第72話 そりゃ、つれぇでしょ

 ――それは、バーサーカー状態のマユに振り落とされないよう無我夢中でしがみついていた時のことだった。


 諦めと信頼と安心にすっかり身を委ねていた俺に、看過し難い現象が次々と降りかかった。

 さて、こんな時こそ冷静になって、時系列順に振り返ってみたい。

 まず、突然の暗転。

 奇妙な浮遊感。

 感覚の一部消失。

 ……具体的には、左前腕部が突如として存在しなくなったかのごとき摩訶不思議な喪失感。

 数拍置いた後に、今度は明転。

 慣れた重力。

 感覚の一部復活。

 ……具体的には、左前腕部を襲う、かつて体験したことがなく筆舌に尽くし難いレベルの……激痛。


「う……あ゛あぁあぁぁあああぁあ゛あ゛っっ!!」


 痛い痛い痛い痛い痛いいたいいたいいたいたいたいだい゛い゛い゛っ!!

 う……うで……腕、俺の……俺の、ひひ左腕、が……ッ!


「………………てん…………ちゃ……ん……?」


 っぐ……いたい……食われた……いたいいたい……のか?

 まさか……いたいいたい……マユのスピードでもいたいいたいいたい。

 ってこと……は、いったたたたここは……今までとは、違う場たたたたいたいいたい!!

 くっそ、だめだ……痛すぎて、考えがまとまらねえ……!

 血管が……脈打つたびに、どばどばと血が流れて、気絶しそうな痛みが走る。

 切断面は、燃えるように熱いのに……体は、徐々に寒くなって……力が抜けていく……。


「マ……ユ…………」


 うまく、声がでない。

 目が、ちかちかする。

 耳鳴りが、する。


「マ、マユは……だ……だいじょう……ぶ…………か……?」

「……ぁ…………あ…………」


 返事は……ない。

 左腕を必死に押さえながら、なんとか目だけ向ける。

 傷一つない、マユのかわいい顔が見える。

 いつもの、生き生きとした、悦しそうな顔ではなく……信じられないものを目にしたような、呆然とした顔。

 ああ……なんてレアな表情だ……網膜に、焼き付けなくてはいけない……。

 後は……手……足……うん、大丈夫そうだ……。

 よかった……。


「あ……うぁぁ…………あぅぅうあぁぅぅうぅ……」

「…………マユ……?」


 ……何だ?

 マユの様子が、おかしい。

 ケガはない、なずなのに……。

 体は小刻みに震え、息苦しそうに、口をぱくぱくさせて、瞬き一つせず、食い入るように俺を見つめ、綺麗で大きな瞳は、瞳孔が収縮して、不規則に揺れている。


「……てん……ちゃ……っにゃ、にゃは……ハハ……ご……ご……」


 いつもの、呑気で、陽気で、間延びした声じゃない。

 途切れ途切れで、やっと絞り出したような、苦しそうな声。


「マ……マユ……の、せい……ニャ……は……ハハ、は……」


 もしかして……。

 もしかしてだけど、俺の腕……自分のせいだと思ってる、のか?

 責任感じちゃってるー、的な?

 罪悪感がー、的な?

 そっ……そんなバカなっ!

 これは誰のせいでもなく、強いて言えば避けられなかった俺のせいに違いない!

 そうだ、この世の不利益はすべて当人の能力不足!

 全部俺が悪い!


「マユ……すまん、俺がヘマして……。俺は……全然平気だから、気にするな……」


 大体、今回はマユを守った結果でもなんでもなかったのがクソダサすぎるが、マユのために負傷するなんて、俺にとってはノーベル賞に匹敵する名誉だ。 

 マユは悪くねぇっ! マユは悪くねぇっ!

 やべえ、なんか興奮してきたせいか、急に頭が冴えてきた気がすいででででででででででで!

 心なしか、アドレナリンが大量分泌されて痛みも感じなくなってきた気がすあだだだだだだだだだだ!

 ふぅー……。

 わりぃ、やっぱつれぇわ……。


「っ……にゃっ……はは、ハハハにゃははニャははハハハッ」

「……ど、どうした? マユ……」


 貼り付けたような上辺だけの笑みに、感情のない乾いた笑い。

 いつも通りの自分を気丈に演じているような……あるいは、耐えがたい現実から目を背けて逃避しているような……はたまた、意に反したことを強制され、それに必死で抗っているような……なんとなく、そんな感じがする。

