君が消えた冬に
サトミサラ
第一章 翡翠のまち
部活を辞めた先輩が、ある日突然いなくなった。それを聞かされたとき、翠はまず彼の言葉を思い出したのだ。何と呼べばいいか分からない不思議な関係の、二人の小さな秘密だった。
「天井って、怖いと思わないか」
「……はあ」
「たまに、天井が落ちてくるような感覚になるときがある」
ある日の帰り道、たまたま乗り合わせたバスの中だった。ぽつりと、まるで独り言のように呟いたその先輩の視線は、確かに翠に向けられていた。
「そう、ですか」
翠は応える言葉が見つからず、ただそう言葉をこぼした。その先輩――豊永という男は、本来翠とは何の接点もないはずであった。翠がバレーボール部に入部した春、二年生の豊永はすでにバレー部を辞めていた。控えセッターだったという。それなのに。
翠と、入学前に辞めてしまった豊永が知り合ったのも、本当に些細なものであった。たまに部活の様子を見に来る豊永のことを翠はなんとなく覚えていて、そして反対に豊永も翠のことを覚えていて、一度だけ自動販売機の前で居合わせたのだ。そんなただの顔見知りの翠に対し、豊永はにこやかに話しかけた。そしておごるよと笑って、本当にいちごミルクをおごってくれた。翠はそんな豊永を不思議な人だと思っていた。そんな不思議な男は、言葉も少ないのに、それでも心に寄り添うようなひとだった。
「豊永さんは、バレーはもうやらないんですか」
代わりに思いついた言葉はそれで、気の利かない後輩だなと思いながらも、ただ豊永の返事を待った。豊永は指先が冷えるのか、セーターの中に指を引っ込めながら白い息を吐いた。
変な笑顔だ、と思う。翠はこの先輩がどうにも気に食わない。穏やかな時間は嫌いではなかったが、いつだって曖昧な豊永に対し、苛立ちを覚えることだってあった。
曖昧って、ずるいことだ。それ以上聞かれることを拒絶している。それなのに彼を責められないのは、どうしてだろう。
「どうかな」
豊永の言葉は、やはりどこか霧がかかったみたいだ。まるで色を隠すみたいに話すとき、決まって豊永の意志が固いことは知っていた。そうだ、この人がバレーを見ていないことなど、とうに分かっていたではないか。たまに顔を出して、トスをあげて、それなのに見ている場所は決してその体育館の中ではなかった。決して親しいわけではない翠が言うことではないのかも知れないけれど、確かに、豊永は何かを見ていたのだ。あまりにも静かな先輩は、上げるトスすらも静かで、翠はその背中を見るのが好きだった。恋い慕うと言うにはあまりにも遠い感情だが、それは憧憬というにもふさわしくはない。
豊永に何を思っていたんだろうか。
翠は豊永といると、言葉が出ない。何か言おうと思っても、ぐわりと心の奥で捕まえられて、声にならない。その間に豊永の視線はまた別の方向に向けられてしまう。
「戻って来ることは、きっともう、ないんでしょ」
高校にいる間は、この人はもうバレーボールに触ることはない。翠は豊永とバレーをすることができない。同じコートに立つことなんて、ないのだ。分かっていた、答えが分かっていることしか、翠は言葉にできないのだ。知ることが、怖かった。
「そうかもね」
バスが少し揺れて止まった。灰色の声が笑っていた。豊永が席を立った。翠のことは、振り返らない。
「豊永さん」
とっさに、名前を呼んだ。思いのほか大きな声が出て、翠が先に視線を逸らす。
「うん?」
振り返った背中は、確かに遠くを歩いているように見えた。
「あ、いや」
呼び止めて、何かしたかったわけではない。それでも、呼び止めなければどこかへ消えてしまうように思ったのだ。
「みどり」
言い淀んだ翠を、代わりに豊永が呼ぶ。バスの運転手が豊永を急かしていた。豊永はすぐ降りますと声を掛け、また翠を振り返った。泣いているのだと、一瞬思った。だけど吐き出された白い息で視界が霞んだ次の瞬間、豊永はただ笑っているだけだった。
「おれはおまえに、主将になってほしいよ」
そう言い残して翠に背を向けた豊永は、それ以来自分のことを話したりはしなかった。いつだって豊永は自分の気持ちを言葉にしない。
似ていたのだろうか、それとも、正反対だったのだろうか。
バレーボールが床に叩きつけられる音。無理やり戻された意識は、まだ微かに豊永のことを手放さない。
「橋本ー! ちゃんとボール見ろ! 跳ばなきゃミドルブロッカーの意味がねぇだろうが!」
「すいません」
コーチの声に小さく答え、翠はネットの向こうを見た。
「橋本、集中力切れたか?」
隣で笑うのは、主将だ。豊永とは親しかったと聞いたことがあるし、実際、豊永が顔を出すときは、大体主将と一緒にいる。
「いえ、大丈夫です、すいません」
男子バレー部の中で、翠、と名前で呼ぶのは豊永しかいない。
――名前、ミドリって読むの?
