はるかわくんの やみ -4-

 立ちあがり、ミニキッチンに立つ。


 冷蔵庫からパック入りのミルクを出してマグカップにそそぎ、シロップを入れてかき混ぜて、電子レンジに入れる。

 これくらいなら冷水の手を借りなくてもぼくにだって出来るのだ。

 と、思っていたら。


「あっちち!」


 出来上がったホットミルクを取ろうとして思わず顔をしかめて手を振った。

 かなり熱い。温度調整がなってなかった。


 よく見てみると、レンジには「牛乳」と書かれたボタンがある。

 これを押すんだったか。この手の家電品は、さわり慣れないので困る。

 しかも、改めて覗くと、カップからあふれたミルクがレンジの中にまでふきこぼれていた。


「あ~あ。まーた怒られるねコレは。」


 つぶやくと、ベッドのほうからクスッと笑い声がし、「…誰に怒られるんですか?」と春川が言う。


「冷水に。」

 振り返って答えると、春川はすぐ真顔になってまたうつむいた。


 ミルクに張った薄い膜をスプーンですくい取り、また軽く混ぜる。

 まだ熱いので、白くてやたらフカフカした布巾をマグカップに巻きつけて、春川に差し出す。

 しかし春川は、うつむいたまま受け取ろうとしない。


「ハル。」

「…見えないんです。」 ん?

「店長が。」


 春川はゆっくりとこちらを向いたが、その視線は確かにぼくを見てはおらず、すでにぼくを通り抜けてもっと向こうの、部屋の奥の壁のほうを見ているふうだった。


 ミルクをいったんサイドテーブルに置き、ベッドに腰を下ろして春川に向き直る。

 顔を両手で掴んで固定してから、親指で目の下を引っ張った。

 瞳孔を確認しようと思ったのだが、しかしすぐに、驚いた春川が両手をあげて、ぼくの手を振りほどいて頭を引く。

 それはそうか。


「ちょっと、触るよ。」


 言ってから触るべきだったのだ。

 冷水にやたら「がさつだ」と言われてしまうわけだ。

 やけに怯えた春川の顔に笑いたくなるが、もう一度、今度はそっと触れると、春川は大人しくした。


 やわらかくすべすべとした頬を包み込むと、春川の顔が、まっすぐ見開かれた目がぼくの目の前にあることに気付き、…今度は少しの興奮を覚える。さきほどの、怯えた様子の春川もよかったけど。


―― このまま口をつけたら、また驚くかな。


「なんだかやたら眩しくて…」


 春川の声で正気を取り戻す。(こらこら、だめだって。)


 春川は目を開いたままでいるのがつらい様子だった。

 見たところ瞳孔に傷などの異常はない。


「カーテン、閉めてもらえませんか」


 カーテンなんか無いけどね。

 春川から手を離して、サイドテーブルにあるリモコンで天窓のブラインドを下ろすと、部屋はたちまち暗くなる。薄暗い照明をいくつかつけた。また春川を見る。


「だいぶいい?」

「………。……今度は、真っ暗です…。」


 がっ、と、今度はわざと、何も告げず頭をつかんで春川の目をまた開いてみる。


「は、うっ」


(「はう」って言った♪)

…どうしようもないのだ、ぼくは。


 一瞬たじろいだ春川だったが、今度は逃げなかった。

 瞳孔は正常に見えるが、虹彩が麻痺しているかなにかで、光の調整がうまくいっていないのかもしれない。

 昨夜のクスリの副作用だろうか。こんな作用は聞いてないが、おそらく一時的なものだろう。念のため、あとで安堂に相談しよう。


(それにしても、大きな黒目だな。)


 気付くと、緊張しているのか、春川は震えていた。

 親指を離して、頬を両手で覆ったまま、目の前にある春川の顔を見る。…とてもきれいだ。


(いや、だから。) だめだめ。このコは、「冷水の」だって。


「…店長」


 春川が不安げな声をあげる。

 すべすべした頬を軽く数回叩きながら言う。


「大丈夫、あとで医者に見てもらおう。とりあえず、ホットミルクを飲むといいよ。」


 すると春川の顔の緊張は若干和らいだ。なんだか安心したようだ。

(単純なコだな。) 思わずまた笑いそうになる。


 春川の手をとり、ホットミルクを握らせると、春川は不思議そうに布巾を触った。

「ほどかないほうがいいよ。なんだか、温めすぎて熱いから。」 春川はふっと笑った。


「店長は、変なとこが不器用なんですよね…」


…その表情に、少しひるんでしまう。


 春川は、ふとした瞬間妙に艶っぽくなることがある。

 男の子なのに、そういうときはやたらとなまめかしく感じさせる。


 昨日の車のなかでもそう感じることが多々あった。

 もしかして、彼の「闇」となにか関係があるのだろうか。なんだか不思議なコだ。


 春川はマグカップを両手で持ち、確認しながら口元に持って行って、ひとくち口をつけた。


「あつっ」


 あららら。熱いって言ったのに。


 ミルクがこぼれそうなマグカップを春川の手ごと右手で支え、見ると、ミルクの膜が春川のくちびるに張り付いているので、とっさに左手を伸ばして親指でこするようにして取る。

 やわらかなくちびるだ。

 目の見えない春川は、はっとして、マグカップから右手だけ離しぼくの親指を握った。

 確認をするかのように、ぎゅう、と握りなおしてくる。


(赤ん坊か?きみは。)


 締め付けられる親指にまた笑いたくなり、春川を見ると、春川は、なぜかとても鎮痛な面持ちをしていた。


 何か言うのかもしれない。数秒待つ。


 が、特に何も言わないようなので、視線をミルクに移す。


 カップを春川の左手ごと引き寄せて飲んでみると、うわ、すごい甘い。シロップを入れすぎた。

 でももう、そこまで熱くはないように思う。

 春川は猫舌なのか。それとも、視力を失っているせいで、一時的に感覚が過敏になっているのか。


 春川にわかるように、ミルクの表面に息を吹き付けて冷ますふりをし、もう一度、差し出すようにして春川の口にカップを持っていく。

 春川は、ぼくの手が添えられたままのカップから、注意してミルクを飲んだ。もう大丈夫そうだ。


 こぼさないように、カップをそっと傾けながら飲ませていると、春川は本当に小さい子どものようにミルクを吸う。

 その様子がかわいいので、頬がゆるむ。


 ふと、春川ののどの動きが止まった。


 春川にミルクをあげるという「ミッション」を楽しんでいたぼくは、カップを惰性的に傾け続けていたので、春川の口のはしからミルクをこぼしてしまった。(おっと。)


 カップをサイドテーブルに戻し、片手で布巾を持って春川の口もとを拭っていて、…そこでやっと、春川が泣いていることに気付いた。


 なめらかな頬に、透明な雫が転がっていく。



…また、きれいだと思った。



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