 自分のケガよりもマユの方がよほど心配になってきた俺の思いとは裏腹に、マユは見る見る内に血の気が引いていき、硬く強張った手で激しく髪を掻きむしり始めた。

 ひたすら、狂ったように、がりがりがりがりと……。

 そして――――


「にゃハはははハハッはハハニャはは……ッッ――――――」


 ビタリと、時が止まった。

 そう錯覚するくらい、何の前触れもなくマユは動きを止め……次の瞬間、魂が抜け落ちたようにだらりと肩を落として脱力し、静かに倒れた。


「マ……マユッっ!!?」


 俺は、腕を失った痛みも止血することすらも完全に忘れて、マユを抱き起こして呼びかけた。


「おいっ! 大丈夫か、マユッ! しっかりしろ!」


 何が起きたのか分からないが、ただ事じゃねえ。

 一刻も早く処置を施すべきなのか、それすらも判断がつかないが、残念ながらバックの中には保存食と戦闘用の魔法料理と調理器具くらいしか入っていない。

 ただただひたすらに祈りを込めて叫んでいると、ぐったりとしたマユの口元がわずかに動いた。


「…………もう……こんな時まで、私の心配なんて……仕方のない人ですね、まったく…………エクストラヒーリング」

「えっ……?」


 淡い光が俺の左腕を包む。

 瞬く間に溢れ出る血が止まり、グロテスクな切断面を新しい皮膚が覆った。

 これは……回復魔法?


「……まさか……アユ、か……? 入れ替わったのか? こんなタイミングで」

「そう、みたいですね。突然でしたが、おかげで最悪の事態は免れました」


 マユの様子はまだ気にかかるが、アユにチェンジしたことでひとまずは安心か……。


「…………ただ……」


 ほっと一安心して、患部にじんわりと染み込む温かさを感じていると、アユが声を震わせて小さく呟いた。

 アユらしからぬ弱々しい声を不思議に思い、うつむく顔を覗き込む。

 すると、アユはぼろぼろと大粒の涙をとめどなく流し、悔しそうに口をぎゅっと結んでいた。


「ふぇっ?! なっ、どっ、な、何? どうした? えっ? や、やっぱりどっか痛いのか?!」

「…………すみません……わ、私の魔法では、失った腕を元に戻すことは……できません……。私の、せいで……本当に、すみません……」


 あ~……そういうことか……。

 ある意味マユ以上に想像できないアユの涙に動揺したが、なーんだ俺の腕が治らないとか自分のせいとか、その程度のことか。

 いやいや、さっきまではマユだったわけだし、アユのおかげで命拾いしたし、アユが泣く理由も謝る理由も全然ないじゃん。

 って、そういう理屈は、たぶん関係ないのだろう。

 ずっと同じ体を共有している妹として、愛する姉の行動に責任を感じてしまっているのかもしれない。

 ったく、アユもマユも気にすることないってーのに……。


 まあ、ひょっとしたら魔法なら失った手がニョキっと生えてくるかも、と正直なところほんの少しだけ期待してはいたけどね。

 加えて、突っ込んでいったのが仮にマユじゃなくてマユパパだったら「お前のせいだぞ、こんにゃろめ! 詫びとして娘さんとの交際を許可してくださいお願いします」くらいは言っただろうけどね。

 ……いいなこのパターン、アリよりのアリじゃね?


「アユ……俺はあのモンスターを前から知ってたんだ。だから、近づいたらやべえってことを今まで伝えてなかった俺が悪い。それに、アユの魔法がなかったら俺は出血多量で死んでたよ、絶対。マジで助かった、ありがとう」

「……天地さん……。でも……でも……」


 平常時の五割増しで真剣に自分の思いを伝えたが、アユはなおも暗く、顔をくしゃっと歪ませる。

 そうだよな……気持ちは分かる。

 もし逆の立場だったら、俺はどうするだろうか?

 マユの腕がなくなるだなんて、想像するだけでも死にたくなるが……たとえ俺のせいじゃないと諭されても『拷問 苦しい やり方』とググって、古今東西のあらゆる責め苦を自分に味わわせるかもしれない。


 だけど……。

 だけど…………。

 だめだ、俺にはアユを感情的にも論理的にも納得させる話術などない。


「俺は大丈夫……大丈夫だから……。ありがとう、アユ」

「……うっ……うぅっ…………」


 情けない俺は、何の気休めにもならない言葉を繰り返し、ただアユの頭を優しく撫でた。

 涙を拭って嗚咽するアユを見るのがいたたまれなくなった俺は、顔を上げて周りを見渡す。


 ……そういえば、ここはどこだ?

 もう、うんざりするくらいさまよった樹海か?

 それとも、あのモンスターに飲まれたってことは……もしかして全く別の階層か?

 あれ? というか、今モンスターに襲われたらやばくね?


 「……………………なっ……こ……ここは……?!」

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