第4話 俺、能力は平均値以上でって言ったよね!

「ちっくしょうッ! 何なんだよ! 何なんだよ、この化物は! 何でこんなとこにいるんだよっ!!」

「グガルルルルルルルルルルッッ!!」

「くっそ……! おいっ、日比野! 早く逃げろ! ゴウさんに伝えてくれ、このままじゃ全滅だっ!」

「あ……あ…………ぅ、あ…………」

「聞いてんのか日比野! ビビってるんじゃねえ! もうお前しかいないんだよ!!」


 腰が抜けて足に力が入らない。

 全身が嫌になるほどガクガク震えてるのに、逃げ出そうとしてもなぜかピクリとも動かせない。

 浅い呼吸を繰り返して尻餅をついている俺に背を向けて、血だらけの男は何度も何度も叫ぶ。

 男に振り返る余裕はない。

 鋭く巨大な牙の間から獰猛な唸り声を響かせる双頭の化物――オルトロスが、すぐ目の前にいるからだ。


 通路を占領する大型トラックのような巨体に大樽のような頭が二つ。

 狭さゆえに体中を壁や天井にぶつけ、その度に地面が震える。

 石片が派手に飛び散り、土煙が宙を舞う。

 男は手にした曲刀で距離を保って威嚇することで何とか持ちこたえているが、何度かかすめた攻撃のダメージと疲労により動きは鈍く、長く耐えられそうにない。

 しかし、俺は動けない。

 情けない限りだが、全く体が言うことを聞かない。

 頼りになるはずだった仲間も、すでに三人が……そこかしこに散らばっている。

 足を食いちぎられ……腕を噛み砕かれ……首を捩じ切られ……肉を引き裂かれ……腸を掻き回され……骨を貪られ……人の形を保つことすら許されず、赤黒い血溜まりの中でぐちゃぐちゃになっている。


 何だよ、これ……ッ!

 話が違うじゃねえか。

 ここら辺には弱い魔物しかいないんじゃなかったのかよ。

 何で……何で、こんなことになってんだよ

 こんなところで死ぬのか? 何もできずに? 何も残せずに? 帰れずに?

 動け……動け……動け……動け……動けっ!

 逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ……! 

 無理だ、死ぬ。

 助けなきゃ助けなきゃ助けなきゃ……!

 無理だ、死ぬ。

 どうすれば……どうすればいい?

 お……俺は……俺は……。


「ッ……! う、うおおおおおおおおおおおおおおおおっっ!!」



 ――――遡ること四時間前。

 天と地ほどテンションに差がある俺と、パーティメンバーである四人の男達――自己紹介をしてもらったが、正直まだ名前はうろ覚え――は、生活拠点付近の魔物を駆除すべく出発した。

 ……仕方なく、やむを得ず、不承不承、遺憾ながら。


「あ、そうだ日比野。さっき言ったように、俺たちが住んでる場所――ベースって呼んでんだけど、この近くには雑魚しかいない。んーと、スケルトンとかコボルトとかゴブリンとかだな」

「そ、そう……なんですか……」

「んで、俺達の仕事は、ちょくちょく沸いてくるそいつらを定期的に掃除することってわけ。知能は低いし、腕力も体格も人間と大差ないから、数で攻めれば楽勝だ。それに、俺達はダンジョンに放り込まれて新しい力を手に入れてる」


 魔物から奪ったのであろう幅広の曲刀にカイトシールド、粗雑な鉄鎧で武装した三十代後半の、サイドを刈り上げた短髪の青年……たしか田辺彰人たなべあきとさん? が、ふと思い出したように先頭から振り返って、朗らかに話しかけてきた。

 そういえば、さっきパーティーリーダーとか言ってたっけか。


「ちょっと『ステータス』って言ってみろよ」

「…………はい?」


 年の差による精神的距離を詰める、見事な爽やかさを醸し出すリーダー。

 そのリーダーが発した、初対面である俺に対する唐突にして意図の分からないセリフに三秒間沈黙する。

 とりあえず、言われたワードを口に出した、その瞬間――。


「ぅおあっっ!??」


 突然、目の前に古びた羊皮紙がぼわ~っと浮かび上がる。

 び、びっくりしたぁ~……。

 な、何だこりゃ……って、ん?

