第84話 リトルナイトメア
五年前の、あの日。
最愛の家族を失って、『凩マユ』の心は壊れた。
生きる理由も価値も分からなくなった『凩マユ』は、妹と母の後を追いたいと何度も何度も思った。
しかし……。
たった一人、同じように取り残されてしまった父が、今まで見たことがないくらい目の下を真っ赤に晴らして泣きじゃくり、「もう、俺にはお前しかいない」と強く抱きしめてくれた時。
――これ以上、父を悲しませないために、生きなければいけない。
そう、『凩マユ』は思った。
いや、思ってしまった。
死にたくても、死ねない。
思い出したくなくても、思い出す。
忘れたくても、忘れられない。
笑いかけたくても、笑えない。
安心させたくても、何もできない。
どうにかしたいのに、どうにもできない。
そんな苦痛に耐えきれなくなった『凩マユ』は、ボロボロになった心を奥底へと閉じ込めた。
もう、傷つきたくないから。
もう、傷つけたくないから。
そうして、『凩マユ』は自分の中に、まやかしの心を生み出した。
孤独と寂しさから自分を守るために、サユとアユを。
さらに、もう一人……父を裏切らないために、どんな時でも笑顔を絶やさず、どんなしがらみにも囚われず、誰にも負けず、誰よりも強く生きられる……青天目ルカのような、新しいマユを――。
……だけど、マユは失敗作だった。
立ち居振る舞いや口調、表情、切り刻むことに悦びを感じる残虐性、臓物を見て狂喜する異常性。
そういった特徴の上っ面だけは、青天目ルカの贋作として無理やり飾り付けることができた。
でも……ぺらぺらなハリボテの裏側にある心は、あまりにも弱くて脆かった。
本当のマユは、本当は人が好きだし好かれたいし、頼りたいし頼られたいし、一緒にいたいし一緒にいて欲しかった。
ただ、そうできないほど臆病で、怖がりで、自信がなくて、自分が嫌いだった。
そんなマユにとって、罪悪感と負い目を隠し切れない父の戸惑いが、愛情が、気遣いが、憐憫が、後ろ暗さが、何もかも全てが申し訳なくて、重くて、居心地が悪かった。
だから、ダンジョンに放り込まれて間もなく、マユは父から離れた。
父の居場所は、そこにあると思ったから。
辛い過去を足枷にしないで、面倒な偽りの娘なんかではなく、必要としてくれる仲間と一緒に、気兼ねすることなく幸せになって欲しかったから。
……淋しくて、羨ましいとも思ったけれど。
それから、マユはずっと一人だった。
最初は気にかけてくれる人もいたけど、それもすぐにいなくなった。
年に数回、巡とローニンだけが変わらず友好的に接してくれたが、そのわずかな幸せはかえってマユに孤独を感じさせた。
叶うならば、ずっと一緒にいたかった。
だけど、マユがそばにいると必ず迷惑をかける。
それに、巡とローニンは物珍しさからマユに興味があるだけで、すぐに飽きて嫌いになってしまうかもしれない。
嫌われたくない。
そう思うと、何も言えないし、何もできなかった。
結局、薄暗い部屋の隅っこで気を紛らわせるため必死になって勉強に耽っていた『凩マユ』と、大して変わらない。
一人ぼっちで、なんの罪もない魔物をなんの意味もなく自分勝手に面白おかしく殺して、殺して、殺して、青天目ルカになりきることで、マユは辛うじて生き続けることができた。
――転機が訪れたのは、五年後。
つまり、今年……具体的には、四カ月くらい前。
なんの目的も生きがいもなく一層をふらふらと彷徨っていたマユの前に、囚人服を着た男の子が一人ぼっちで倒れていた。
その頃のマユはもう、自分がならないといけない青天目ルカがなんなのか、なんでそうならないといけないのかも曖昧になっていて、思いつきの狂気だけに従って死んだように生きていた。
満たされない何かを求めて、ひたすらに魔物の骨肉を食らい、臓物を貪り、血をすすったが、お腹も心もいつまで経っても空っぽで乾ききっていた。
まだダンジョンに来て間もなさそうな、犯罪者とは思えない澄んだ瞳をした男の子は、マユに気づくと少しだけ怪訝そうに眉間に皺を寄せたが、それでも……まるで普通の人間にするように、普通に話しかけてきた。
それに対して、精神が擦り切れて極度の飢餓に支配されていたマユは、普段なら絶対にあり得ない行動をとってしまった。
見ず知らずの人の腕の肉を、思い切り噛み千切ってしまったのだ。
忌々しい自動反撃スキルによるものを除いて、今まで人に危害を加えることだけはしなかったのに。
当然、男の子は悲鳴を上げて逃げ去ってしまったが、絶望の淵で錯乱していた当時のマユには、追いかけて謝る気持ちは微塵も湧いてこなかった。
それに……最初は平気でも、すぐに怖くなって、嫌いになって、マユから離れていく。
みんなそうだった。
だから、ほんの少し早まっただけだ。
しかし、その男の子は違った。
それから、わずか数時間後。
オルトロスの咆哮を聞いて、退屈と空腹を紛らわすために向かった先で、また彼と出会った。
