第二章 透明のなみだにおぼれる

 クラスメイトの失踪が、きっかけだった。ひとつ思い出せない言葉があると、ふと思った。それはとても大切なはずなのに、それでも思い出せないのだ。



 部屋につながる廊下からリビングに顔を出しながら、母の後ろ姿を見つける。何だか聞いたことあるようで知らないような曲を軽やかに口ずさみ、ソファでテレビを見ながら洗濯物をたたんでいた。音楽に合わせ、少しだけ揺れている体を見ると、自分が音楽を好きなのも遺伝みたいなものに思えてくる。

「母さん、ギター使うけど、いい?」

「わざわざ確認しなくても平気っていつも言ってるじゃない」

 母親は洗濯物をたたむ手を止め、恭平を見て微笑む。ゆらゆらと体が揺れているのはそのままだ。頭の中では、まだ音楽が流れているのだろうか。

「……うん、そうだね」

 それでも声をかけてしまう。恭平の癖だった。母子家庭で育った恭平は、他人と話すことは苦手なくせに、母親にだけはやたら声をかけるように育ってきた。そうでないと、その細い後ろ姿がどうしても寂しく見えて仕方がなかったのだ。自分に父親がいない理由は知らないし、この先も聞きたいとは思わない。だけど、母が孤独なことだけはどうしても嫌だったのだ。母親は、どうしたって母親なのだ。それだけは、変えられない事実なのだ。

 フローリングの床が軋む自分の足音は、狭い廊下によく響き、やけに耳に残るようだった。少し廊下を振り返ると、リビングからは光が漏れていて、それが少し温かく思えた。小さな鼻歌は、優しく空気を揺らして、こんな遠くの恭平にすら届く。

「これが、君の言う、愛おしさなのかな……」

 こぼした言葉は、つい昨日まで作っていた音楽の一節だった。

 部屋に戻り、鍵をかける。いつも学校でしているマスクを外しごみ箱に投げ入れて、伊達眼鏡をかける。顔を隠すために伸ばしている前髪を耳にかけ、少しワックスで整える。癖をつければ、それだけでほとんど別人だった。ギターを横目にパソコンを操作する。苦手な笑顔も、喋りも、このカメラの前では自由だった。今朝自分がSNSで呟いてあることを確認してから、マウスを動かし、放送開始のボタンをクリックした。

「始まったかな? 映ってるー?」

 パソコンに向かって呼びかければ、コメント欄に文字が流れてくる。

 ――ちゃんと見えてるよー、スバルくんの生放送待ってました! 久々の生放送嬉しい!

 そんなコメントに少しだけ口元を綻ばせ、また口を開く。

「生放送は久々だよね、今日はリクエストに応えて歌ったり質問に答えたりするよ。あと明日またオリジナル上げる予定! ということで、スバルです! よろしくねー」

 恭平はいわゆる「歌い手」と呼ばれ、「歌ってみた」動画を上げている。昔から友達がいない恭平にとって、それは最大の居場所とも呼べた。最初は歌ってみた動画を上げているだけだったのだが、最近はオリジナル曲の製作にも手を伸ばしている。とはいえ、高校生の限界はせいぜい小さなライブハウスで、本当は歌い手仲間から同人CDの販売に誘われたりもしたのだが、それは楽曲提供にとどめてしまった。スバルという華やかな名前は普段の自分とは似ても似つかないが、幼馴染みから勝手に借りてしまった。

 しばらくはラジオみたいに目に留まったコメントを見ながら近況報告をしつつ、曲の話をする。いつもと同じ始まり方だ。こんななんでもない、本当はつまらないであろう話でも、三千人もの人が聞きに来てくれる。