――はあ、そうですけど。
――きれいな名前だね。
自動販売機の前で、そう言われたのだ。いつ名前を知ったんだろうとか、どうして急にそんなことを思ったのだろうとか、聞きたいこともあったけれど、それきり話さない豊永に対し、翠も何も言わなかった。
翠は小さく息を吐いて、それから改めてネットの向こうを見る。レシーブが、セッターに届く瞬間。セッターがボールに触った。レフトだ。翠はレフトにいたスパイカーに向かい、そして跳ぶ。次の瞬間、ボールは反対側のコートに叩きつけられていた。
「いいブロックだったぞ、橋本!」
主将の声が飛んできて、翠は小さくありがとうございますと口にした。ごくりと唾液を飲み込む。乾いているわけではないのに、喉がヒリヒリと痛んだ。
ああ、どうして。どうして豊永はバレーを、この人たちを、捨ててしまったんだろうか。
翠は何も知らないのだ。
豊永がいなくなったと聞いたのは、部室でのことだった。
「ほら、橋本って親しかったじゃん? 何か知らないかと思って」
それを切り出されたのは、部室にふたりしかいなかったからだろう。翠以外の一年生からしてみれば、豊永なんてただの他人だ。いや、翠にとっても、所詮はバレー部を辞めたただの他人に過ぎないはずだ。
「知らないです。それに、別に親しくはない、と、思います」
だったら主将の方が、よっぽど親しいに決まっている。翠は所詮ただの後輩に過ぎないし、同じコートに立ったことだってない。トスを教える背中は見たことがあっても、彼から何かを教わったことはなかった。何の接点もないはずだった、不思議な関係。そこまで考えて、自分が豊永のユニフォームを着た姿を知らないことに気がつく。思い出すのは、どれも制服を着た豊永なのだ。
「そうか?」
主将は何か言いたげだったが、それ以上は何も言わなかった。
やけに寒いのは、古びた部室棟の角部屋だからだろう。窓が風に吹かれて音を立てている。静かだから、それがやけに耳に響く。
「そんなことより、警察とかに相談した方がいいんじゃ」
「置き手紙があるから、探してくれないんだと。これが小学生とかだったら、警察も探してくれただろうに」
「……そうですか」
豊永が、一枚の置き手紙を残してどこかへ消えた。翠は豊永のことを何も知らない。自動販売機でいつも同じ缶コーヒーを買うこと、彼が降りるバス停、バレーを捨ててバンド活動を始めたということ、だけど今度はそれすらも捨ててしまった。
――たまに、天井が落ちてくるような感覚になるときがある。
その言葉の真意を、翠は知らない。
「あの」
本当に何も知らないと思った。豊永がいなくなったとき、主将からその話を聞いたとき、そのときになって、初めて気がついた。
「豊永さんの、下の名前って」
「ああ、リュウだよ。流れるって書いて、リュウ」
よく似合う名前だと思った。静かな豊永に、よく似合う名前だ。だけど翠は、そんなことすら知らなかったのだ。
翠はよく自動販売機に立ち寄る。部室棟の裏側にあるそれは、部活後に立ち寄るのにちょうど良かった。ただの習慣なのに、豊永がいなくなったせいか胸に小さな痛みが走った。無意識に手がいちごミルクのボタンへ伸びるのは、きっと豊永を意識していたのだろう。特別と呼べるほど近い存在ではなかったけれど、確かに豊永は翠に大きく影響を与えていた。
「あのさ、確か豊永の後輩の――」
ふいに声を掛けられ、振り返る。そこに立っていたのは、豊永とバンドを組む、ボーカルの男だった。文化祭のステージを見たので翠も彼のことは覚えている。しかし翠はこの男と知り合った記憶はない。怪訝に表情を歪めながら、翠は小さく名前を呟いた。
「橋本翠です」
「ああ、そうか、橋本か」
なんで知っているのだろう、関わったこともないのに。豊永の周りには不思議な人が集まるのだろうか。もちろん、豊永を含めてだが。軽そうに笑って名乗る男に対し、翠は興味なさげに聞き流す。明るくていつも人に囲まれている人気者というタイプの、笹谷と名乗った男は、翠はどちらかといえば苦手な性格をしている。胡散臭い笑顔だった。
「……なあ、あいつは何でいなくなったと思う」
「知りませんよ」
だからどうして、みんなして翠に豊永のことを聞くのか。翠はまったくそれが理解できなかった。同じバンドに所属するくらいだから、一緒にいた時間なんて比べ物にならないくらい長いだろうに。
