II. Menuet de la Triade d’Hécate ――『三面のヘカテー』のメヌエット(メヌエット・ド・ラ・トリアード・デカット)(5)
さて、そろそろ本格的にお別れを告げるべきかな、と席を立ったその瞬間。
再度、背後の扉が開き、列車の走行音が雪崩れ込んでくると共に、一人の男が足早にこちらへ近づいてきた。
尤も、帽子を目深に被っていたうえに、トレンチコートの襟を立てていたから、顔は判別できなかったが、その背格好から見るに長身の男であろう。
男は、右手をコートの内側に隠し、そのままの姿勢でつかつかと私たちの方へと歩み寄り、いきなり立ち止まってこちらの方を見降ろすと、くぐもった声でけれどはっきりとこう云った。
「騒ぐな。手を上げろ」
打ち合わせの関係で、私の方からはしっかり、そのコートに隠された右手に握られた、およそこの状況――平穏な日常生活には不釣り合いな物騒な物――拳銃がチラつく様が見えた。
驚きの余り声も上げられない私だったが、女たちはちらりと乱入者の方を見やると、
「あん? 普通に常識の範疇の声量で喋っているわよ――で、叔父様ったらね――」
「手? ああ、はいはい、こうですね」
と、一人は無頓着にも四方山話を続け、もう一人は字面通りに軽く万歳をして、私を更に唖然とさせた。
違う違う!
このレディーたち、何も気づいていないというか、とんでもない挑発的な応酬を無意識の内にしている!
案の定、男は苛立った様子で、先程より更に拳銃を前に突き出しながら繰り返した。
「手を上げろ、と云ったのが聴こえなかったのか? 命が惜しければ、云われた通りにしろ」
キョトンとした様子の二人。
特にハヅキさん、そんな可愛らしい顔するのは、時と場合をよく考えて――と思っていたら。
ハヅキはいきなり立ち上がり、あろうことか、右手で拳固を作り、軽いながらも勢いのあるアッパーを強盗の顎にお見舞いした!
「なななななにやってるんですか! 殺す気ですか!」
「失礼ね、そこまで馬鹿力じゃないわよ。手を上げろって云われたから、命が惜しいから云われた通りにしただけで」
「馬鹿でしょ。アンタ、馬鹿でしょ!」
ああ、この期に及んで、こんな間抜けな漫才を繰り広げてしまった――
十和子の方はと云うと、ようやく合点が行った様子で手を叩き、
「ああ、そう云う事でしたか」
「何が」
「長くなるけれど、宜しい? 二十分程」
いや、流石に私たちの命の為にも、ついでにいきなり華奢な女子にアッパーカット食らわせられて、鳩が豆鉄砲食らったような顔をしている面目丸潰れな強盗さんの為にも、もう少し手短にお願いします。二秒ぐらいで。
「ええ、ですから、つまりね――私ら、善良な一般市民。そちら、拳銃。故に、こちら、強盗さん。手を上げろ、これ俗に云うホールドアップ。大人しくなさい、云う事を聞け、抵抗するな、と云う意思表示よ」
そうそう、その通り。って云うか、ハヅキは兎も角、あなたは気付いてたでしょ。
「だったら最初からそう云いなさいよ、ドン臭いわね」
おい。
私は冷や汗流しながら、両手を限界までピンと高く上げて懇願した。
「どうも、この大馬鹿が馬鹿な馬鹿騒ぎを演じて、大変に馬鹿馬鹿しいご無礼を働いてしまい、申し訳ありません! わたしはこの馬鹿とは無関係です! どうか私めの命だけはお助けを!」
「馬鹿馬鹿うるさいわね。と云うか、レディーを盾にして自分だけ助かろうだなんて、とんでもないチキンね、あなたも。恥ずかしくない?」
「レディーファーストだからこそ、先に凶弾に倒れるお役目をお譲りしてるんですよ! 頼むからちょっと黙っててくださいよ、この馬鹿」
再びハヅキが舌禍を振り撒こうとしたその刹那、ようやく強盗としての尊厳を取り戻した男が、諦めにも似たなにかを込めた口調で云った。
「いや、もういい。出来れば俺も無用な血は流させたくはない。判ったなら大人しく命令に従え。この列車は我々が占拠した――」
ようやく少しはTPOを弁える事を覚えたのか、ハヅキが片方の手をより高く上げる事に依って、質問の意を伝えた。
「ドンカスター駅に間もなく到着する予定なのだけれど――ドンカスターには憲兵団が駐在していて、この列車に乗ってくる筈よ。いいの? 列車には車掌と運転手がいるのよ?」
