第2話

 大人達は鼻をつき合わせて、雪の降り始める日のことを話していた。

 北辺の地の冬は着実な足取りでやってくる。大地が凍り付いて、山羊たちが食べる草が見あたらなくなる前に、もっと南へと移動を始めなければならない。

 天幕を畳み、山羊を連れての大移動となれば、それだけでも大変なことだったが、南下する旅には別の危険がつきものだった。山羊飼いの部族は南に定住する別の部族と領境を接しており、その境界線はいつも曖昧だった。南下しすぎたと難癖をつけられれば、武器をとっての小競り合いから、流血の惨事となる事もありえる。

 それを恐れて、大人達は寒風の吹きすさぶこの地の暮らしにくさを堪えていた。

 シュレーにはその気持ちが分からなかった。

 族長の炉辺を囲んでの祭りの日には、老人たちは代わる代わる、古代の勲(いさおし)を語り、槍をとって戦った先祖の勇猛さをほめたたえるというのに、なぜ今はそうしないのか。南に待ちかまえているのが、どんな悪どい部族かは知らないが、古ぼけた先祖の槍を後生大事に磨き続けているなら、それを使って相手を蹴散らしてしまえばいい。

 山羊飼いたちは息子に木製の槍を与えはしたが、それはもっぱら牧童の杖として使われるばかりだった。おそらく、髭をたくわえた大人達も、大酒を飲んだ口で言うほどには、うまく槍を使えないに違いない。そうに決まっている。

 放牧に出るための準備を整えて、長い杖を携えやってきた父と、輪になって話し合っている山羊飼いの部族の者たちを、恨めしく見比べながら、シュレーはそう決めつけた。

 背は低いが、がっしりとした肉を体にたくわえている山羊飼いたちは、それぞれの手に見事な装飾を施した槍を持っている。それに比べて父は、ひょろりと背が高く、女よりも色白で、携えているのは槍ではなく、ただの木の棒だ。この地に先祖のいない流れ者だから、先祖伝来の槍がないのは仕方がないが、それらしいものを自分で作ったってかまわないだろうに。

「シュレー」

 父が振り向いて、呼びつけた。

 シュレーは走っていって、朝日に照らされている父の顔を見上げた。

「仔山羊を抱いていってやれ」

 父の言いつけに、シュレーは黙ってうなずき、母山羊の周りをうろうろしている華奢な仔山羊を連れにいった。

「よう、白いの。美人の母ちゃん生きてるか」

 放牧についていくらしい、山羊飼いの息子達が数人、いつものようにシュレーをからかいにきた。父はシュレーに、彼らと遊ぶことを禁じはしなかったが、毛色の違いをねたにして、いつもからかわれるので、シュレーは彼らにうんざりしていた。

「俺んちの母ちゃんが言ってたぜ。お前の母ちゃんはもうとっくに死んでんじゃねえかって」

「お前が父ちゃんだと思ってるあいつが、ほんとは母ちゃんなんじゃねえか?」

 むっとして、シュレーは仔山羊を抱き上げながら、悪童たちを睨み付けた。彼らが、シュレーの母が天幕の中に本当にいるのかどうか、興味を持つのは仕方のないことのように思えた。母は病のせいで一歩も外へ出られないし、シュレーですらまともに姿を見たことがない。父が、もうひとりぶんの分け前をもらうために、母の死を隠しているのではないかと悪い噂をする者もいた。

 シュレーが腹が立つのは、彼らが悪口を言うからでなく、父が抗弁しないせいで、自分までこうしてからかわれることだ。

「母ちゃんは病気だけど生きてるし、あれは俺の父ちゃんだ」

 仔山羊を抱きしめて、シュレーはなるだけ凄んでみせた。しかし悪童たちは笑うばかりだ。

「槍も持ってないやつは男じゃねえって、俺の父ちゃんが言ってたぞ」

 笑う悪童たちは、自分たちのおもちゃの槍をひけらかしている。なんだそんなもん、ただのおもちゃだと内心悪態をつきながら、シュレーは彼らがうらやましかった。

「お前の槍はどうしたよ。天幕に忘れてきたのかよ」

「母ちゃんに持ってきてもらえよ!」

 出発をつげる角笛の音が草原に鳴り響いた。悪童たちは笑いながら走り出した。

 大人達は山羊の群れを追って、ゆるゆると移動しはじめる。

 しんがりを務めるのが、いつもの父の役目だった。群れに追いついてくる父を待って、シュレーは仔山羊を抱きしめたまま、なんとか胸中の苛立ちにけりをつけようとした。

 父は彼らと遊ぶことは禁じはしなかったが、彼らと争うことを禁じていたからだ。

 立ちつくしているシュレーの背を、山羊を追ってきた父の杖が、歩けというように軽く小突いた。嫌々ついて歩きながら、シュレーは何度かためらい、意をけっして言った。

「父ちゃん、俺も自分の槍がほしい」

 父はシュレーにしたのと同じように、歩くのをなまける山羊の尻を杖で軽く小突きながら、ゆるゆると進んでいた。まるでなにも聞いていないように、父はただ前だけを見渡していたが、シュレーには父がちゃんと聞いていることが分かっていた。父はただ、返事をするのを忘れるだけだ。

