ぐるりと一面に描かれた、風になびく金色の麦の穂の壁画を浮かび上がらせている。
「お前が生まれたのは、ちょうど稔りの季節で、タンジールの農業区には麦が金色の穂をつけていた。戦から帰り着いたら、ちょうどエゼキエラがお前とスフィルを産みおとしたところだった。勝ち戦のなによりの祝い……金色の麦の穂は我が部族の繁栄の証で、このうえない吉兆。スィグルというのは、そういう名だ。金の麦という意味を持った、アンフィバロウ家に古くから伝わる伝統的な名だ」
突然、説明する父の意図が、スィグルにはわからなかった。この話は、他の誰かからも何度も教えられた話で、別段目新しい話ではなかったからだ。父も以前、同じことを教えてくれたことがある。
「名誉ある名を、ありがとうございます」
戸惑いながら、型どおりにスィグルは礼を述べておいた。
「今年の稔りも見せてやりたかったが、収穫を待たずに行くことになるな」
ぼんやりと独り言のように、リューズが言った。スィグルは目を伏せた。
夏の盛りの季節がら、麦はまだ青々としているはずだ。
月がめぐり、秋になれば、水路をはりめぐらせた農業地区には、波打つ金の海原のような、豊かな稔りがやってくる。麦を刈り取るときの歌声があちこちから聞こえてきて、タンジールを包む。
いつだったか、ずっと昔、スフィルと二人で収穫間近の麦の畑を走りぬけたことがある。穂をかきわけて進む目の前は金色にそまり、乾いた麦のほの甘いような青臭いような香りがした。
ちくちくと頬をさす麦の穂の感触が面白く、声をあげて笑いながらどこまでも走って行く。それが自分の声なのか、双子の弟の声なのか、はっきりとしない。ただ漠然と幸せで、不安なことがなにもなかった。
大切な収穫を踏み荒らしたといって家庭教師たちに怒られ、下々のものたちのいる所を走りまわるなんてと、母上にはひどくお説教されたが、きっとまたいつか、同じことをしよう弟と目配せをした。それだけで心が通じ合っていたのだ。
まるで楽園のような午後。もう2度とそんなことは起こらないだろう。
「僕も金の麦を、見たかったです」
父の話に相槌を打っただけのつもりで、スィグルは応えた。
しかし、口に出すと無性に寂しく思えた。
せめてもう一度だけでも、あの黄金の波を見ることができたらいいのに。
「父上、僕が死んだら、金の麦の壁画がある部屋に戻ってくることにします。いつか、会いに来てください」
今まで歩いてきた地下通路を振り返って、スィグルはリューズに頼んだ。
タンジールの地下深くにある、この通路は、代々の王族を葬るための墓所だった。黒エルフの王族はみな、どこで命数が尽きようと、心はこの場所へ戻ってくると信じられている。遺体のないものも、あるものも、この墓所で眠るのだ。壁画は死者の魂を慰めるための絵だと聞いている。それぞれ、自分の魂がもっとも安らぐところで、ゆっくりと長い沈黙の時を過ごすのだ。
父親が振り返る気配を見せないので、スィグルは不安になって、リューズの顔を盗み見た。
「……俺も、死んだらそこへ帰ろう」
穏やかに答える父の、スィグルの肩を抱く手が痛いほどの力を持った。
「そなたとは、話してみたいことが数々あったが、結局果たせなかったな」
スィグルは、父の顔を見つめて、にっこりと微笑んでみせた。
父・リューズはそれ以上なにも言わず、ただ淡く、優しい微笑みを返してくれた。
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