「あっ、言い忘れてたけど、最後にお知らせあるよ! それじゃ、リクエスト行こ!」

 コメントは待ち構えていたみたいにどっと流れてくる。ギターを手に取り、中から適当に曲を選び、弦を弾く。

 上手く話すことができない恭平の、精一杯の感情表現。それは名前を偽ってしか人には届けられないけれど、恭平はその時間が好きだった。

「リクエストありがとね、どんどん歌ってくよ!」

 伊達眼鏡も、この髪型も、笑い方も、今はまだ嘘かもしれないけれど、そのうちこれが本物になればいいと思った。

「そういえば、この間ちょっと旅したんだよね、そのときの話しようと思ってたの忘れてた」

 そのとき、恭平は旅を思い出して、そして少しだけ楽しげに口元を緩ませた。



 旅のきっかけになったのは、クラスメイトの豊永が行方不明になったという噂だった。ある日の朝、豊永の友人がわざわざクラスまで豊永を探しに来た。まだ学校に来ている人は少なかったけど、その中で彼はバレー部の人を捕まえて豊永のことを尋ねた。

「流、家にもいないんだ。急にギターを俺んちに置いてって、それきり連絡もない」

 どうやら豊永は自分からどこかへ消えたらしいということは、その言葉ですぐに分かった。

 豊永に対して、少なからず憧れの念は抱いていた。同じ音楽を作る人として、尊敬していた。恭平は独り善がりのように動画サイトに投稿するだけだが、豊永はバンド仲間と共に音楽を作っている。そんな正反対な活動をする豊永は、尊敬の対象であった。

「バレー部を辞めた先輩が、行方不明になったんだって」

 次の日の昼休み、一つ年下の幼馴染みである早瀬昂が、ぼそりと呟いた。主将からわざわざ連絡が回ってきたらしい。彼はやたら主将と仲がいい。一年生ということは、豊永とは面識などないはずなのだが、それでも主将が話すのだから、よっぽど信頼されているのだと思った。昴は恭平よりも年下なのに、本当にしっかりしている。

「……豊永くん?」

「知り合い?」

「ただの、クラスメイトだよ」

 昴は、昔からやたらと恭平を気にかけていた。一人で弁当を食べていることを知った上で、週に一度は屋上に恭平を誘い出す。同じ高校に通っているのも、もしかしたら彼が自分に気を遣ったのかもと考えて、いやまさかと心の中で笑う。恭平は二駅で通える公立高校を選んだだけだし、昴はバレーの推薦入試で入学してきた。

 やたら曇っている空に、昴は少しだけ身を乗り出していた。少しだけ癖のある真っ黒な髪が、風に揺れていた。

「どうして、いなくなったの」

 恐る恐る問うと、昴は小さく首を横に振った。

「さあ。家出なんじゃないの、俺はあの人のことよく知らないし。でもキャプテンは怒ってる」

 ときどき話題に上がる主将も恭平と同じ進学クラスなので、なんとなく彼の困ったような顔は浮かぶ。今朝も机に肘をついて大きなため息をついていたはずだ。きっと豊永のことで何かを考えていたのだろう。

「みんな、何も知らないの?」

「みんな何も分かってないよ。大体、あの人はもうバレー部員でもないし。俺はバレー部員だった頃のあの人も知らないし」

 やたら棘のある話し方をする昴は、珍しく機嫌が悪いようだ。無表情な昴が、誰かに対し嫌悪感を分かりやすく露呈することなど、まずない。それでも、豊永に対してはやたら刺々しい。

 クールな表情とは似つかないミルクティーをすすりながら、昴は遠くを見つめていた。

「恭平」

 そしてどこかを見つめたまま、ぽつりと空気を揺らす。その声がいつもより大きい気がしたのは、冬の澄んだ空気のせいだろうか。

「雨降りそうだから戻ろう」

 昴は、豊永が嫌いなのだろうと、恭平はほとんど確信していた。確かに何を考えているのか分からないようではあるけれど、豊永はそれでも真面目で、芯の強い人なのだろうと思う。だから、昴が豊永を嫌う理由など恭平には分からないし、もしかしたら嫌いなんて簡単な言葉で表せる感情ではないのかもしれない。昴の後ろ姿を追いかけながら、屋上を振り返る。ぱたぱたと、コンクリートの床を色濃く染めていく雨は、幼馴染みの足を早めるように少しずつ雫を大きくしていった。