「我々とて馬鹿ではない。もう一人の男が、機関室及び前方車両の制圧を行っている――噂をすれば、ほら」
そう云って、拳銃で軽く前方のドアを指し、私たちは一同そちらのほうへ振り向くと、縄で縛られた件のリッチ車掌が(なぜか亀甲縛り)、カイゼル髭の長身痩躯の男に押されるような形で、車両内に転がり込んできた。
「随分早かったな、パーカー」
パーカーと呼ばれた男は、甲高い女のような声で、女のような喋り方で返した。
「はいはい、ただいまバロウ。前の方にお客はいなかったし、オジサン二人が運転室でくっちゃべってただけだったから、すンごくスムーズに行ったわよ。ピース・オブ・ケイク、イーズィー・ピーズィー・レモンスクイーズィー、みたいな?」
解説しよう。
ピース・オブ・ケイクとは英語圏でよく使われるイディオムで、ケーキ一切れを食べるくらい容易い事、つまり朝飯前を意味する。
もう一つも、レモンを搾るくらい簡単と云う事で、簡単簡単ちょちょいのちょいという意味だ。
「おまえ、肉弾戦は苦手だろう? よくこんな逞しそうな爺さん、一人で捕らえられたな」
「そう?」
パーカーはくるりと巻いた髭の先を、こねくり回しながら云った。
「ホントになんでもなかったわよ。ピストルをチラつかせた瞬間に、もうその場でジャンピング土下座して、命乞いしてきたんだから。運転手縛り上げるときも、紐押さえててくれたし」
うわあ――情けねえ。
さっきまで、ハヅキを売り飛ばして自分だけ助かる気まんまんだった自分が云うのも難だが、男として産まれた以上、もう少し、これよりはカッコいい生き様を貫こうと思いました。まる。
現に、列車は速度を落とす気配もなく、窓の外をふと見ると、どうやらドンカスターらしい駅舎を猛スピードで通り過ぎるところだった。
私たちは四人、通路の両側を、拳銃を持った男達に塞がれる形で固まった。
最初に口火を切ったのはハヅキだった。
「で、命が目的じゃないとしたら何が目的? お金? 生憎、どこをどう逆さに振ったって、ここの連中からそんな大金は出ないわよ」
バロウは、不敵に笑った。
「旅行者の小銭など最初から当てにはしていないさ。ただ、今はそうでなくても、大金の種は持っているのだろう?」
ははあ。読めてきたぞ?
要は、この二人は、どこからか美術品買い付けの話を仕入れてきた、美術品専門の窃盗団なのだろう。盗品の横流しには、相応の販売ルートがいる。どこかの不道徳な大金持ちが、暴漢に金を握らせるパターンもあるし、美術館を騙して盗品を買い取らせるケースもある。また、物品の輸送、保存にも最低限の知識はいることから、彼らは強盗界のホワイトカラー、知的労働者と云うべき人種なのかもしれない。
ここには、美術品を携えた人間が最低でも二人はいる。
しかし、私はごくプライベートな取引でやってきただけだし、大して値打ち物とも思えない品物を引き取りにきただけだから、仮に予め情報が流出していたとしても、私一人を狙ってこんな大それたことをするとは思えない。置き引きや引っ手繰りに見せかけたほうが余程低リスクで、手っ取り早い。
となると、異常な大荷物の十和子の方だが――
「どれ?」
「あ?」
「いえね、結構な量を買い付けてしまったものだから、単に金目の物と云われましても、どれだかはっきりと判らないのですよ。ぱっと思いつく限りでも、ブラックウッド社のジョージ・エリオット『牧師館物語』『フロス湖畔の水車小屋』の初版本、スコットの『ラマームーアの花嫁』、黄金と象牙の管を持つグレート・ハイランド・バグパイプ、スコッチでも最高級と呼ばれる『グレンフィデック一九五五』。色々ありすぎるのだけれど、どれのことかしら」
何この人、歩く宝物庫かなにかなの?
あの包み一つに気を取られていたが、背後の山積みになったスーツケースやらトランクやら、その総てに各ジャンルを代表するスコットランド名産品が詰まっているとしたら、強盗も已む無しである。
ところが、当の強盗二人は、紙切れを懐から取り出してあたふたと睨めっこして、
「ええと、リストにはなんてあるかしら」
「ラマもフロスもスコッチもねえじゃねえか――」
と、どうやらパシリらしい発言をしていた。
お遣い、御苦労様です。
「ええと――『ヘカテー』?」
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