続 がんばれ!はるかわくん! -5-
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春 川
《 DATE 2月14日 午前7時12分》
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目が覚めると店長が目の前にいて俺を見ている。
―― 夢か。
何度か目をしばたいて、……
飛び起きた。
夢じゃない。
「…えっ…」
えっ?
部屋のなかはほの明るい。
照明のせいじゃなくて、天井付近にある細長い窓から日の光がさし込んでいて、対面のクリーム色の壁にあたって部屋全体を明るくしているのだった。
「わっ」
店長の長い腕に絡め取られてベッドに倒される。
「おはよう」
「あ、おはよう、ございます…」
店長の顔がすぐ近くにあってどぎまぎする。
「びっくりしたよー。絨毯のうえで寝てたから。」
…そうだ。
絨毯のうえのはずだったんだ。
ベッドもソファも、スプリングの音が苦手で避けたのだ。(いつ迎えに来てくれるかもわかんなかったし。)
「それにしても、よく眠るよねキミは。」
まったくだ。ベッドに運んでもらったのも気がつかなかった。
「どうやらこの部屋は、キミにとってよほど居心地がいいんだね、良かったね。…あ、それともまだクスリが効いているのかなあ…。」
店長はひとりごとのようにつぶやく。
俺は店長の鎖骨のあたりばかり見ている。目が合わせられない。
店長はざっくりとした白い綿のシャツを着ている。
「さっきね」
店長が頬を撫でてきて、触れられた瞬間驚いて店長の顔を見上げると、店長と目が合う。
店長のきれいな目に見つめられている。
俺は、さらにどうしていいかわからなくなって、あわてて視線を少し下にずらし、店長の薄いくちびるを見る。
「さっき部屋に入ったとき、床がチョコでね」
(…?)
「床の色がチョコレートみたいで、絨毯が抹茶色で、まるでなにかのお菓子みたいだった。それで、羽毛布団を巻いてるハルが、ホイップクリームのなかに寝てるように見えてね」
「かわいかったよ。」
頬をゆっくり撫でられながら、店長の薄いきれいなくちびるが落ち着いたトーンでそんなことを言うので、俺は、自分がまるで本当にクリームになったかのような錯覚を覚え、なんだかこのまま溶けていってしまいそうな感覚におちいる。なんだろう。今までに経験したことのない幸福感が体中に広がる。
(本当に、このまま溶けて、「俺」がなくなってしまえばいいのに…。)
店長の顔が近づいてきたので、そっとうつむく。
すると店長は、右手の指先で俺のあごを軽くつまんで上に向けた。
それから両方の手のひらで俺の顔を横から優しくはさみこんで、俺の鼻に自分の鼻をすり寄せてくる。
「っ…」
店長の行動は穏やかで自然体なのに、俺の体は勝手に怖じ気づいて、店長が動くたびにいちいち震えてしまう。
うとましくて仕方ない。
ちゃんと受け入れたい。
…だってもう、
…これで、本当に最後かもしれないんだから…―
「ふふふっ」
店長が軽く笑うので、俺も店長を見て必死に笑顔を作ってみせる。
「…―ここにいてもいいんだよ、ハル。」
ふいに、…いや、…ついに言われてしまった。
俺が想定していたなかで、一番欲しくて、そして一番怖かった言葉。
ありえないけど、万が一そう言ってもらえたなら―
…俺は、そのために用意していた、一番「言いたくない」、でも「言わなければならない」答えを口にする。
「大丈夫です。」
頑張って目をそらさないようにした。
店長が俺の顔に手を添えるのは、そういうことなんだ。
もう一度、笑顔で言いなおす。
「ひとりで大丈夫です。」
よかった。
ここで泣き出してしまったら情けないと思っていたから、泣かずに言えてよかった。
店長は相変わらず俺を優しく見ていたが、俺が答えを言い終わると少し驚いたようだった。
「ほんとに?」
俺は店長に顔をはさまれたまま、何度かうなづく。
「ふぶ」
横向きに寝たまま、いきなり店長にきつく抱きしめられた。
頭ごと肩のなかに押し付けられて、店長の硬い鎖骨がくちびるにあたる。
「ほんとにー?」
店長は愉快そうにまた言う。
口を開くと店長の鎖骨をくわえてしまいそうなので、うなづこうとするけど、店長が手のひらで包み込むように俺の頭を押さえつけてくるから何も出来ない。
「ン!」
突然腰のあたりを何かに刺激されたので、店長のあたたかな鎖骨を本当に口に入れてしまうかと思った。
店長は俺ごとごろん、と仰向けになったので、俺は店長のうえに腹ばいのまま乗る格好になる。
店長は左腕でズボンから何か取り出した。携帯だ。
店長が右手で俺の頭をつつくので、あわてて顔をあげると、店長は、まだ振動し続けている携帯電話を左手に持ったまま、右手の人差し指を口に立てて見せた。(しー。)
店長の長い右腕はそのまま俺に巻きついてきて、俺の体をやすやすと完全に上へ引き上げると、その手のひらで俺の口をふさいだ。
あのときを思い出して、少し固まる。店長の顔がすぐそばにある。
「あ、おはよう。朝ごはん?うん行く。今?うんそうぼくの部屋だよ。え?あ、バレてた?ははは。」
電話の向こうはヒミズさんみたいだ。
なんと言ってるかはわからないが、なんだかまた怒っている。
店長は相変わらずにこにこ、というか、デレデレしている。
「何もしてないって。だったらこっち来ればいいよキミも。なんで?じゃそっち行くよ。いいってば、行くからそっちに。」
店長の声は俺の体に振動して伝わってきて、体全体がくすぐったくなった。
電話を切った店長は俺の顔から手のひらをどけながらまた体を回転し、俺を横に置くと顔を寄せてきて、そのまま俺の口に軽く口をつけた。
「朝ごはん食べよう」
…俺はまた複雑な気分になっている。
さっきまでの幸福感が、ヒミズさんの登場で壊れてしまった。
店長はヒミズさんが好き。
でも、俺にも平気でこういうことをする。
キスなんか、きっと店長には意味のないことなんだろう。…いいけど、どうでも。
…そう、いいんだ。
あと少しで、俺の人生から消えるひとたちなんだから。
パジャマのままでいいよ、と言われて、ベッドの横にあったモコモコしたスリッパを履く。
店長の後ろについてドアから出ると、傾斜がかった廊下が左に向かって続いている。
部屋のなかはクリーム色だったけど、一歩外に出ると、廊下の壁は、打ちっぱなしのコンクリートで薄暗い。
廊下を進むと、昨日ヒミズさんが曲がるのが見えたとおり、やっぱり右に曲がる。
と、店長の背中ごしにまぶしい光が見えた。
目が慣れてくると、すごく大きな窓、…いや、(ガラス張りになってる!)
