II. Menuet de la Triade d’Hécate ――『三面のヘカテー』のメヌエット(メヌエット・ド・ラ・トリアード・デカット)(6)




「ええと――『ヘカテー』?」



その単語でスイッチが入り、眼を輝かせたのは十和子だった。


「ほほう? やはりそれでしたか――けれど、あれはオススメしませんわ。まだ、市場価格も定まっていない、本当に未開発の品で――莫大の利益を齎すか、それともただの骨折り損の草臥れ儲けになるか、わたくしですら定かではないのですよ。結構嵩張って重いですし――もう少し、安定性のあって持ち運びし易いなにかにされてはいかが?」


バロウは何か異論を挟みたげな様子だったが、パーカーの方は食いついてきた。


「例えば?」


十和子は挑発的な笑みに口の端を歪めて、


「そうですね、例えばそこのオーク製のチェスト――いや、そっちじゃなくって、マーティン・マイヤー社の方の――」


「そっちじゃないわよ。それはどっからどう見てもルイ・ヴィトンじゃない。それにオーク製って云ったでしょ、木よ。皮じゃない」


戸惑いながらもパーカーはクネクネとスーツケースの山を物色して、


「これかしら?」


「それはオーク製かしら?」


と、ハヅキ。


「そう見えるけれど」


「だったらそれに決まっているじゃない。ただ、全部開けると上蓋の部分にまでみっしり詰まってるのが雪崩落ちて来るから、手だけを突っ込んで、器用に右端の物だけを取り出しなさい――違う! 右端よ――右! 左じゃない」


まるで口煩い女房のようにあれこれ指図するハヅキに、云われるが儘のパーカー。


未だ嘗てこんなに緊迫感の無い強盗事件があっただろうか。恐るべき、ベイベルの女丈夫たち。


「ひっ! なによこれ!」


気持ちの悪い悲鳴を上げながら、蒼褪めたパーカーが取り上げたのは、何やら茶色のぐにゅぐにゅとした水風船のようなもの――けれど、中で緩やかに揺れるそれは、明らかに水ではなく――


「御存じない? スコットランドが名産、ハギス」


「ひゃっ――ハギ……ス」


解説しよう(パート2)。


ハギスとは、茹でた羊の内臓のミンチ、微塵切りのオートミール、タマネギ、ハーブ等を、牛脂と共に羊の胃袋に詰めて蒸した、詰め物料理の一種である。スコットランドでは、スコッチ・ウィスキーと共に広く一般的に食され、独特の臭気を放つマニアックな食材として世界的に有名である。


以下、ハギスに関しての著名人の意見。


「酷い料理を食べる連中は信用がならん」――ロシアの政治家。


「ハギスに関してなら、イギリス料理の酷さは御尤も」――イギリスの外務大臣。


「会合にハギス料理が出される事を懸念している」――アメリカの某大統領。


ちなみに、モツ煮込み等臓物料理には概ね理解のある私は、結構好きだよ、ハギス。


ああ、でも、少なくともこの列車内の女性陣よりは圧倒的に女々しそうなパーカーは苦手そうだ。ナメクジとか見たら半狂乱でソルトシェーカーぶん回しそう。


「ひっ……ひえーっ!」


女と云うよりも、爪を使って戦いそうなパーカーは、ハギスのパックを思い切りどこかへ放り投げようと、慌てふためく。


あ、そんなに乱暴に扱ったら――


その瞬間、べしゃんと嫌な破裂音を立てて真空パックの膜は破れ、中の物体がパーカーの入念な手入れを施したカイゼル髭や、髭の剃り残し一つないつやつやとした顔面や、クリーニング屋から引き取ったばかりのようなスーツに降り注ぎ、野性味溢れる臭気を発散させ始める。


顔面蒼白を通り越してグロテスクな紫色に変わったパーカーは、まるで豚の断末魔のような奇声を上げて、白目を剥きながらどさっと後ろ向きに倒れてしまった。


相棒の無様な姿を目の当たりにしたバロウは、血相を変えて怒鳴った。


「貴様ら、よくもハメやがったな!」


「ハメてませんよ。実際、その奥に大粒のエメラルドの指輪が入っていたのだから――まさか、ハギスで失神する間抜けな強盗さんがこの世に居ようとは、夢にも思いませんでしたよ」


と、ほくそ笑む十和子。


まあ真相はどうであれ、パーカーが末代まで語り継がれそうな物笑いの種を提供したのは事実で、流石のバロウも何も云い返せず、ギシギシと歯軋りをするばかりだった。


「もうお前らの口車には乗らない。実際の価値がどうであれ、俺達が依頼されたのは、『ヘカテー』なる美術品だ。それ以外に興味はない」


「それだったら、その手前にある大きな包みですよ。そう、その一番目立つやつ」


バロウは、銃口を私たちの方に向けたまま後ずさると、ポケットナイフを使って片手で包みを裂き始めた。そこはプロ、ちゃんと中身を傷つけないように細心の注意を以って、且つ手際良くやっている。


そうして姿を現したのは、高さ七十センチ程の中型の石像で、恐らく大理石製のものだ。相当な年代物らしく、あちこち欠けたり綻んだりしているものの、女性を象ったものである。しかし、その姿は明らかに人間の女性のものではなく、頭部には頭が一つではなしに三つが、まるで三面鏡のように並んで付いていた。それぞれの鼻先が正三角形を描くように別々の方向を向き、その六つの石造りの瞳のそれぞれが別々の景色を眺めている。その頭部の異様さと吊り合いを取るが如く、腕から先は予め掘られておらず、裾の長いドレスは足許を隠している。


