カルテット番外編「北辺の狼」

椎堂かおる

第1話

 天幕の中を区切るために吊るされた幕が、かすかに揺れている。

 つい今しがた、念入りに炉をかきたてたので、暖められた空気が動きはじめたのだろう。

 幕一枚で仕切られただけの向こう側を透かし見たい気持ちで、シュレーは煤けて薄汚れた山羊革の幕をじっと見つめた。

 炉のあるこちら側は明るすぎ、暗闇の垂れこめる向こう側は、わずかに人のいる気配が感じられるだけで、目に見えるものは何もない。

 その向こう側から、こそり、こそりと、なにか囁き交わすような声が聞こえる。

 ほろほろ燃え崩れてゆく炉の炭火を横目に眺め、片膝を抱えたまま、シュレーは聞き耳を立ててみた。

 あれは父の声だろうが、シュレーの知らない言葉で話している。

 それを聞いているのは、母だろう。

 父がだめだというので、仕切りの向こう側に入ったことはないが、あっちにいるのは母だけだ。


 シュレーは乾いた頬を自分の膝に乗せ、眠気で重たくなった瞼でゆっくりと瞬きをした。

 石を円陣に組んだだけの炉のうえに、熱気でかげろうが立っている。何とはなしに息苦しいような気がした。

 炭火を使うときに、天幕を締めきりすぎると良くない。

 ひとりで暖まって怠けていると、父がこちらに戻ってきた時に、叱られるかもしれない。

 それに、おもてに残してきた用事もある……。


 伏せかけた目をのろりと開き、シュレーはうずくまっていた姿勢を解いて、天幕の入り口まで這い進んだ。

 入り口の覆いをめくってみると、外には凍るような風が吹いている。満天の星があるだけで、月は細くなって消えている。

 おもてに顔を出して息をはくと、白く凍る。

 吸いこんだ夜気が、ちくちくと肺を刺す。

 寒いな。

 白くけむる自分の息を三つ数えてから、シュレーは思いきって外に出た。

 星明りに目が慣れるにつれ、なだらかな荒れ地に、似たような色の毛をした山羊が何頭もうずくまっているのが見えはじめる。

 耳をすましてみると、か細い鳴き声が聞こえた。

 声をたよりに、霜のおりた土を踏みしめてさ迷ううちに、うずくまる雌山羊の脚の間に、よたよたと頼りない仔山羊が生まれているのを見つけた。

 ここ2、3日、そろそろ産みそうだと目星をつけていたやつだ。

 産まれたら、木枯らしに吹かれて凍死しないように、天幕に連れて帰って拭いてやるよう、父から言いつけられていたのだ。

 仔山羊の長い毛は、羊水に濡れてべったりと情けなく張りついている。触れてみると、すでにいくらか冷え始めている。

 シュレーが仔山羊を抱え上げると、母山羊がうらめしそうに不安げな目をむけて、めええと短く鳴いた。

 ぶるぶる震えている仔山羊を抱えて、シュレーは急ぎ足に天幕へ戻る道筋をたどった。

 天幕のあたりは、炉の明かりが漏れ出ていて、ぼんやりと明るい。

 生まれたての仔山羊とはいえ、抱えて運ぶには大きく感じられる。

 落とさないように苦労しながら、シュレーは背中で天幕の入り口の覆い布を押し開け、中に入った。

 すると、どすんと背中が何かにぶつかった。

 驚いて見上げると、父の緑色の目と視線が合った。

 寒風に荒れて強張ってはいるが、父の顔は他の山羊飼いの男たちのように髭も生えなければ、厳つくもない。

 お前の親父は女のできそこないだと、山羊飼いたちはいつも、シュレーを馬鹿にした。

 父はそう言われてもいつも平然と無言でいるが、シュレーは愉快でなかった。なにか、胸がすっとするようなことを、言い返してみてほしかった。

「シュレー、やっと生まれたか」

 父は、シュレーが抱えている仔山羊をひょいと片手で取り上げ、天幕のすみに積み上げてあった、蔓草で編んだやわらかな敷物のうえにぽとりと落とした。

 奥まったところの籠のなかに集めてあった干草を一抱え、急いで取りにいき、シュレーは父の隣に戻ってきて、濡れそぼって震えている仔山羊を拭きにかかった。

 小さな体は、炉のそばにいても、まだ震えている。

「冷えている」

 怒っているのかどうだか、よくわからない平べったい口調で、父がつぶやいた。

 山羊の仔が冷えていると言っているのだろう。もっと早く取りにいってやらなくてはだめだと。

「ごめんなさい」

 かすれた声を絞り出して謝ってみたが、父はシュレーの声が聞こえないのか、ぼんやりと無視したままだ。

 所在なくなって、シュレーは仕方なく、念入りに仔山羊を拭き続けた。体が乾くと、仔山羊のふるえはおさまった。

「今夜はそれを抱いて寝ろ」

 ぽつりと命じて、父は立ちあがった。

 シュレーはあわてて頷いて、自分の膝のうえに仔山羊を抱き上げた。ほんのりと温かい。

 炉の具合を軽く確かめてから、父はまた、仕切りの向こう側に戻ろうとしている。

 父の腕で軽く持ち上げられた幕の向こう側は、やはりぽっかりと闇に落ちこんでいる。そのなかに一瞬だけ、白っぽい布にくるまった誰かの脚が動くのが見えた。

 シュレーの心臓がどきりとはねた。あれは母だろう。

 母はシュレーを産んだせいで病気になって、それからずっと、ああして横になっているのだ。

 弱った母を労って、父は夜にはいつも傍についている。

 冬枯れで食べ物が乏しくなっても、母にだけは日に二度、その時々でいちばんいいものを食べさせる。

 空きっ腹を抱えていても、父はシュレーには構ってくれない。

 川の凍りつく真冬でも、母に飲ませる白湯を沸かすため、氷を割ってこいと言いつけるだけだ。

 シュレーには、煤けた一枚の布で世界がまっぷたつに分けられているような気がした。

 幸せは、ぜんぶ向こう側に取り分けられ、こちら側には、しみったれた骨や屑ばかりが投げてよこされる。父にとって自分は、その屑肉をあさって生きている余計者のように見えているのではないか。

 父が腕を下ろし、幕が暗闇を隠すのを見送りながら、シュレーはそんなことを思った。

 膝の上で、仔山羊がまどろみ始めている。

 折れそうに華奢な脚を折りたたみ、長いまつげを伏せている。

 お前はいいなと、シュレーは内心で悪態をついた。

 野っ原で凍えないように、心を砕いてくれる者がいる。

 自分も山羊に生まれれば良かった。

 誰にともなくそう願ってから、シュレーは仔山羊といっしょに炉のそばに丸くなって、粗末な夜具をかぶった。

 とろとろと暖かい炉辺の寝入りばな、シュレーはぼんやりと思い直した。

 くすくすと炭火のおこる音がする。

 自分は、山羊になりたいわけじゃなく。

 あの、たった一枚の幕の、向こう側で眠りたいだけなのだ。

 世界の幸福な、もう半分のほうで。

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