続 がんばれ!はるかわくん! -8-

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 春 川


《 DATE 2月14日 午前10時18分》


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 道を(箱を傾けないように)小走りで渡って、ポストに着いて階段を見上げると、いつもとまるで同じ光景。

 当然だ。おととい出て行ったばかりだ。


 なぜかすでに、ここ数日のこと、いや、店長の店で3週間ものあいだバイトをしていたことすら、とても懐かしいことのように感じられた。

 足元がやたらふわふわとして、夢のなかで過ごしていたような気がする。

 現実味のない、幸せな第三世界。


――…そうか。店長がいつか言っていた、まさに、「パラレルワールド」だ。


 ヒミズさんがくれたこの箱がなければ、すべては夢か、別次元の出来事だったんじゃないかと思っていたことだろう。

 もしかしてこの箱を開けると、おとぎ話のように白い煙が出てきて、俺はなにもかも忘れてしまう…―なんて、思わずひとり、クスリと笑う。


 階段をゆっくり上りながら、今日これからのことを考えた。


 ベランダの洗濯物を部屋干しして、コンビニに行って、賃貸住宅情報誌とバイト本を買おう。


 いや、それよりも携帯だ!

 まず新しい携帯電話を買いにいこう。

 新しいバイト先では、知り合いや友人をたくさん作ってアドレスに登録しよう。


 雨は降ってるし空気は冷たいけど、俺は今、すごくすがすがしい気分だ。

 きっとこの2、3日で、俺は変わった。いいほうに。


 ウジウジと考えてうずくまるんじゃなく、振り切って前に進むことにエネルギーを費やす方法が、やっとわかったように思う。

 なんでも出来る気がする。今日からは。


 鍵を開けてなかに入る。


(よ~我が家よ、久しぶり。……)



 それから気づいた。


 タバコの匂い。


 一瞬のんびりと構えて、窓が開いているのかと思う。

 背筋にすさまじく冷たいものが走ったのは、次の瞬間だった。


 あわてて外に出ようとしたが、遅かった。


「 大窪がどうなってもいいのかあ。 」


 部屋の奥からどなり声が響く。

 聞き覚えのある、あの低くて重たい声。

 耳に入ってきた瞬間、体中の血液が凍りつく。


……大窪、って…言ったのか?いま…。


「入って来いよ。お前の部屋だろ。」


 指先が冷たくなってきた。

 大窪に、なにかあったのか。それとも、今から何かしようとでもいうのか。


 行ってはいけないという思いが体をうまく動かしてくれない。でも、行かなければ大窪に何が起こるかわからない。

 倒れ込みそうになるのをこらえながら、部屋のなかに入る。

 台所の向こう、リビングが見えると、めまいがした。


 ああ。

 あのひとがここにいる。


 部屋の右すみに、壁を背にして座っている。靴のまま。


 ビールの缶と、日本酒の空瓶が、いくつか床に転がっている。

 ビールの缶を灰皿がわりにしているようだった。


 部屋は薄暗い。外が雨だからだろう。


 自分の部屋だというのに、あのひとがいるだけで、部屋の中にざらざらとしたフィルターがかかっているような錯覚を覚え、部屋の隅がよく見えない。

…あのひとから目が、離せない。


 なにも言えないまま立ち尽くしているうち、やがて、めまいは治まってきた。


 それから、目の前の光景をじっと受け入れると、

…俺は、不思議と、だんだん落ち着いてきた。


 息を、ゆっくり吸って、そっと吐き出す。


(怖くない。俺は、もう、怖くない。)



 ふと、「違和感」を感じた。

 あれは、本当にあのひとなのか?


 コートがしわくちゃだ。髪の毛もボサボサで…、らしくない。前よりやつれたようにも見える。


「よう。」


 片方の唇をあげて軽く笑う。

 いつもの表情だけど、何かが違っていた。


 俺の知っているあのひとは、いつでも威厳と自信に満ちあふれていて、俺を見下ろし、巨大な影を作って俺の前に立ちふさがっていた。常に。


 でも、今のこのひとは…

――…こんなにも、小さかっただろうか…?


「どうしてここがわかったんだって顔をしてるな。」


 俺が答えないでいると、そのひとは続けた。


「カンザキマイとかいう、お前に夢中になってる女の携帯にウィルスを送り込んで、いろいろと情報を仕入れたんだ。…あいつ、お前のストーカーしてたんだぜ、気づいてたか?」


 カンザキマイ…アプリで俺の写真を撮った、お店のお客さんだ。

 俺がまだ何も言わないので、そのひとは動きを見せた。


「何を持ってる?」


 ひざに手をつき立ち上がろうとしている。


「――来ないでください!」


(…えっ)

 自分の発した言葉に、少なからず驚く。


 確かに俺が言ったのだ。

 少し震えていたが、堂々として落ち着いた声に聞こえた。


 そのひとも、俺が反発したことに少し驚いたようだった。座り直して、でもすぐに慣れた表情を取り戻す。


「どうした。俺を忘れたのか?」

 こっちに向かって手招きしている。

「来い。」


 俺は動かなかった。

(動けないんじゃない。)