私も、今まで色々な神々の像を見てきたが、ここまで人の形を保っておきながら、明白に人間離れした彫像には、ついぞお目に掛かったことがなかった。そして、それはどこか超自然的で、人工的な十和子の様式美の行き届きすぎた美貌に相通じるものがあった。


惜しむらくは、スカートの裾の部分がごっそり欠けていて、急場凌ぎにしては手の込みすぎた、明らかに似つかわしくない真新しい台座が取り付けられていることだった。




「紹介しましょう」


十和子が畏まって云った。


「ギリシャ神話はペルセウスとアステリアの娘、ティターン神族の血族にして、狩りと月の女神アルテミスの従姉妹。冥府神の一柱で、ハデス、ペルセポネに次ぐ地位を持ち――月と魔術、幽霊、豊穣、浄めと贖罪、出産と云った多岐に渡る事象を司る女神――その名は、ヘカテー」



再び意気揚々と話し始める美術商を余所に、地べたに腰を下ろしたままのハヅキが、膝で軽く私を蹴って囁いた。


「誰かお願い。止めて」


「無理ですよ。僕は今日会ったばかりで、彼女がとんでもなく博識でお喋りだってこを身を以って痛感するだけで精一杯の人間ですよ。付き合いの長いあなたが何とかしたらどうです」


「それが出来るんだったら、当の昔にそれを実行しているわよ。わたしは今まで、あの人を黙らせられるのは、銃口を突き付けた時だけだと思っていたのだけれど、それすらも幻想に過ぎなかったと、今日思い知ったわ」


スイッチが入ってしまった美術商は、そんな陰口などまるで耳に入る様子もなく、バロウも唖然と間抜け面を晒す中、語り続けた。


「ヘシオドスの『神統記』では、ヘカテーは主神ゼウスに依って、海洋・地上・天界の三界で自由に活動できる権能を与えられており、人間にあらゆる分野での成功を齎す万能の女神として記されています。これは、ヘシオドスの故郷であるボイオーティアにおいて、ヘカテーの信仰が盛んだったことに由来するんですね。ハデスの依る王妃ペルセポネ誘拐の折には、太陽神アポロンの対として、ペルセポネの母親であるデメテールにその旨を伝えています。これに依り、ヘカテーは月の女神としての性格が強調されました。後代には、三つの体を持ち、松明を持って地獄の猛犬を連れ、夜の十字路や三叉路に現れ、また古代人は交差点を神々や精霊が行き来する特別な場所と考えたことから、ヘカテーは三相の具象化として明確な役割を与えられるようになったと云えます。三相とはつまり、『神統記』で語られた天上・地上・地下に及ぶ力、上弦・満月・下弦と云う月のフェーズ、処女・婦人・老婆と云う女性の移り変わり、過去・現在・未来の時の流れ等、全部を引っ包めての総称ですね。つまり、古来よりヘカテーは、連続してありながら、けれど個々は決して交わる事の無い数々の現象の顕現として、西洋人の傍らに有り続けたのです」


ふとバロウの方を見ると、何やら口をパクつかせて、


「もう終わる?」


と、訊いている。


それを見たハヅキは、ただただ肩を竦めるばかりだった。


「アッティカでは三つ辻に、道の三方向を向いた三面三体の像が立てられ、毎月末に供物が捧げられたとされます。また、道祖神としての役割もあった事から、彼女は旅人達の安全祈願の対象でもありました。中世以降もヘカテーは、黒魔術の本尊とされ、魔女や魔術師たちに崇拝され続け、例えばシェイクスピアの『マクベス』に登場する三妖婦の親玉こそがヘカテーなのですね。今も、二十世紀初頭に始まった新異教主義のペイガニズム復興運動の一環で、一定数のヘカテーの信者がいます。古代ギリシャの神々の中でも、ここまで姿形を変えつつも生き残った例は、彼女を差し置いては類を見ず、その実用的価値は未知数と云うに相応しいんです。これは、ヴァチカンのキアラモンティ美術館に現存するヘカテー像とそっくりなもので――ただずっと小さいんですね。古代ローマ期の作品かもしれませんが、申し上げた通り、ヘカテー像には常に一定量の需要がありましたからね、もっと後世のレプリカかもしれないんですよ――お判り?」


突然掛けられた言葉に、私たちは全員、まるで授業中居眠りを見つかった小学生のように飛び上がった。バロウも含めて。


「だから、これには全く相場らしい相場ってものがないから、高値かどうかも一番謎なんですよ。脚が欠けてしまって、それを立ち易くするために要らん台座を付けてしまっているから、価値は結構落ちてしまうでしょうけれどね。何やら例の復興運動的な新興宗教の幹部だったという人間から譲り受けたんですけれど、本当まるでさっさと持って行ってくれと云わんばかりの勢いで押し付けられましたっけ。結構像自体のデザインは気に入ってるから、自分用に買っただけなんですよ」


この段になって、ようやくバロウは自分の本分を思い出したのか、癇癪玉を破裂させた。




「もういい! 御託はうんざりだ! それをさっさと寄越せ、で、俺達はそれでおさらばする――」


「どうやって?」


ハヅキが口を挟む。


「いや、逃げるのはいいんだけれど。この高速で走る列車からどうやって逃げ出すって云うのよ。この石像、結構重いわよ? それに、ここでハギス塗れになって引っ繰り返ってるお仲間も抱えて逃げるとなると、大仕事よ?」


「……」


無言で押し黙るバロウ。




忘れてたんかい。



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