続 がんばれ!はるかわくん! -16-

 ヒミズさんは箱のふたを裏返すと、そこに手を入れた。何かを剥がす音がする。


 ヒミズさんの大きな手には、ビニールのなかに入った小さな銀色の袋と、黒い箱が握られていた。

 今度は黒い箱を俺に差し出してくる。

 右手に紙皿を持ったまま、左手でそれを受け取ると、もう涙はぬぐえないまま流れっぱなしだ。


「お。おまけ付き?なにそれハル。」

「お茶を入れてきます。」


 ヒミズさんは銀色の袋を持ったまま立ち上がった。どうやら銀色の袋には、紅茶が入っているのらしい。


「え、ヒミズ、ぼくらのケーキは?取ってくれないの?」

「ありません。春川のケーキです。」

「「 えー! 」」


 店長とアンドーさんが同時に非難の声をあげる。


「お皿、もう2,3枚くらいあんでしょー?」

「ないんだ。フォークが。」

「割り箸くらいあんでしょう。」 「割り箸なんかでケーキを…」

 二人で話しながら、アンドーさんはヒミズさんについてキッチンへ向かって行った。


「おまけ、開けちゃおうよハル。ヒミズはなんか照れくさいみたい。」


 店長が耳元でささやく。

 そうかな?…俺には全部、同じ無表情に見えるけど。


「指輪だったりして…ふふふ」


 なぜだか嬉しそうにして、店長は俺のかわりに、俺の左手から箱を取り上げて目の前で箱を開けてくれた。


「…時計だ。腕時計。」


 ほんとだ。

 中には、真新しい腕時計が入っていた。

 ベルトは革で、ベージュより少し濃いくらいの、明るいブラウン。白い糸でステッチがほどこされている。

 時計の周りは品のいいシルバーだけど、文字盤自体がダークレッドだからそんなに堅苦しくは見えない。数字は白。日付と、なにかを表示しているのだろう2つの小さな円がある。

 そこに浮き立つように、白い長針と短針、それから秒針が、すでに静かに動いて時を刻んでいた。


「いいね。かわいい。ハルに似合いそう。」


 店長は時計を箱から取り出すと、もう俺の左手に時計を取り付けてくれている。


「…え…これ、…こんな高そうなの、俺なんかがもらって…いいんですかね…」

「ヒミズは持ってて欲しいんだよ、ハルに。

…たぶんねハル、これをつけてれば、ハルがピンチのときにヒミズがすぐに助けに来てくれると思うよ、ハルがどこにいても、ね…」


 店長はなんだか意味深に、くすくす笑いながら言った。



「――佐東はもう来ないよ。」


(えっ?)


