第2話 PSYCHO-PASS サイコパス

 あ、コレ死んだ――――。


 奈落の底へ落下した直後に脳裏をよぎった予想は、幸いにも的中しなかった。

 どうやら穴は緩やかな斜面になっていたようだ。


「んごっふ!!」


 俺は絶叫の途中で地面に激突すると、勢いそのままにコロコロコロコロと転がっていった。

 何回転したのか皆目見当もつかないが、ようやく平らな場所まで転がり落ちてホッと胸をなで下ろす。

 止まり方が、壁に後頭部を強打するという悲劇であったこともギリギリ許せるくらい安心した。


 くっそ、間違いなく寿命が三日は縮んだ。

 頭痛い、体中痛い、目が回る。

 何とか首を曲げて辺りを見渡すと、天然の洞窟のようにゴツゴツとした岩でできた細い通路が両側に広がっていた。

 等間隔に設置された小型の篝火が、ジメジメとした空間と所々に生えた緑色のコケをうっすらと照らしている。


 うわぁ~……。

 ザ・ダンジョンって感じだな、こりゃ…………。

 とりあえず、どんなに不気味で凶暴で巨大で醜悪で残忍で強靭な魔物が出てこようとも今は五分……いや、十分は動かんぞ。

 ああ、本当だとも。

 俺は謎の決意を固めた。

 ……固めたが、結局のところ一分しかもたなかった。

 だって、思わないだろ?

 さっきまで散々ビビらされた魔窟で一番最初に耳にしたのが、まさか――。


「あぁぁあレレっれれぇぇえぇえ。ゴハぁン食べたぁぁいのぉにぃぃ、ニンゲぇンがころころぉぉりーんってぇぇえぇえ、にゃはははハハハぁぁ!」


 ――まさか、可愛らしい女の子の声だなんて。


 驚きのあまり痛みを忘れて跳ね起き、声のした方へ捻挫する勢いで振り向く。

 そこには、紛れもなく美少女がいた。

 薄暗闇の中でもはっきり映る、透き通るような白い肌。

 人形を思わせる丸く大きな瞳に、小さな顔。

 歳は……小学生? いや、中学生?

 どう見ても俺より若い、っていうか幼い。

 身長は俺より頭一つ分以上も低く。

 どこの学校か分からない学生服を着て。

 子供っぽいデザインをした水色のリュックサックを背負い。

 肩口まで伸びた、爆ぜる火花のように煌く艶やかな緋色の髪をサイドポニーにしている。

 そんな謎の美少女が、ピントの合ってない虚ろな目で俺を見下ろし、口元を大きく歪めてにやにやと笑っている。


 か……可愛い……!

 けど……。

 けど…………。


「にゃにゃにゃーぁぁあ……かわぅぃいいおカオぉおおお。とぉってもフツーぅうでとぉぉぉってもオぉぉィイイシそおおぉぅぅうっデスぅぅ」


 ふらふらとした足取りの少女は、上体をくねくねさせて、小さな頭をメトロノームみたいにカクカク左右に揺らしながら、奇妙なイントネーションで意味不明なことをブツブツ呟いている。

 …………え、えーっと……この子、大丈夫?