壁一面がガラス張りなのだ。
天井はすごく高い位置にある。少なからず興奮した。
ガラスの向こうには小さな庭があって、名前は知らないけど見たことのある、背の高い白い木が3本。白い枝の形がとてもきれいだ。
根元には冬特有の、白っぽい芝生。そのすぐ向こうに黒っぽいグレーの建物が見えて、対比が美しい。
庭はグレーの壁に四角く囲まれていて、中庭なのだとわかる。向こうとこちらは同じ建物のようだ。
ああ、いいなあ。
本当に、すごくきれいだ。
「雨だね。」
気づくと俺は、いつの間にかガラスに吸い寄せられていて、中庭のすぐ前に立っていた。
目の前のガラスには水滴がついている。なるほど外は雨なのらしい。
焦点をずらすとガラスに手を置いたままの俺が見えて、そのすぐ後ろに店長が立っているのが見えた。
ガラスに手のあとがついてしまう。
はっとして離そうとしたとき、横から店長の左手が伸びてきて、店長はガラスのうえの、俺の左手の横に手をついた。
「小さいなーハルの手。」
「…そんなに、変わらない、と思いますけど」 「いやいやホラー」
店長は左手で俺の手のひらを持って横に向けると、そこに右手をくっつけてきた。また体が包み込まれて密着する。
店長は、俺の気持ちを知っていておもしろがっているに違いない。
「ホラこんなに違ーう」
「て、店長が平均より大きめなだけなんじゃ…」
「食べないんですか。」
後ろからいきなり声が響いて、俺はとたんに固まった。
ヒミズさんの怒った声。
なのに店長は、俺を「持った」ままぐるりと方向転換した。
よろけそうになるのを支えてもらう。
廊下から壁一枚で隔たれた向こう側には、やはり天井の高い、広い空間があった。
手前には、ホテルのロビーみたいにソファと低いテーブルが置かれていて、その奥、段差の向こうに、白いクロスのかけられたテーブルがあり、その上には、吊るされた細長いオレンジ色のランプが規則的に並んでいる。
木製の、細めの椅子が、全部で6脚。3脚ずつ、テーブルの横にきちんと並んで配置されている。
テーブルの上には皿が並べられ、料理がのっているようだ。
…そして、テーブルのすぐ横に、憮然と立つヒミズさん。
「ヒミズも一緒に雨見る?」
店長は全然楽しそうな声を出す。
「食べないんなら下げますよ。」
ヒミズさんは俺を見て完全に不愉快になっているようだ。
「食べるって。な、ハル」
「あわわ」
店長は俺を押しながらテーブルに、ヒミズさんに近寄る。
「私は部屋に戻ってます。」
「え、そうなの? 「ふわあっ!」
突然店長が俺のパジャマに手を入れて胸を触ってきたので、大きな悲鳴をあげてしまった。
店長が何を考えているのかわからない!これ以上ヒミズさんのご機嫌を損ねるべきじゃないのに!
「
ほら!店長がふざけるから、ますますヒミズさんが怒る!
ヒミズさんは「騒音」を嫌うのだ。あわてて店長を振り払った。
店長はけたけた笑いながら俺の背中を押す。
戸惑いながらも店長にテーブルまで誘導され、席についた。
俺の隣に店長が座り、ヒミズさんは俺から一番遠い席について中庭のほうを向いた。
ヒミズさんは白いシャツと黒い革のパンツのうえに、ダークレッドのエプロンをしていて、細い腰が際立っていた。
やっぱりスタイルがいい。つい目がそっちに行きそうになるが、見てるのがバレたら殺されかねない雰囲気だ。
テーブルの上には厚切りのトーストと、サラダと目玉焼きとベーコン、パセリが散った黄色いスープと、白い小さめの器に入ったグラタンみたいなのがある。イチゴはデザートだろう。それから、オレンジジュースと牛乳。
昨日からやたら贅沢をしている気がする。
奥側の席に座ったので、中庭の絶景が見えて、さらに後ろめたい。
「…いただきます。」
店長にならって両手を合わせる。
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