がんばれ!はるかわくん! -5-

 今日は海を見に行く予定だ。


 母さんがはりきってお弁当を用意した。

 父さんも、買ったばかりの新車に朝からまたワックスをかけている。


 新車で遠出したいのはわかるけど、僕もそろそろ親とピクニック、なんていう年ではないんだけどな。

 などと思いながら、窓の外にいきなり見えてきた海に、ゲームをしていた手が止まって思わず歓声をあげたりしている。


「ほら来て良かったじゃーん」 母さんの勝ち誇った声。

 母さんと父さんの笑顔がスローモーションで僕に振り向く。


 ちょっと!前見てよ、前!


 なんだか黒いものが前方にあるのだ。

 ゆっくりこちらに近づいてきているのに、二人ともまだ僕を見ていて気づかない。


 父さん、前!


 やがて黒いものが二人をゆっくり飲み込んできた。

 周りが赤黒くなってきて、僕も飲み込まれるんだと思い、ますます怖くなってまた二人を見ると、顔が無い。


 気づけば辺りは赤黒い「闇」。


 一番暗いあたりに大きなひとが立っている。

 そっちから、たくさんの長い腕と手が伸びてきた。

 体中を掴まれる。

 引っ張り込むつもりだ。


 そっちには行きたくない!

 たすけて!

 どこだよ、父さん!


 声をあげたいのに、黒い手が口を押さえてくる。体も動かせない。


 手は口の中にまで入ってきて、別の手が首を絞めてきた。

 苦しい。息が出来ない。

 黒い手が、指が、体中を這いまわる。


 なんで!

 僕がなにをしたっていうんだ! 


 でもいつの間にか僕は、黒い大きな影に必死で謝っている。


―― ごめんなさい!やめてください!もう逃げないから!殺さないでください!


「……っは」



 自分の激しく咳き込む声で目が覚める。


 しばらく咳込んでいたらしく息が出来ない。

 むせこむ体を必死に押さえているうちに、ようやく息が出来るようになった。とたんに今度は吐き気とたたかう。頭も痛い。

…まただ。


 やっと落ち着いてきて、荒く息をしながらせまい空間で寝返りをうつ。


 うす暗いネカフェの天井。

 時計を見ると朝の4時だった。もう眠る気にはなれない。

 ごそごそと起きだして、シャワーを浴びに行く。


 頭を何度も振りながら、さっきの夢を追い払おうとした。

 代わりに店長の笑顔を思い描く。

 屈託がない、俺のなかで今一番大好きな顔を。


 ようやく吐き気と頭痛が治まってきた。

 黒い闇も、シャワーと一緒に流す。


 実は最近、店長が、俺の秘かな精神安定剤になっている。


 売店で激辛のスナック菓子を買って自分の席に戻り、それとコーラで眠けを飛ばしながら、朝までくだらないアニメを見ながら過ごした。


 7時前、ネカフェを出る前にメールチェックをしてみたら、久しぶりに大窪おおくぼからメールが届いている。


―― 「げんき?おれのアパート、やつにみつかったのか?今月末にひきはらうって知りました。そのあとどうするの。またあたらしい部屋、紹介するよ。心配だから連絡くれ。大学がいそがしくてしばらくあえないけど、携帯にメールください。」


 大窪にしては珍しく短いメールだ。きっと大学が楽しくて、俺のこともそんなにかまってはいられないんだろう。


 大窪にはそうとう迷惑をかけてきた。メールを打ち返そうとしたけど、今はまだ寝てるころだ。着信で起こすと悪いから、また今度にしようと思ってやめる。


 大窪は俺の数少ない知り合いのひとりで、一番の親友だ。


 高校からの同級生で、ただひとり、俺の薄汚れた「現実」を知っている。

 家が不動産屋で、今のアパートも前の2軒も大窪に紹介してもらった。

 ネカフェを泊まり歩くようアドバイスしてくれたのも、大窪だ。


 でもいつまでもこんなことはしていられないから、今月末、俺は大窪のアパートを出て、彼の人生から「自然消滅」する予定でいる。

 だから、大窪が楽しそうにしてくれているのは、むしろうれしい。


 ネカフェを出てから、電車に乗る。

 ラッシュぎりぎりの、まだ余裕のある車両に揺られて自分の駅に着く。

 そこから歩いて10分。通勤の人の流れに逆らいながら、途中のコンビニでお茶とおにぎりを買う。


 アパートの手前で一度立ち止まる。自分の部屋は2階の右から2番目。

 昨日干した洗濯物がベランダに揺れている。特に異常は見当たらないので安心する。


 入り口の郵便受けに入ったたくさんのチラシをいくつかめくって、郵便物の無いことを確認してから、階段を静かにあがる。


 2階の通路を一度のぞいて確認するくせがついた。

 2度目に捕まりそうになったとき、俺は愚かにもバッグの中の鍵を探しながら下を向いたまま歩いていて、ぶつかる距離まで近くに行ってからやっとあのひとに気づいた。


 どこをどう走ったか覚えてないけど、捕まらなかったのは奇跡だと思っている。

 今でも、震えそうになるくらいこわい。もうあんな油断はしない。


 部屋に入って昨日干した洗濯物を入れた。今日着てたぶんは、明日でいいや。明日洗おう。

 エアコンをつけて服を着替えて、テレビも無い、テーブルもベッドも無い部屋のフローリングの床に座り込んで、コンビニで買った砂のようなおにぎりを食べながら、床の上のスケッチブックを開く。


 昨日は店長の右腕をデッサンした。今日は、ヒミズさんの横顔を描いてみようかな。


 おにぎりを食べ終わって、スケッチブックを抱え込むようにして鉛筆を動かす。

 ネカフェは狭くて集中できない。

 店は11時までに行けばいいから、9時半ごろ出れば充分間に合う。


 今から9時まで、静かな部屋で無心になって好きな絵を描く。


 俺の一番好きな時間だ。



(春川 DATE 2月11日 午後2時42分 へつづく)



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