 その日の放課後、家に帰ると、相も変わらず母親は何かを口ずさみながら台所に立っていた。今ではそれが普通だが、昼も家にいる母に違和感を覚えたこともある。それは隠された父親の存在が理由なのだと、恭平は勝手に納得していた。

「ただいま」

「あら、おかえりなさい」

 台所から出てきた母は、見たことのない花瓶を手に持っていた。オレンジや淡い青の花が挿してある。またいつものだ。恭平はそれに気がつきながら、できるだけ見ないふりをした。

 母は昔から騙されやすい。さすがにオレオレ詐欺なんかには引っかからないが、押し売りされるといつもそれを購入してしまう。幸せを運ぶ水晶とか、魔よけのお札とか、そんな胡散臭いものでも買ってしまう。

「……母さん」

「うん?」

 それ、騙されてるんだよ。

 何度言おうとして止めてしまったことか。知らない方が幸せなことだってあるのだ。

「あ……いや、ギター使うね」

 静かな家は、なぜかいつもよそよそしくて、遠慮している。異常ではないが、確かに少し歪ではあったのだろう。父親を知らないまま育って、母親はその分愛情を注いでくれたけれど、互いに遠慮したまま十七年が経った。

 軋むフローリングの音が、嫌に耳に残る。雨音はうるさく窓を叩いている。どうにかその音を消してしまいたくて、ギターを適当に鳴らすが、それは決して音楽とは呼べない。ときどき、こんなときがあるのだ。無性に何かで耳を塞いでしまいたくて、溢れる音を全て止めたくて、それで意味もなくギターをかき鳴らすのだ。それによって生み出される音は、間違いなく雑音だというのに。どれくらいの時間そうしていたのかは分からない。キュイン、と弦をこする音とほぼ同時にピックを机に放り投げる。いつの間にか雨も止んだらしかった。疲れていた。音楽でない音を生み出すのは、思考を手放しているくせにやけに疲れる。

 そのとき、向かいの窓から手を振る昴が視界に入ってきた。窓を開けてやると、昴も同じように窓を開ける。冷たい空気が流れ込んできたことに顔をしかめながらも、互いに窓を閉めようとはしなかった。

「何か企んでる?」

 幼馴染みはやたら勘が良い。クラスメイトの失踪は、恭平には何の関係もない。だけど、それがやたら気になった。だから、そんな突拍子もないことを浮かべてしまったのだ。

「少しだけ」

 恭平は小さく呟いた。昴は聞き取れなかったらしく、眉をひそめているが、恭平の表情で何かを察したらしい。

「昴くんは、さ、消えてしまいたい、とか、思ったこと、ある?」

「ないよ」

 はっきりとした声だった。昴らしい、と思った。

「俺はバレーをまだしてたいし、そこそこ友達もいて、そこそこ楽しく過ごせてるから、少なくとも今は、それができなくなるのは嫌かな」

 昴は少し考えるような表情をして、それからそう付け加えた。昔から正反対な幼馴染みは、いつだってはっきりしていた。決して明るい性格ではないし、表情も豊かな方ではないが、男子高校生特有の悪ノリとか、そういうものも好きだった。加えてスポーツ少年で、チームの人がいつも周りにいた。反対に恭平は、自分の意見を伝えるのが苦手だった。よく笑う子供だったらしいが、いかんせん話すのが苦手で、気がついたら一人で殻に閉じこもっていた。だからこそ音楽に手を伸ばした。