 いや、どう見ても大丈夫じゃないな。

 言動がおかしいっつーか、完全に酔っ払いっつーか、法的にヤバイ薬をばっちりキメてる感じなんだけど……。


 さあ、どうする俺。

 初対面の人に大変申し訳ないが、俺の本能が、勘が、警告している。

 こいつぁやべえ、逃げろと。

 ていうか、常識的に考えて関わらない方がいい人種だ、この子。

 どっかの偉い人が「人の第一印象は、出会ってから三秒くらいで決まる」的なことを言っていたけど……なるほど分かりました、確かにその通りですね。

 最初に可愛い声を聞いて舞い上がった気持ちは、姿を見てからたったの三秒で、さっき物理的に体験したのと同じ距離だけ落下した。

 角度はもっとえげつないほど急な感じでね。


 とは言え、だ。

 未知のダンジョンを一人で突き進むことも、なぜかそこに一人でいるっぽい謎の女の子を置いていくことも、若干……いや、大いにためらわれる。

 たとえ、控えめに言って気味が悪い子であってもだ。

 両手で持った剣を強く握り締めながら決死の覚悟で、なけなしのコミュニケーション能力を振り絞ることにする。


「あ……の……ここはダンジョン……なんだよな? 君は……誰? 一人? いつから、ここに? あ、ここって、モンスターとか……ま、マジで、いるのか?」


 我ながら情けない声で、思わず質問攻めにしてしまった。

 しかし、俺の言葉がどれだけ通じたか、その表情からはサッパリ読み取れない。

 相変わらず、大変失礼だが気持ち悪いにやけ顔でこちらをジーッと見ている。


 ……まさか、日本語できないの?

 つか、こええよ。

 えも言われぬ不安を感じながらも辛抱強く相手の言葉を待っていると、謎の少女はゆらりと近づいてきて、急に両手を顔の前でパンッと合わせた。


「ガマンはなぁいのぉでぇぇえ、ガマぁンしてネってこぉぉとでぇぇえぇえ……いっただっきまぁぁぁぁっすぅぅう✩」

「……へ?」


 何を思ったのか、少女は俺の右腕をがっしりと掴む。


「え? いや、ちょっ! な、な、ななななにを……!?」


 思わず振りほどこうとするが、華奢な体に似合わぬ凄まじい力で押さえつけられており、全然、全く、これっぽっちも動かない。

 なん……っだ、この力!

 うっ……そだろ……っ!?

 顔が真っ赤になるくらい本気の本気で引っ張る俺。

 対照的に、涼しい顔で平然としている少女。

 そして、少女は小さな口を大きく縦に開き――。


「かぷりこぉぉぉぉぉぉぉおおおっ♪」


 俺の腕に、噛みついた。

 二秒後には、噛みちぎられた。

 一口大の肉を、ブチブチと。


「いっ!! いっっでででででででででっ!!!」

「んっん~~ぅぅん……っぷはぁあぁぁぁあぁぁ! にゃハァァ、おいいっしぃぃいいいいっっ♡」


 痛い痛い痛い痛い痛いっ!

 なんだコイツなんだコイツなんだコイツ……!

 やべえやべえやべえやべえやべえやべえやべえやべえ!!


「あまぁぁくってぇぇやわらかぁくってぇ……まぁいるどなじゅぅぅしぃぃいでぇ……はにゃぁああぁあぁぁ……♡」


 唇についた血をペロリと舐めながら恍惚の表情を浮かべる女を前に、俺は完全にビビっていた。

 子鹿のように怯えて、恐怖で真っ青な顔を引きつらせていた。

 

 …………あっ!

 そうか……そうか……!

 そういうことかっ!!


 看守が言っていた魔物を、俺はスライムだとかドラゴンだとか、てっきりそういうRPGの定番みたいなヤツだと勝手に思っていた。

 しかし、実際は違ったのだ。

 コイツが……コイツこそが……魔物に違いない!

 多分、間違いない。

 だって、どう考えても人間のすることじゃねーだろ。

 見ず知らずの人を相手にいきなり噛みつくとか。

 つーか、尋常じゃねえ力だったし。

 大体、犯罪者がポイ捨てされる過酷なダンジョンに、こんな小さな女の子がいるわけねーじゃん!

 ……今更だけど!

 騙された……容姿にまんまと騙されちまった。

 人間の姿してるとか反則だろ。

 事前に言っといてくれよ!

 逃げろ、逃げろ、逃げろ……!!