そこで久しぶりに父とも話せたが、相変わらず心配や悔恨が入り混じった複雑な心境の父の言葉は気まずくて、逃げるように視線を逸らし、そして気づいた。
マユを見つめる彼の目に、たしかな親しみと温かさがあることに。
ほんのちょっと前に、あんなことをされたばかりだというのに。
ほんのちょっと前に、誰もが目を背けたくなるような虐殺を行い、挙句の果てにその魔物の臓物を暴食しているというのに。
衝撃を受けた。
とても信じられなかった。
気のせいだったかもしれないし、そうであって欲しいという単なる願望でしかなかったのかもしれない。
でも……多くの人からずっと嫌悪と敵意を向けられてきたマユには、目を見ただけで分かった。
その瞬間、あと少しで消えかけていたマユの本心が、狂気と束縛を打ち破って叫んだ。
助けて――――と。
いつの間にか、マユは彼の手を掴んで駆けていた。
淡い期待が高まるのと同時に、後悔も募っていった。
どうして、こんなことをしてしまったのか。
自分と一緒にいたって、彼にいいことなんて一つもないのに。
無理やり巻き込んで、嫌われて、また絶望するだけかもしれないのに。
誰も傷つけないために、誰からも傷つけられないために、一人でいることを選んだはずなのに。
一歩前に踏み出すたびに不安がどんどん増していくが、それでもマユは握った手を離すことができなかった。
それから、マユの人生はがらりと変わった。
彼――てんちゃんとの生活は、マユにとっては何もかもが新鮮で、面白くて、ほんわかとして、楽しかった。
枯れた心が潤うような、暗い視界が明るくなるような、狭く険しい道のりが広くなだらかになるような、そんな風に自分の世界が日に日に変わっていくのが実感できた。
全ては、てんちゃんのおかげだった。
てんちゃんが作ってくれた料理は、すっごくおいしかった。
てんちゃんが隣を歩いて、話しかけて、笑いかけて、普通に接してくれるのが、すっごくあったかかった。
てんちゃんが、いつでも逃げられたのにマユと一緒にいてくれたのは、すっごく嬉しかった。
てんちゃんが大怪我をした時は、すっごく心配した。
てんちゃんが好きって言ってくれた時は、すっごく驚いた。
てんちゃんがマユのファンクラブを作った時は、すっごく嫌だった。
てんちゃんが急にいなくなった時は、すっごく悲しかった。
てんちゃんがいない日々は、すっごくつまらなかった。
てんちゃんと久しぶりにまた会えた時は、すっごく安心した。
でも……。
そんな幸せに浮かれて、すっかり忘れていた。
マユには、責任と義務があることを。
マユがいるのは本当に危険な場所で、そこにてんちゃんがいる原因はマユで、だからマユは何を犠牲にしてでもてんちゃんを守らなきゃいけなくて、そのためには強い青天目ルカであり続けなくちゃいけないってことを。
弱いマユが油断したせいでてんちゃんの腕がなくなった時、ようやくマユはそのことを思い出した。
マユはもう、てんちゃんと一緒にいちゃいけない。
これ以上、てんちゃんを不幸にしちゃいけない。
だけど、てんちゃんは優しいから……マユが一人で寂しい思いをしないようにって、きっとマユと離れない。
マユにとって、それはたまらなく嬉しいけど……けど、もう甘えてはいけない。
そう決意したマユは、自分の心を奥底へと閉じ込めた。
かつてマユを生み出した『凩マユ』と同じように。
本当は、薄々気づいていた。
元々、マユは必要なかったんだ、って。
だって、マユがいなくても、サユとアユがいるから。
マユが寝ている時に二人が身体を動かしていたことは、なんとなく分かっていた。
でも、気づかないふりをしていた。
だって、二人ともマユなんかよりずっといい子だから。
マユは、サユみたいに明るくもないし人懐っこくもないし素直でもないし思いやりもない。
マユは、アユみたいに賢くもないし器用でもないし冷静でもないし気が利くこともない。
自分がいらないって、認めたくなかった。
てんちゃんに、いらないって思われたくなかった。
そんなわがままのせいで、てんちゃんが傷ついた。
今さらだけど……もう遅いけど……ごめんなさい。
サユ、アユ……あとはお願い。
二人が、すっごく強いってことも、なんとなく分かってる。
マユと違って、二人なら絶対にてんちゃんを守れるし、幸せにできる。
サユなら、きっとてんちゃんにもっと好かれる。
アユなら、きっとてんちゃんにもっと頼られる。
急に任せちゃって、ごめんなさい。
てんちゃん……さようなら。
いつも振り回して、ごめんなさい。
いつも言うこと聞かなくって、ごめんなさい。
いつも迷惑かけて、ごめんなさい。
守れなくって、ごめんなさい。
マユは、もういなくなるけど……これからも心の奥で見守ることは、許してください。
最後に…………好きになってくれて、ありがとう。
大好きでした。
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