「そっか、そうだよね」

 そんな二人の意見が合うことは、思い返せば少なかったかもしれない。

「僕は、あるよ。だから、少し手伝ってほしいんだ」

 意味が分からないという表情だった。

 消えてしまいたい、なんて、そんな大げさな気持ちではないかもしれない。だけど、どこか遠いところへ、知らない人しかいないところへ、行ってみたいのだ。

 昴は乏しい表情をめいいっぱい不機嫌そうにした。それは豊永の話をするときとよく似ていた。



 肩に抱えたギターが、いつもより重く感じた。歩き慣れない道だからだろうか、やけに疲れる。マスクを顎にずらし、大きく息を吐き出す。大分都会に近づいてきた。これまでの楽曲提供や小さなライブのおかげでそこそこあった貯金をいくらか引き出し、電車に長時間揺られた。電車の中で何度も開いては閉じた自分の公式SNSを再度開く。最後の更新は昨晩、昴と話した後のものだ。

「明日から旅しようと思ってるよ〜! 気まぐれに色んなところで路上ライブテロしますので見かけたら足を止めてくれると嬉しいなあ。僕を知らないまちに出会えたらと思います」

 楽曲提供する関係でレコード会社を交えて話がある、だなんて、母を騙す形で、家を出てきてしまった。

 最初に立ち寄った寂れたショッピングモールでは、あっさりライブの了承をしてくれた。そしてこの駅は、旅とは関係なく元々予定にあったものだった。人気なんて大したものでもないはずなのにポスターまで用意してくれたその駅は、人で溢れていた。小さな特設ステージは病院が目の前にあった。少しバスに乗れば海もあるのだという。これが終われば、今晩には都内へ向かい、歌い手仲間の家に泊まるという予定だ。

「今日はたくさんの人に集まってもらえて嬉しいです。駅の方にも宣伝していただけて、僕は恵まれてるなあなんて思いながらここまで来ました。ということで、一曲目!」

 普段作っている曲の、ギターのみのアレンジ。SNSの宣伝効果もあって、盛り上がりはかなり良かった。そのときふと、ギターを弾く手を止めてしまった。知ってる顔が、向かいの病院の前でこちらを見ていたのだ。

 気のせい、だろうか。

 目をつぶり、スタンドマイクに手を伸ばす。大きく息を吸い、先ほどの続きであるサビを歌う。アカペラ演出にアレンジしてその場を乗り切ると、観客は拍手を送ってくれる。そんな予定は毛頭なかったが、最後の一曲をそのようなアレンジに変えるのはごく自然なことだろう。もう一度病院の方へ視線を向けるが、その人はそこからいなくなっていた。

「今日はありがとうございました! わざわざ僕に会いに来てくれた人も、足を止めて聞いてくれた人も、一緒に盛り上がれて良かったです。スバルでした!」

 恭平は大きく頭を下げ、そしてスタッフに案内されるままにその場をあとにした。

 人も疎らになってきた頃、もう一度恭平はステージに足を向けた。

「もしかして、奥原?」

 声を掛けてきたのは、見間違いではなく、先ほど病院の前にいた、ここにいるはずではない男だった。

「歌とかやってたんだね、知らなかった」

 不思議そうな声で言った彼の表情はちっとも不思議そうではない。なんてことないような表情で、平然と話している。昴が彼を苦手な理由が、少しだけわかったような気がした。聞きたいことがあるのはこっちだ。

「……誰にも、言ってなかった、から」

 俯いたまま小さく呟くと、彼は小さく、へえ、なんて無関心に応えた。恭平はますます俯いた。どんな風に話すのが正解なのかが分からない。まず、どこまで踏み込んでいいかも分からない。それでも、恐る恐る口を開く。

「……豊永くんは、なんで、ここに?」

 思っていたよりも声が震えた。まるで、得体の知れない何かを前にしたような気分だった。豊永が笑うみたいに息を吐き出した。視界が白く霞む。どうして豊永が笑っているのか、まったく分からなかった。何でもないと言うみたいだった。なんでもないのなら、今ここにいるはずがないのに。

 二日前の木曜日に、どこかへ勝手にいなくなって、行方知らずになっていたはずだった。それなのに、目の前にいるのは紛れもなくその豊永流だった。

「別に理由なんてないよ」

「みんな、困ってる、」

 そう言いかけて、自分はそういえば豊永をよく知らないと思った。少なくとも豊永のバンドメンバーは困っているようだし、バレー部の主将も参ってしまっていると昴から聞いていた。だけど、みんなって、誰だ?