「死のうとしたでしょ。さっき。」


 店長がいきなり耳元で、つぶやくような小声で言う。


 胸の芯の部分を、いきなり強く握りしめられた気がした。

 無意識に抑えつけていた黒い何かが、心の奥の冷たいところから、一気に吹き出し、体が重くなっていく。


…そうだ。

 あのひとに抱えられて、おぼろげな意識の中で、暗い底に沈みそうになりながら、俺はあのとき…ただ、楽になりたかった。

…死にたかった。


「がんばったけど、限界だったんだよね。でも、二度としないでね。」


 店長は俺を、後ろから強く抱きしめて、また耳元でつぶやくように言った。


「きみが死ぬと、死にたくなるくらい哀しむひとがいるんだってこと、覚えていてね。」


「……。」

 胸が詰まる。

 あのときの俺は、自分のことしか考えていなかった。

 でも、責められてるんじゃない。

 店長は、優しい声で俺の心をなだめてくれている。それなのに、

「…すみま…」

 謝ろうとしてすぐにまたのどが痛くなり、涙が出てきてしまった。

 店長の今の言葉で、俺の、底抜けの闇や汚れが、全部ぬぐいさられた気がして、…ただ、うれしかった。


「…げ、また泣いちゃったのハル?」

「…は、…っふふ…」


 ここ数日、俺は、なんだか毎日のように泣いてしまっている。

 悔しかったり、悲しかったり、怒ってだったり、うれしかったり…


 あのひとから泣かされることはあったけど、自分自身がこんなに涙もろいなんて、知らなかった。

 ここ数日で、俺はいろんな涙を一気に流したような気がする。おかしくなって、俺は笑ってしまった。


 でも店長には見えてないから、俺が泣き崩れたように見えたらしい。店長は急に不安げな声を出した。


「え~ぼく、いいこと言ったつもりなのに…。きみを泣かせたのがばれると、ヒミズがやばいんだよ…。あ、そうだ。」


 店長はなんだか慌てた様子で、いきなり俺の体を傾けたので、俺は店長の腕のなかに横向きに倒れた。ケーキを落としそうになって慌てる。顔を上げると店長の顔が目の前にある。

 店長は、今度はフォークを取ってケーキを割った。


(ホラ、ハル!)

「わ」

 どうするのかと思っていたら、こっちはまだ涙がおさまってないというのに、店長はケーキを無理やり俺の口に押し込んできた。けっこうな塊だ。


「んむ」

(もっとアーンして、アーン。)


 まろやかで甘すぎない絶妙なクリームの味と、その奥から、かすかにチョコレートの苦味。洋酒がスポンジをしっとりとさせ、かつ、ケーキの甘さを存分に際立たせている。

 ナッツが入っているのか、噛みしめると香ばしい風味が鼻に抜けた。同時に来る、イチゴの酸味。

 うわ超うまい。でも、(泣きながら食べるの、苦しい!)


 何度か咀嚼してから飲み込んで息をすると、店長はさらに残ったケーキを俺の口に近づけてくる。


「…あ…(あの、ちょっともう!)ムグっ!」

(ヒミズが戻ってきたら、ケーキのあまりのおいしさに涙が出ましたって言ってね!)

「う、うっ」


 店長が耳元で、強めの小声でささやくのがくすぐったくてしょうがない。

 だいたい何、その理由。俺はそんなことで泣いてることになるのか。


「あったわよフォーク!……ちょおっとナニやってんの!」

「ケーキ食べてんの。」


 アンドーさんに続いてヒミズさんも顔を出す。


「泣いてるじゃないですか!」

「おいしくて涙が止まらないって。ね、ハル。」

「そんなわけないでしょうがこの、馬鹿!」


 あわわわわ。

 こんなに怒ってどなり散らしているヒミズさんは初めてだ。思わず身をすくめると、


「ばかって言われちゃったね~ハル。」


 店長は全然気にしてないようで、俺の顔を見てニッコリと笑ってみせた。

…店長の笑顔は、やっぱり、すてきだ。

 思わず見とれてしまう。


「…あなたに言ってるんですが。」

 店長の指が俺の頬に触れる。

「なんだこれ」

 店長の顔が近付いてきて、今度は店長の舌先が俺の頬に触れた。


「ふ」


 いやじゃないのに、店長に触れられると相変わらず体が震える。

咲伯さいき!」

「生クリームだった。」

 店長がくすくす笑う。


「大声出さないでよヒミズ。春川がおびえてるよ。」

「あなたが春川を驚かすからでしょう。もう少し春川から離れてください。それじゃあケーキも食べづらい。」

「じゃあぼくから奪ってみなよー。」


 店長の声がいちいち体中に響く。

 ヒミズさんと何か話しているが、俺は相変わらずドキドキしながら店長ばかり見ているので、声は聞こえているけど内容が入って来ない。

 ヒミズさんと話す店長の声は、本当に楽しそうだ。


 店長の笑顔を見ながら、思った。

 最近は、ずっと、いやなことがあるたびに店長のこの笑顔が浮かんでいた。


 目を背けたいとき。

 殻に閉じこもってしまいたいとき。


 自分を守るために、本能的に思い出そうとしていた…―いや、

(ちがうだろ。)

 わかってる。店長の笑顔に守られたかったんじゃない。


(単純に、俺が、店長のことを、好きなだけなんだ、すごく。)