「う、う、うわあああああああああぁぁぁぁっ!!」


 紅潮した頬に両手を添えて不気味に悶える少女に背を向けて、俺は薄暗いダンジョンの奥へ奥へと駆け出した。

 恥も外聞もかなぐり捨てて、裏返った悲鳴を上げながら――。




 ――――どのくらい走っただろうか。

 少なくとも、火事場の馬鹿力を使い果たして今すぐぶっ倒れたいくらい走った。

 少なくとも、後方よりも前方の方が怖くなってきたくらい走った。

 というか、よくよく考えれば、この状況で目の前に新手の魔物が現れたら……どうしよう。

 この剣で勇猛果敢に戦う?

 ……満足に振り回せるとは、とても思えないけど。

 ぶっちゃけ、重くて重くて、今しがた逃げている際も捨てていこうかと何度も思ったけど。

 そもそも、俺がこの剣を漫画やゲームにおける伝説の勇者のようにカッコ良く使いこなせたと仮定して。

 さっきのキチ女を一切の躊躇なく切り刻めるかと言われると……答えはノーだ。

 一応は可愛かったからとか、そんな理由では断じてない。

 明らかに人外の化物であっても同じだ。

 俺はそういう度胸のないビビリ野郎だからだ、どやぁ。


 って、何を考えてんだ、俺はバカか。

 まあ待て、落ち着け。

 状況を整理しよう、クールになるんだ。

 えーっと……現在、俺は孤立無援、疲労困憊、腹が減った、喉も乾いた、武器は扱えない剣、防具は耐久性どころか防寒性すらない囚人服、どこへ行けばいいかも分からない、いつ恐ろしい魔物に襲われても不思議ではない、むしろ、すでに襲われて早くも腕を負傷、超痛い。


 ……。

 …………。

 ――――ふぅ~~~~~っ…………詰んだ。


 なすすべがない。

 もはや、奇跡的に救いの手が差し伸べられるのを祈るばかりだ。

 宝くじで三億円が当たる確率よりは高いだろう、多分。

 誰か来てくれ……助けてくれ……ここから出してくれ……。


 そんな俺の願いが届いたのか、はたまた俺の命に止めを刺しに来たのか。

 ふと、前方の曲がり角から物音が聞こえた。

 だんだんと音は大きくなっていく。

 ガチャガチャガチャガチャという……これは……金属音、か……?

 無意識に背筋をピンと伸ばし、息を呑んでフリーズする俺の前に……。

 ぬらりと大きな人影が現れて、思わず卒倒しそうになった。

 が――――。


「うおっ! お、おい、見ろよ。人がいやがるぜ!」

「マジだっ、子ども……子どもがいるぞ!」

「腕を怪我してやがる……。小僧、大丈夫か!?」


 ……………なんと。

 本当に助けが……来てくれた、のか?

 俺の日頃の行いがよかったのか、無骨な鎧を身にまとい、剣や盾を手にした屈強な男を神様は連れてきてくれた。

 しかも、五人も。


 ……いや……待てよ…………。

 もしかして、さっきのホラー女みたいに人間っぽい魔物だったり……?

 しかし、俺の腕から流れる血を見て心配してくれていることから察するに、どうやらマジで味方……のような気がする。

 そう信じたい。

 体格の良さと声の野太さと物騒な出で立ちと人数のせいで、違う意味で恐ろしいけど。


「新しい受刑者か……かなり若いな」

「傷は浅いみたいだし、一旦連れて戻ろうぜ」

「おい、歩けるか? ここは危ねえから俺達についてこい」


 お……おおおおおっ!

 なんということでしょう!

 半信半疑で満身創痍で正体不明の怪しい若造に、男達は眩しい笑顔を向けてくれるだけでなく、あろうことか肩まで貸してくれたのだ。

 俺は心の中で土下座して謝罪する。

 実際に土下座している場合じゃないので、そこも含めて許して欲しい。

 何だよ、メチャクチャいい人達じゃねえか、疑ってんじゃねえよ俺。

 ……てか、うら若き乙女に酷い目に遭わされて、厳ついマッチョガイに親切にされるとか、ダンジョンってマジ難解。

 攻略本とかないのかね?

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