「奥原は? これから帰るの?」

「いや……東京に、行く、けど」

「そっか、おまえも家出?」

 それはつまり、豊永が家出をしているということを示していた。恭平は何と答えるべきか迷った挙句、何も言わなかった。家出と言ってしまえばそうなのかもしれないが、恭平は自分では旅と呼んでいた。恭平が答えないのを見て、豊永は小さく、まあいいやと言葉を落とした。

「奥原はさ、有名人ならもっと胸張ればいいのに」

「別に、有名、なんかじゃない、ただの、趣味みたいなもの、だから」

 上手く話せない。伊達眼鏡をとって、マスクをして、前髪のワックスをとってしまえば、それはもうスバルではなくて奥原恭平なのだ。話すことが苦手な、ただの男子高校生なのだ。どうにか息を吐き出すが、豊永の表情は変わらない。

「どうかな。さっきSNS覗いたけどすごいね」

 ああ、なんだ、もうとっくに、きっと目が合ったときには、もう気づかれていたんだ。恭平は失望したような気分だった。この人はもっと、自分に無関心だと思っていた。

 何でも見据えたような表情をして、もっと他人と距離を置く人だと思った。

「この、僕を知らないまちに出会えたらって文章は、誤字?」

 恭平は首を横に振った。「僕が知らないまち」ではないのだ、「僕を知らないまち」なのだ。自分が行ったことのないまちだらけなのは、当然のことであって、何も不思議ではない。だけど、「僕を知らないまち」というのはつまり、自分を知る人がいないまちということだ。

「おまえは、自分を知らないまちで何がしたい」

 静かな、諭すような声だった。冷たい風が吹いてきて、ワックスのとれた髪が揺れる。視界にはっきりと豊永が映り込み、恭平は目を伏せた。目を合わせてしまえば、考えてることを全部見透かされるような気がした。

「……消えちゃいたい、って、思ったこと、ある?」

 静かな時間だった。電車の走る音も、人々が行き交う足音も、そんな騒音全てが、遠くに聞こえる。ちらりと顔色を窺うように顔を上げると、豊永はどこか遠くを――上の方を、見ていた。

「ある、のかも」

 返ってきた声は弱々しく、豊永にしては珍しく、曖昧な言葉だった。もしかしたらこれが本当の豊永かもしれないと思った。

「そうだね、消えてしまうことができたら、楽だろうね」

 実際に豊永はいなくなったのだ。ここにいる豊永は、丸二日間行方知らずったのだから。

「豊永くん、は、消えてしまいたくて、ここにいるの?」

「どうだろう、少なくともここにいるのはそうじゃない気がするけど」

「じゃあ、なんで……」

 豊永ははっきりと答えたが、その中身は曖昧なものだった。

 そういえば豊永は病院の前にいたはずだ。もしかしたらそこから出てきたのかもしれない。用事があって、ここにいるのかもしれない。

「奥原は、思ったことがあるからそれを聞いたんだよね」

「……うん」

「なんで?」

 昔から母親の愛情に生かされてきた。自分が案外愛されていることなど分かっていた。そして自分が母を愛することも、まるで義務のようなものだと思っていた。

「母親に、愛されてるのを、自覚するたびに、死ねないなって、思うから、だから、どこかへ消えて、いなくなりたい」

 自分でも本心なのか分からなくなりつつある、旅の理由。いっそこのまま消えてもいいと思っていたのに、今口にした言葉が自分のものである自覚すら持てない。

「どこにいたって、結局は愛されてるんじゃないの。そんなもの、逃げられないのに、逃げ出してどうしたいの?」

 豊永は相変わらず表情を変えず、ただ冬の空気を白く染める。何も知らないクラスメイトに、そんなものを話す理由も意味もないのに、それなのに。

「僕は……」

 何がしたい?