 いかにも日本らしくない趣溢れる紙に、違和感しかない見慣れたゴシック体のあからさまなアルファベットと数字が書いてある。

 これは……。



NAME:Tenchi Hibino

LV:1

STR:9

AGI:11

INT:16

MP:0/0

SKILL:Nothing



 …………えーっと、すっごい見慣れたアレなんだけど。

 そう、いわゆるステータス画面。

 え? え? 何これ、どんな手品?

 っていうか、このステータス……俺、か?

 STRは筋力、AGIは敏捷、INTは知力、だよな……?

 おいおいおいおいおい、くっっそカスじゃん。

 目を覆いたくなるほどに。

 当たり前だけどさ、レベル1だし。


「どうだ? すごいだろ、これ。俺さあ、ゲームはあんまやったことなかったんだけど、それでも感動したよ。魔物を倒すとちゃんとレベルが上がって強くなるんだぜ。技とか魔法なんかも覚えちゃってさ」

「え!? ま、魔法もあるんですか?」

「ふっふーん、あるんだなこれが、信じられないことに。まあ、レベル上げても覚えないヤツもいるけどな。俺もだけど……。適性とかあるのかもなぁ」


 なっ!? ま……マジか!

 完全に俺が好きだったRPGゲームの世界そのものじゃねえか。

 そう思うと、恐怖も不安も不思議とかなり薄まった気がする。

 さっきまで無性に百姓に憧れてたのは謹んで撤回させていただこう。


「五年前からいる最古参組のゴウさん――あっ、さっきの凩さんのことな――でさえレベル38って話だから、上げるのはかなりシビアなんだけどな。ハハハッ」


 え~~~~……。

 五年でレベル38とか、クソゲーここに極まれりじゃねえか……。


「どれどれ、日比野のステータスをちょいと拝見……って……う、うわぁ……」

「な、何ですか、その反応は……。っていうか、他の人のも見れるんですか?」

「あ、ああ。相手の目を見てステータスって口にすれば、人でも魔物でもステータスは見れるぞ。それにしても、お前のコレは……。うわぁ~……ひくっ」


 ステータスが書かれた羊皮紙を見つめる田辺さんの表情は、可哀想なものを見るソレだった。

 その憐れむようなドン引くような目を、俺へ紙へとチラチラ何度も往復させるものだから流石にイラっときた。

 そして、同時にへこんだ。

 何それ、俺ってそんなに弱いの?

 てっきりレベル1って大体誰でもこんなもんなのかと……。

 つか、その顔やめろコラ。

 試しに、田辺さんに「ちょ、ちょっと失礼します」と断りを入れてステータスを見てみる。



NAME:Akito Tanabe

LV:7

STR:86

AGI:95

INT:81

MP:67/67

SKILL:Triple thrust,Flame slash



 ……え? 何これ、強っ!

 レベル7でこんなに強くなるの?


「ちなみにSTRとAGIはそのままズバリ筋力と敏捷。レベル上がってから物を持ったり走ったりしたらビビるぞ~、全然違うからさ。INTはスキル攻撃力で、MPはスキルを使うたびに消費されるって感じだな」

「へ、へぇ~~……なるほど……」


 あまりの精神的ショックと危機感に、田辺さんの説明が右から左に流される。

 まっずい、俺クソザコじゃん。

 やっぱ大人しく畑耕すのが天職なんじゃね?