「父ちゃん、俺にも槍がいるよ。もう6つだし、男だから!」

 シュレーにとって、父に向かって駄々をこねるのは、勇気がいった。わがままを言ったところで無駄なことが、シュレーのうちには多すぎた。父が槍を持っていないのは、穂先に使う鉄を買う資力がないからだ。だが、父がシュレーに槍を与えないことの理由は、まだ聞いていない。だめだと言われたら、シュレーは逆らわないつもりだった。父がだめだというなら、だめなのだ。

「おまえはもう6歳なのか?」

 しばらくの沈黙ののち、父はシュレーがびっくりするような事を答えてきた。父は息子が何歳かも知らなかったらしい。

「そうだよ、俺もう6歳なんだよ」

 普通ならもう最初の槍をもらうような年頃なのだ。その部分を言外に強調して、シュレーは答えた。山羊飼いの部族の子供たちは、6歳になれば木製の槍をもらって、父親に習い、武術のまねごとを始める。自分もそういう年なのだということを、父に理解してもらわねば。

「シュレー、おまえはこの辺りの部族の者より長生きする種族だ」

 父の言わんとする話の先行きが見えず、シュレーはただ、父の無表情な緑色の目を見上げた。

「……そうなの?」

「ここの者たちは長く生きても30年、6歳ともなれば大人の一歩手前だが、お前はその倍の60年は生きられる。場合によっては、もっともっと長生きするだろう」

「だから?」

「私の部族では、男子の元服は12歳だった。お前が自分の武器を手にするのは、もっと先のほうがいい」

 シュレーはあんぐりとした。父がこんなに長く喋るのを聞いて驚いたこともあるが、なんだか煙に巻かれたような気もしていた。自分があとどれくらい生きるかなんて、考えたこともなかったし、お前は長生きするのだから、もうしばらく子供でいろと言われても、ちっとも納得がいかない。金がないから買えないとか、忙しいから後にしろと言われたほうが、シュレーには我慢がしやすかった。

「武器じゃないよ。ただのおもちゃだよ。槍がだめなら杖でもいいんだよ、父ちゃんが持ってるみたいな」

 シュレーはなんだか自分が泣きそうな気がして、できるだけ早口の小声でぶつぶつ言ってみた。

「お前には使いこなせない」

「そんなことない、ほかのやつらみたいに練習すれば」

 言いつのろうとするシュレーの額を、父の持っていた杖がごつんと叩いた。それは予想していなかっただけに手痛く、シュレーは抱きかかえていた仔山羊をなんとか取り落とさないようにするのが精一杯で、そのふわふわの毛に額を押しつけてうずくまった。

「いてえ……」

 半べそを押し隠して呻くと、父が歩けというように、うずくまっていたシュレーの尻を杖の先で小突いた。

「どうしてよけなかったんだ」

「あんなに急に叩かれたら、よけられっこないよ!」

 しかたなく歩きながら、シュレーは自分の額が腫れて痛むのを感じた。たんこぶでもできているかもしれない。かっこわるい。父を恨みながら走って追いつくと、父はそんなシュレーを見下ろして、説いて聞かせるように言った。

「よけられなければ、お前は死ぬ。それが武器を持って生きるものの運命だ」

 父の口調は物静かだったが、語られた言葉にシュレーの血は騒いだ。そんなふうな生き方は、男らしくてかっこいいじゃないか。少なくともここで、山羊の尻を追っかけているよりは、ずっと。

「シュレー、槍などお前には必要ない」

 父はそう言い置いて、群れから外れて道草を食おうとする一頭の山羊を連れ戻すために、シュレーのそばから離れていった。

 山羊の群れの先のほうで、与えられた槍を使って戦争ごっこをしている悪童たちの姿が見えた。シュレーはうらやましく彼らを見つめた。あんなのろまな連中より、きっと自分のほうが、もっと上手く槍を使いこなせるのに。

 自分の槍をもらって、強くなって、あいつらみんな叩きのめしてやれたら、きっと気分がいいだろう。物語の英雄みたいに。

 シュレーは長いため息をついた。

 父は必要ないと言った。だめだということだ。

 父がだめだと言えば、もう押しても引いても無駄だということを、シュレーはよく理解していた。

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