 自分を知らないまちで、それでもきっと母の愛はどこかにあって、ならばどうするのが正解だ?

 恭平に問いを投げかけたのも、その考えを打ち切ったのも、豊永だった。

「そっか、おまえはほんとにあいされてるんだ」

 豊永はそのときだけは、ひどく悲しそうだった。その言葉の意味が汲み取れない。恭平は豊永が分からない。まともに話したのはこのときくらいで、そして豊永は一向に恭平に理解させようなんて気はなかったのだ。

 豊永がそこを去ってからも、なんとなく足を動かすことができずにいた。以前に比べると日が沈むのは遅くなったようだけど、それでも真冬の二月である。冷たい風が吹き付ける中で、人が増え始めた駅を眺めていた。凍えそうなほど冷たくなっていく手を自動販売機のホットミルクティーで温めながら、一息をついた。ミルクティーを飲むと、なんとなく幼馴染みを思い出す。豊永に対してだけ、やたら嫌悪に表情を歪める幼馴染みの気持ちを、少しだけ分かった。豊永は理解させてくれない、そのくせいつも見え透いたような顔をして、あまりにも一方的だ。空になったペットボトルをごみ箱に投げ入れると、中のごみが音を立ててむなしく崩れた。恭平の指先は、すでにまた冷たくなり始めていた。

 その後、恭平が都内に着いたのは、ある程度夜に近づいた頃だった。都会は夜ですら喧騒に包まれ、恭平はギターを抱えた肩を小さく縮めて歩いた。一日中歩き回ったせいでいい加減足も痛くなり始めていた。その上足が冷えて、いよいよ感覚がなくなるようだった。東京の人は歩くのが速いとは本当のことで、自分もそれに合わせるように足早に歩いた。早く人ごみから抜け出したかった。待ち合わせ場所である、チェーン店のコーヒーショップまでの道のりがやたら長く感じる。本当はたった数分だろうに。嫌な顔一つせず恭平を受け入れてくれたのは五歳ほど年上で、メジャーデビューを去年の夏に果たしたばかりの歌い手だった。少し前、恭平にコラボCDを依頼したのもこの男だ。申し訳ないと思いながらも、恭平はそれを断った。

 一晩泊まって、明日の朝にはここを出てまたライブの旅をする予定だった。だけど恭平は、全然そんな気分などにはなれなかったのだ。豊永の言葉は、もうはっきりとは思い出せない。それなのに、その豊永の言葉に縛られているようだった。

 その晩、なんだか温かな夢を見た。夢に音はないはずなのに、柔らかなピアノみたいな音色と、淡い青やオレンジ、緑などの美しい景色、それから愛情に溢れた温かな手のひらに撫でられて……。

 その夢から覚めたとき、外はまだ暗かった。恭平はコートをスウェットの上にそのまま羽織って、ベランダに出る。冬の空気は冷たくて、いつもより澄んでいるようだ。家主はまだソファの上で静かに寝息を立てていた。

 少しずつ光が溢れていく空に、息を吐く。白い吐息が目の前に広がり、恭平は目を細めた。朝日をこんな風に見るのはいつぶりだっただろうか。

「スバル」

 ふいに偽者のほうの名前を呼ばれ、振り返る。

「早いな」

「状況が状況であまり眠れなくて。……あの、お願いがあるんですけど」

 光に溢れた朝の景色は、都会の色に飲まれてお世辞にもきれいとは言えない。それなのにその朝日の色が、少しだけ恭平の心を温めたみたいだった。



 昔から運動が苦手だ。走るのなんて、できる限りしたくない。それでも恭平は走っていた。母が待つ家に向かって、走り続けた。ギターバッグが重い。だけどそれも恭平の宝物だった。どうして今まで気が付かなかったんだろう。こんなに簡単な答えなのに。