「何やってるんだ…… 来い!」


 あのひとの声が部屋中にびりりと響き渡る。

 怯んだ体が少し震えてしまったが、俺はまだわりと平常心を保てていて、自分でも驚くほど冷静でいる。


 前には進まずに、あのひとから目をそらさないままゆっくりかがんで、足元に白い箱を置いた。


 さらにかばんを降ろして中を探る。

 印鑑と通帳が入ったポーチを取り出して、中身を全部出して床の上に広げてみせた。


「俺の通帳です。全部揃ってます。黙って持ち出して、すみませんでした。ちょっと減ってますが、」


 立ち上がって、いったん息を飲み込んだ。

 声が震えるのを抑えるために。


「差し上げます。」

「…なんだと?」


 つぐもうとするノドを奮い立たせる。


「俺はもうあなたのものじゃない。」


 せきを切ったように、俺のなかから外に向かって、なにかがほとばしり始めているのを感じた。


「あなたは今日から、俺の保護者でもなんでもない。今日は、2月14日。俺の、20回目の誕生日です。」

「お前、 「今まで!」


「…ありがとうございました。これは、俺からのお礼です。すべて差し上げます。だから。」



「―だからもう、俺につきまとわないでください!」



……言った。

 8年近く、ずっと言いたかったことを、俺は言いきった。


 手も足も震えていたけど、きちんとあのひとの目を見て、ついに言ったのだ。


 部屋の壁に沿って体を右へずらしていく。

 威嚇するようにあのひとを睨んだ。

 端まで寄って、最後の一言をぶつけた。


「出て行ってください。」


 俺の人生から。


「大窪にも、手出しはさせない。」


 そのひとは、まだ座ったまま俺を睨み返している。


 その顔に、やがて俺が一番嫌いな笑みが浮かんできた。

 相手を見下した、下品で下衆げすびた笑み。


「…大窪がどうなったか教えてやろうか?」


 そしてゆっくり立ち上がる。

 とたんに部屋がうす暗くなったように感じた。


 徐々に息苦しさを覚えながら、考える。

…――「どうなったか」、だって?

……過去形じゃないか…


「俺もな、余裕がなくなってきてな。手段を選んでいる暇がなかったんだよ。まったく、大人を困らせるなよな。お前がとっとと帰って来てればこんなことにはならなかったんだ。」


 いつの間にか握りしめていた両手に、さらに力がこもる。

…聞いてはいけない。


「前にお前がいたあのアパート、調べたらどっちも大窪のとこの物件だったんだな。

 賃借人の名義が、大窪の不動産屋の取締役名義になってた。大窪の兄貴だよ。最初は気づかなかったが、お前の高校の同級生だろ、大窪ってやつは。


 もしかしてお前は、大窪に家出の手助けをしてもらったんじゃないのか?

 お前ふぜいが、ひとりでここまで出来るはずがないもんな。


…まあ、そういうことで、ちょっと調べてみようと思ったんだよ、大窪のことを。

…だけど俺も資金ぐりが大変でな、お前のためにそんなに金がかけられなくて、…仕方なく、よくわからんチンピラ風情に、ちょっとあたってもらったんだよ…。」


 そこまで話して、いったん黙ると、くっ、くっ、と、そのひとは、笑い声を含ませ始めた。


「……大窪な、…あいつ、男のくせに、ずっとお前に惚れてたんだ。……知ってたか?」



(…何言ってるんだ!)

 そんなわけない。大窪は親友だ!

 …いや、落ち着け……まともに聞いちゃだめだ…!


「別にあそこまでしなくても良かったのに、大窪もかわいそうにな、大の男3人に輪姦まわされて。…けっこうかわいい顔してるからな、あいつも。」


…何を、言いだすんだ…。


 体が勝手に震え始める。息が苦しい。


 とうとうそのひとは、声をあげて笑い始めた。こらえきれないというふうに。

 そこに、さらに軽々しく言葉を重ねてくる。


「あいつ、とうとう口を割らないまま、病院送りになったって。何されたのか知らないが、一生、人工肛門つけて暮らすんだってよ!」


(―――!)


 後ろの壁で背中をうった。

 思わず口を押さえる。…吐きそうだ。


 でたらめだ!全部うそだ!


 頭を振って自分に言い聞かそうとするけど、頭のなかでは勝手に憶測が飛びかい始めていて、まない。


 こないだ見た大窪のメールは、確かにおかしかった。

 いつもはもっとだらだらと余計な話題を書いて、俺を和ませてくれるのに。


――『げんき?おれのアパート、やつにみつかったのか?今月末にひきはらうって知りました。そのあとどうするの。またあたらしい部屋、紹介するよ。心配だから連絡くれ。大学がいそがしくてしばらくあえないけど、携帯にメールください。』――


 要件だけの簡易的な文章。

 俺を気遣う言葉の羅列。


…どうして気づかなかったんだ。

 大学が忙しいんだろうと本気で信じ込んでいた。

 大窪は、それでも、俺なんかのことを心配して…


「当然だよなあ、大人の言うことはちゃんと聞けって。」


 すぐ上で声がして、はっと顔をあげる。

 すぐ目の前まで詰め寄られていた。


「…だから…、お金なら、…全部…」

 くそ。声が震える。


 目の前のそのひとは、ちらっと通帳のほうを軽く見下ろして、

「こんなはした金じゃ、もうどうにもならんさ」

とつぶやいた。

「金が目当てなら、とっくに通帳を凍結させてやってるよ…。」


 そのひとが、また俺を見る。


「カイト…。」


 久しぶりに下の名前で呼ばれた。

 右手が伸びてきて、指先で首もとを触られる。


 触れられた部分から全身に向かって、一瞬のうちに悪寒が駆け抜ける。


……やめろ…


「…おおきくなったな。あのころより。」

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