 いやいや、落ち着け。

 まだ慌てるような時間じゃない。

 もしかしたら、秘められた力を持っていて、今後チートクラスにステータスが伸びるのかもしれない。

 はたまた、超絶激レアスキルを覚えて大活躍するのかもしれない。

 男のロマンを諦めるにはまだ早すぎる。

 ……と、夢を見させてくれ。


「ん~っと、ステータスについてはこんなもんかな。後は…………おっと、ちょうどいいタイミングでお出ましだ。よし、みんな! 戦闘態勢っ!」

「「「おうっ!!」」」

「へ? えっ? な、何っ?」


 和やかなムードから一転、田辺さんの一声で全員険しい顔をして武器を構える。

 何事かとみんなの視線の先へ目を向けると……薄暗闇の奥から、二メートルを超える巨大な生き物がゆっくりとこちらへ近づいてきていた。

 灰色がかった緑褐色の、ゴツゴツとした岩のような肌。

 丸太のように太い腕の先端でがっしりと握られた禍々しい槌。

 図体の割に小さく禿げ上がった頭に、鋭く尖った耳。

 不揃いに突き出た剣山のような長い牙。

 歪に落ち窪んだ眼窩の底から不気味に放たれる鈍い眼光。

 現実世界にいるはずのない、見るからに凶悪で恐ろしげな化物。

 ファンタジーではお馴染みの魔物……オークだ。


「っ! う、あっ、ぅおわああああっ!!」


 恐えええええええっ!!

 こ、これが本物の、ま、魔物……!


「落ち着け日比野! 大丈夫だ、大したこたぁねーよ」


 ……いやいやいやいやいや、どう考えてもやべーだろコイツ。

 あの巨体とか、どう見てもザコじゃねえ。

 あのハンマーとか、どう楽観的に見積もっても喰らったら即死だろ。

 うろたえて震える俺をよそに、田辺さんが落ち着いた様子で指示を出す。

 田辺さんと斧持ちの男でオークの左右を挟み、長槍持ちの男が鼻先に武器を突きつけて牽制している。


「よし、魔法頼む。ぶちかませ!」


 リーダーの合図を聞いて、後方で構えていた男が手にした杖をオークに向ける。


「任せろ……! ライトニングッ!!」


 ――うわぁっ、いい大人が魔法をガチで唱えると何か痛々しいな。

 と、普段なら小憎らしい感想を抱くが、今はそんな余裕はどこにもない。

 思考が停止した状態で呆然と見つめていると、杖から青白い雷光が放たれ、見えざる導火線を辿るように宙を走り、オークの胸部に直撃する。


「ヴゥォォオォオオォォォッッ!!」

「今だっ!」


 全身を稲妻が駆け巡り、オークは腹の底に響く重厚な呻き声を上げると、上体をぐらりとよろめかせた。

 その隙を逃さず、挟み込んでいた二人が距離を詰めると同時に流麗な動きで斬りつける。

 すると、オークの首と右腕は一切の抵抗もなく、静かな音を立てて綺麗に斬り飛ばされた。

 肌にビリビリと伝わっていた絶叫が徐々に収まる。

 腕、頭、そして動きを止めた巨大な肉塊が順番にどちゃどちゃと地面に叩きつけられる。


 た、倒した…………のか?

 こんなに、簡単に?