…だけど、


 店長は、ヒミズさんのことが好き。

 そのことも、俺はちゃんとわかってる。


 店長にとって、俺は、庭にフラッと遊びに来たノラ猫くらいの感覚でしかないんだろう。

 そのことは俺を少しむなしくさせるけど、こうして店長の笑顔が目の前にあると、そんなことがどうでもよくも思えてくる。


「ぼくも食ーべよ」

 店長は子供みたいな言い方をして、俺に使ったフォークでケーキをまぐっと頬ばった。

「ずるーい!私も食べたーい。」

 言いながらアンドーさんはフォークを持ってそばにきた。なんだかにやにやしている。

「ケーキまみれの春川ちゃん、私も食べたーい。」

「アンドウ!」

 店長とアンドーさんは二人で顔を見合わせて笑っている。


(………。)


 ヒミズさんは、店長やアンドーさんによると俺のことを気に入ってくれているらしいが、俺はそうは思わない。

 ヒミズさんはたぶん、俺が店長のことを好きなのを知っている。

 それで、俺が店長に振り回されてバカみたいに大騒ぎするのを、ガキっぽく、疎ましいと思って見ている。


「ケーキ、ほんとにおいしいよ、ヒミズ。」

 店長がケーキを飲み込むと、くっきりとしたのどぼとけが大きく上下した。


…たぶん、ヒミズさんも、店長が好き。

 というか、絶対的な存在なんだ。

 店長を絶対だと思ってるヒミズさんは、店長のためならなんだってする。…俺を襲ったのも、ヒミズさんのことが大好きな店長が、勘違いしたあげく「気を利かせて」命令したからなんだ。 と、今は、思える。

 悪いひとでは、ないのだ。 店長がいつか言っていたとおり。


「紅茶、持ってきます。」

 ヒミズさんはまたキッチンへ戻ったようだ。

「あら時計。腕時計もらったの春川ちゃん。わー、いいじゃない!…でも春川ちゃんの手首に比べて時計部分が大き過ぎない?」

「いーんだよヒミズ的にはこれで。」

 キッチンからヒミズさんの舌打ちが聞こえた。(…なんだ?ヒミズさん的には、って。)



「…あらためて、誕生日おめでとう、ハル。今日から、ハルの新しい人生が刻まれるんだ。まさしく今日は、ハルの誕生日なんだよ。わくわくするね。」


 店長にそう言われると、やっと落ち着いてきた涙腺がまた騒ぎ出しそうになる。


「たまにはいいこと言うじゃない咲伯~。

 春川ちゃん、これから何するの?なんでも出来るのよ、春川ちゃんがしたいこと、なーんでも!」


 キッチンからヒミズさんの声がした。

「まずはIDを確保しないと。春川の持っている被保険者証は古いし、きっと更新されたものが自宅に保管されているはずです。それと家庭裁判所に連絡して…」

「ちがうってばヒミズちゃん、そんな事務的なことじゃなくて、生まれ変わった春川ちゃんが、純粋に、今、一番したいことだってば!」


 今、一番したいこと…?


 そんなの、ここが現実なんだとしたら、考えられるのはひとつしかなかった。

 口に出そうとして、彼を思うとノドがつぶれた。


「アラどしたの春川ちゃん、なんで泣くの、そんな悲しそうな顔しないでよ。アンタが泣くのってスゴくかわいそうなのよ。なんか悪いこと言った?アタシ。」

「…アンドーが泣かせたんだからね、今度は…。…どうしたの?ハル。」

 軽く笑ってみせたいのに、声が苦しい。


「…親友に…会って、お詫びしたいです……実は、俺なんかに関わったせいで、大ケガしたやつがいて…」


 お詫びくらいじゃすまないだろう。

 俺は、大窪に対して、どう償えばいいのか。


 店長の大きな手が、俺の頭をガシガシ撫でた。

「…大丈夫だよ、大窪くんなら。ぼくとヒミズが保証する。」

「え…?」

 キッチンから咳払いが聞こえた。

「だれだれ、なあにい、オークボくんて?」


(………。)


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