 電車の中で読んだ昴からのメールを思い出す。豊永が見つかったのだという。ちょうど恭平と会ったその日の午後、海辺にいたのを、女子バレー部の一年生が見つけたらしい。海辺と言えば、豊永と会った駅は、確かバスに数分乗れば海に行けると誰かが話していた。本当にあの辺りに用事があったのだろう。

 肩で息をしながら、ポケットから取り出した鍵を鍵穴に差し込む。慌てているせいか上手く鍵が開けられない。やっとのことで開いたドアを思い切り引き、靴をそこに脱ぎ散らかした。

「母さん」

 呼吸を落ち着けようと大きく息を吸って、ほとんど勢いでリビングに飛び込んだ。たった一泊二日の家出をしただけなのに、家の香りが懐かしく感じる。温かな香りだ。クラシックがかかっているのだろう、微かにピアノの音が聞こえた。

「あら、お仕事どうだった?」

 母はいつものように微笑んだ。こんなに焦っているのに、母はそれを気にとめもしなかった。その手には見たことのない高そうな絨毯があった。

「……それ、買ったの?」

「あ、そうそう、これがあるとね、幸せになれるんですって」

 そっか、良かったね。いつもと同じテンプレートの言葉を飲み込んだ。いつだって遠慮がちな会話をする二人では駄目なのだ。愛されているのかもしれない、だけど愛していなかったのかもしれない。愛に甘えていたのかもしれない。

「母さん、それ、嘘だよ。だって俺は」

 まだ母に対しても上手く話せない。母はやはり優しく微笑んでいる。

「おれ、そんなものがなくたってしあわせだよ、だから、そんなの、うそだよ。もう、そんなもの、信じないでよ」

 上手く息ができない。恭平は大きく息を吸う。胸に当てた手は、確かに自分の生を感じていた。

「そうね……そうよね」

 母はまた微笑んだ。だけど泣いていた。透明にすらならない色で、涙を流していた。恭平はずきずきと頭が痛いのを感じながら、これで良かったのだと自分に言い聞かせた。何も返してこなかった。ただただ、母から注がれる愛情を、そこに投げていた。

 そのとき、恭平は初めて、母は自分が騙されていたことなんて分かっているのだと知った。知っていたのに、きっと寂しがりな母はわざと騙されていたのだ。

「それから、俺、CD出すことになったよ」

 母は目を見開いて何度か瞬きをしたが、何も言葉を発することはなかった。

 東京まで行ったにも関わらず、そして歌い手のイベントにサプライズ出演するつもりが、結局そのまま帰ってきた。途中途中で路上ライブ程度のことはしたが、駅のようなイベントは何もしなかった。

 豊永が行方不明になった理由は知らないし、きっとこの先だって分からないままだ。恭平は豊永のことを何も知らないままだが、それでも彼の言葉は確実に恭平を変えた。

「ごめん、本当は、打ち合わせも、嘘だった」

「私の方こそごめんなさい、それは知ってたの」

「え……?」

 今度は恭平が驚く番だった。何も意見らしい意見は言わない母が、自分の企みを知っていたのだ。

「恭平は昔から、話すのが苦手なのに、嘘だけは達者なのよね。昴くんにはきちんと謝るのよ」

 昴には、学校がある日の連絡係を頼んでいた。万が一学校から連絡の電話がかかってきて、歌い手の活動を話すことになれば、今回の計画は終わってしまう。結局、その心配も必要なく、登校日より早く帰ってきたのだが。