 息をするのも忘れて固まっている俺の前で、田辺さん達は「お疲れー」「ナイスナイスー」などと気楽なことを言いながら互いにハイタッチをしている。

 何だよ、その普段通りのテンションは。

 軽~く送りバント決めた程度の空気だよ、完全に。


「どうよ日比野。魔法ハンパねーだろ。そして俺もカッコよかっただろ?」

「ははは……はは……」


 これが、ダンジョンの日常……。

 これが、今の犯罪者の日常……か……。

 やっていけるかな、俺……。



 それからしばらくは、平和で気楽で安心安全な狩りが続いた。

 あくまでこの人達にとっては、だけどね。

 コボルト、スケルトン、ガルム、グレムリン、キラーアント、ガーゴイル。

 最初のオークで大いにビビらされたが、比較的小型の魔物が続いてほっとする。

 田辺さん曰く、この近辺では人より大きな魔物が出ることは本当に稀らしい。

 まあ、でも怖いっちゃ怖いけどね。


 さてさて、狩りの間、俺は何をしていたかというと……実は何もしていない。

 魔法使いのお兄さんよりもさらに後ろに待機して、終始見学を決め込んでいた。

 とはいえ、そのままのほほんとすることは田辺さん達としても、俺にちょっぴり残っているプライドとしても許されない。

 倒した魔物が二桁に到達し、わずかながら慣れてきた時に俺も攻撃に参加した。

 相手はノロマで見た目も平気な、精神衛生上ありがたい魔物の代表、ベタ中のベタ、シンプルイズザベスト、スライムさんだ。

 結果……俺の渾身の一撃は見事に命中した。

 ぐにゃってなった。

 気持ち悪かった。

 笑いが起こった。

 田辺さん曰く、効いたか効いてないかで言うと、効いてなかったらしい。

 なんでやねん。



「よーし、かなりの数を駆逐できたな。日比野は今日が初めてだし、これぐらいで切り上げるか」


 気づけば、適度に休憩を挟みつつ三時間以上も狩っていた。

 驚きと恐怖の連続だったが、後半は我ながらよく動けていたと自負している。

 少なくとも、足が震えて動けない、なんて情けないことからは脱却できた。

 人間の慣れとは素晴らしいものだね。


「戻ったら、日比野のパーティ加入記念だ。今日は夜通し飲むぞーー!」

「「「おーーーーっ!」」」

「お、お~~~~……」


 ……このノリには、まだ慣れないけどね。

 しかし、こんなインドア派のネガティブ系貧弱男子を歓迎してくれるのは素直に嬉しい。

 さっきまでも、明らかに足を引っ張ってた俺に対して、みんな優しく戦闘のレクチャーをしてくれた。

 その分、期待に応えなければというプレッシャーも感じはするが……。


 近場で狩るのが仕事なので、帰るのはあっという間だ。

 ベースまでは徒歩にして十五分。

 もはや気持ちは完全に祝勝会だった。

 みんな、出発の時よりは気が緩んでいたかもしれない。

 だが、決して油断はしていなかったはずだ。

 たとえオークが集団で襲ってきても冷静に対処できていただろう。

 何事もなく帰れる。

 そう、全員が確信していた。


 そんな中、奴は姿を現した。

 気がつかなかったわけではない。

 地響きが聞こえた。 

 音がどんどん大きくなってきたので警戒した。

 そして、その姿を捉えた。

 行先を仄かに照らす灯篭の灯りを遮る、巨大な双頭の犬。

 通路の奥、距離にして五十メートル。

 見たことのない魔物に、その場の全員が凍りつく。

 脳の処理が停止し、武器を構えることすら誰もできなかった。

 時間にするとわずか数秒。

 その数秒の間に、奴はすぐ目の前まで迫っていた。

 最初に殺られたのは、長槍使いの男だ。

 オークの図体に匹敵するどでかい前足で押しつぶされ、鋭い爪で全身をズタズタに引き裂かれた。

 ここで、あまりにも遅まきながらも俺達はようやく現状を察した。


「ッッ!! オ、オルトロスッ!? み、みんなっ、戦闘準備! 距離を――――」

「グルルォオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」


 戦慄を振り払い、田辺さんは声を張り上げて絶叫するように指示を出そうとするが、ダンジョンの奥まで響き渡るオルトロスの咆哮により虚しくもかき消される。

 暴走する魔犬は、俺たちの反応を遥かに上回る速度で休むことなく激しい攻撃を繰り出す。

 左右の頭による噛み付きを田辺さんと斧持ちがそれぞれ防ぐ。

 しかし、前足の攻撃を避けるのに気を取られた斧持ちが一瞬にしてオルトロスに飲み込まれる。


 バキバキベキッ!

 鎧や兜が壊れる音がした。

 ボキッゴキッパキキッ!

 骨が噛み砕かれる音がした。

 グッチャグチャクッチャッ……

 咀嚼する……音が…………。


「くっ……!! 足に魔法を! 動きが止まったら逃げるぞっ!!」

「らっ……ら、らら、ライト、ニング……ッ!」


 顔を大きく歪めて叫ぶ田辺さんの声で、真っ青になって呆然としていた魔法使いがビクリと体を動かし、怯えながら、たどたどしく魔法を唱える。

 

 ベッッ!

 ガラガラガシャベチャビチャッ!