 それにしても、そこまで見抜かれているなんて。

「ごめん、ねえ、母さん」

 クラシック音楽の柔らかなピアノの音色、騙されて買ったであろう花瓶に咲く淡い青とオレンジの花、緑の葉。

「ただいま」

 そして恭平の頭を撫でる母の温かな手のひら。昨晩、夢で見たのは、確かにこの光景だった。幸せな家族の光景だったのだ。



「――まあ、旅って言ってもたったそれだけなんだけどね」

 画面に向かって話したのは、その大切な思い出を共有したかったからだ。消えてしまえたらいいと思っていた自分と同じ境遇の人がいるなら、こんな考え方もあるのだと知って欲しかったからだ。

「でもそれきり、なんか幸せだなあって思うようになったよ。そりゃ、誰も自分を求めてないなら簡単に死のうと思えるけど、でもそんな簡単に、消えたいなんて言っちゃいけなかったんだ、ほんとは。愛されてるなら、ちゃんと愛さないと」

 口元を綻ばせる恭平に――いやスバルに――流れてくるコメントは優しいものばかりだった。閲覧者数はいつの間にか四千人を超えていた。この人たちにも、愛を返さなければいけないのだ。そのための、重大発表なのだ。

「あはは、なーんか真面目な話になっちゃったね。そろそろ重大発表でもしよっか。えー、なんと、僕スバルは」

 ああ、笑ってる。自分は話すのは苦手だけど、笑うのは案外苦手ではないのだと思うようになった。母が与えてくれた愛情が、そうしてくれたのかもしれない。

 恭平はにんまりと笑って、それから大きく息を吸う。

「CDを出します!」

 流れてくるコメントは、文字だけだというのにやたらとうるさい。それを嬉しく思う。

「コメントすごいね、みんなありがとう。前から話は出てたんだけど断っててさ。今回のことで、ちょっと決心ついたから」

 部屋は静かだった。自分しかいないのだから、当然だ。向かいの窓で、幼馴染みが帰ってきたのが見えた。部活終わりだろうか、バレー部のジャージを着ている。

「たくさんの人に助けられて、ついにここまで来れました。改めて、これからもよろしくお願いします。それじゃあ、今日はここまでかな。みんな、おやすみなさい!」

 放送終了をクリックして、大きく息を吐く。伊達眼鏡を外して、前髪を崩す。窓の向こうで、昴が手を振っている。慌てて窓を開けてやると、昴は心なしかいつもより機嫌がいいようだった。

「機嫌よさそう」

「そっちこそ」

「そうかも」

 昴がくすりと笑ったので、それにつられて恭平も笑った。ずっと一緒にいたはずなのに、こんな風に笑いあったことはなかった。初めて二人で笑えた、母も、昴も、ずっときちんと向き合えなかったのはいつだって自分だった。

「あ」

 はらはらと舞い降りる白に、昴は小さく呟いた。

 ああ、こんな当たり前の景色が今ではこんなに愛おしいと思う。

「ねえ、昴くん。今度、僕のゲーム実況にゲスト出演してよ」

 たった一人の友人に、自分の世界を知って欲しいと、初めて思った。

 全ては、豊永の失踪から始まった。彼につられて、自分も旅に出た。そしてその先で出会い、この旅に終止符を打たせたのも間違いなく豊永だった。

 自分がいなくなったとき、誰も悲しまない世界ならいいと思っていた。それはきっと素敵な世界なのだろうと。だけど、結局注がれる愛情はなくならないから、こんな世界じゃ到底死ねないなと思った。そして、自分もその世界を愛そうと思った。愛することが息苦しく感じることもあるけれど、だからこそきちんと愛したい。きっと母は、そんな思いをずっとしてきたと知ったから。

 ひとつ思い出した言葉がある。ずっと忘れていた、大切な母の愛情。

 ――あなたを生涯かけて愛するわ、だって、私にはあなたしかいないもの。

 生涯をかけられてしまったら、もう愛するしかないじゃないか。

 窓の向こうで笑った昴が、うなずいた。

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