 オルトロスが何かを吐き出す。

 バラバラになった金属、細切れになった肉片、千々に砕かれた骨、赤黒い大量の血液。

 そして、ベットリと血がこびり付いた口を大きく開けると、チカチカと喉奥が赤く瞬いた。

 ライトニングが巨大な足を捉える寸前、オルトロスは火炎を吹き出し魔法を飲み込む。

 噴火する火山のごとく吐き出された火炎は、その勢いを全く衰えさせることなく俺のすぐ横を通り過ぎ、魔法使いまでも一瞬で包み込んだ。


「ぐあああああああああああああああっっ!!」


 炎って……そんなんありかよっ!

 どうなってんだよ……どう考えてもヤバすぎるだろ、この化物!

 三人がなすすべもなく蹂躙され、残された俺と田辺さんは焼き尽くされた仲間を見つめて絶句する。

 しかし、流石のリーダーはすぐ前に向き直ると、思考も動きも止めることなく一人で果敢に化物に立ち向かう。

 ……無理だろ、勝てるわけねえよ。

 逃げろよ、田辺さん。


 しかし、田辺さんは逃げない。

 曲刀で、盾で、熟練の動きで、どうにか攻撃を捌き、そして俺に言った。

 逃げろと。

 助けを呼んでくれと。

 実際、現状ではそうするのが一番合理的だ。

 レベル1の俺が一緒に戦ったところで、勝率は少しも上がらない。

 いや、むしろ邪魔にしかならない。

 というか、すでに勝てる確率なんてゼロだ。

 だから、田辺さんが足止めをして俺が無様に逃げる。

 そうだ、それがいいんだ。

 リーダーである田辺さんがそう判断しているし、俺もそれが正しいと思う。


 なのに……。

 なのに……俺の足は動かない。

 頭では理解しているのに、体が言うことを聞かない。

 八割は恐怖のせいだが、それだけじゃない。

 俺はただ、単純に嫌だった。

 この人を見捨てて、自分だけ逃げるようなクズになるのが。

 結局は自己満足に過ぎない。

 だが、正しいかどうかより、俺の個人的でちっぽけな気持ちを優先させて。

 俺は田辺さんの命令を無視し、オルトロスに向かって飛び出した。


「う、うおおおおおおおおおおおおおおっっ!!」

「!? ば、ば……っかやろう! 何やってんだ!!」


 ザコモンスター相手に散々体たらくを見せても決して不機嫌にならなかった田辺さんが、初めて激怒した。

 自分がどれだけ馬鹿なことをしているかは分かっている。

 でも、それでも俺は、置いて行きたくない。

 そんな俺の覚悟も決意も勇気も無謀も、結局はすぐに一蹴された。

 オルトロスの強烈な蹴りが、俺を剣ごと軽々と二十メートルも吹っ飛ばした。


「~~~~っ! ぐ……っっは!!」


 折れた。

 アバラが何本か、間違いなく折れた。

 苦しい……息ができない。

 ちくしょう……マジで何の役にも立てなかった……。

 だっせぇな、俺。

 だけど……これで、もう戦う意味もないだろ……。

 無理かもしれないけど、逃げてくれ、田辺さん……。

 せめて痛くないよう殺してくれることを祈って地に伏し、目を閉じたその時。



「にャっはハぁぁあ! オぉぉイシそぉぉおぉなニオぉぃイイがするぅぅデッカぁいワンちゃんデッスねぇええぇぇえぇ♪」


 すぐ後ろから、オカリナのような透き通った音色が、聞こえてきた。

 ……音程がめちゃくちゃな、聞き覚えのある声だ。


「アぁぁれれれェェえ? こぉぉれはこれはぁぁあ……オぉイシかったヒトだぁあ! さぁっきの! ごちそぉぉうサぁマでえしたぁぁあ……ってぇえ、ぼぉろぼろデっスねぇえ、ニャははははぁぁぁああ」


 寝返り一つ打てないズタボロの状態で、どうにか顔だけ向けると。

 俺の腕の肉を容赦なく噛みちぎったキチ女が立っていた。

 相変わらずフラついた足取りで、だらりと腕を垂らし、脱力した状態で。

 少女は夢の中にいるようなトロリとした目をオルトロスに向けると、ゆらゆらと体を揺らしながら、ゆっくりと距離を詰めていった。

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