翠が百円玉を入れようとしたところで横から手が伸びてきてそれをさえぎった。代わりに百円玉を投入した手は、そのままいちごミルクのボタンを押した。
「はいよ」
「なんで……」
受け取ったいちごミルクは、いつもより冷えて感じた。白い息が、こぼれた。
「ここ、俺の教室から見えるんだ。いつも一番上の、右端のボタン押すの、知ってた。でもいちごミルクは意外だな。もっとコーヒーとか飲んでるかと思った」
ちらりと校舎を一瞥して、それからまた視線を戻す。少し豊永と似た笑い方に、翠は目をそらした。確かに翠は周りと比べると冷めているように思うが、だからといってコーヒーのイメージは意味が分からない。いつもコーヒーを買うのは、翠ではなく豊永だ。そこでも豊永が意識の中で見え隠れする。
彼はわざとそんな話をしているんだろうか、と考えて、いや彼はそこまで賢そうには見えない、と翠は頭を振った。
「俺、あいつと幼馴染で、家も近くてさ。でも急にいなくなった理由、知らねえんだ。あいつの話すことは難しいし、作る曲も書く歌詞も俺にはよく分かんなかったな。バンド始めたのは俺だし、あいつが暇そうだったから誘ったのも俺だけど、センスは豊永の方があったから任せてたんだ。おかげで今、バンド活動は休止中。ギターいないと話進まねえだろ」
苦笑いをしながら、ぺらぺらとバンドの話をするこの人は、豊永とは似ていない。よく喋る笹谷と、静かな豊永は正反対とも言えた。嫌悪に眉をひそめる翠など気にも留めず、笹谷は話すのを止めない。
「俺は、バンドがあいつにとって新しい居場所になったらとか思ってたんだけど」
その言葉に、翠は意識を呼び戻されたようだった。居場所。そうだ、バレー部は確かに豊永の居場所と呼べる場所ではなかったのだろうか。簡単に捨ててしまう人とは思えない。大切な居場所だったらなおさらだ。
「先輩は、豊永さんがバレーを辞めた理由を知ってるんですか」
初めて自分から言葉を発したことに対してなのか、笹谷は何度か驚いたように瞬きをして、それから笑った。冷たい風が吹いて来て、眉にかかるほどの前髪が揺れる。やはり少しだけ似ているかもしれない。きれいな作りをした顔だとか、それから大切なものを抱えるみたいな話し方だとか、似ているのだ。
「辞めた理由は知らないよ。でも始めた理由は知ってる。たぶんだけど、父親の背中を追いかけていたんだと思う。あいつの父ちゃん、ここのOBで全国行ってっから」
ほら、また。笑い方は切なそうで、それがどうしても豊永と重なる。長い間一緒にいた二人は、自然と似たのかもしれない。小さい頃から一緒にいたのなら、それもおかしくない。
「って言っても、中学の頃にあいつの親は離婚して、そっから何を理由にしてたのかは知らないんだけどな。……こんな話重いよな、ごめんな」
「……勝手に話して豊永さんに怒られないんですか」
「怒るかもなあ。でも、勝手にいなくなったんだ、俺がこれぐらいのわがまま言ったっていいだろ」
そのとき、笹谷は笑っていたけれど、翠は泣いているかもしれないと思った。
ああ、本当に嫌だ。なんでこの人はこんなにも、豊永と重なって見えるのだろう。
豊永はバレー部員ではない。体育館にいないのなんていつものことだったのに、どうしても視線が豊永を探している。ふらりと突然現れて、主将と談笑をして、セッターに指導をして、それから――。そういえば、ジャンプフローターサーブの指導なんかもしていたはずだ。気にしていなかったはずの世界が、欠片が、急に蘇る。自分には関係がないはずだった。たまたま帰りのバスが同じで、一緒の便で帰ることも多くて、だけどそれだけだった。会えば挨拶はする。それ以上なんてほとんどない。それなのにあの日の豊永は確かに天井を怖いと話していたし、その言葉は間違いなく翠に向けられていた。部活での接点なんてまるでなかったのに、豊永は翠にキャプテンになってほしいと言った。
「豊永さんが嫌いだと思います」
主将は困ったように笑った。
「突然だな。どうした?」
「理解ができません。急に消えたのも意味分からないし」
「そりゃ、みんな理解できないよ」
主将は本当に困っているようだった。少し前まで仲間だった豊永がいなくなったのだから、無理はない。突然行方不明になれば、誰だって困るに決まっている。豊永は本当にそれすら考えないだろうか。考えれば考えるほど、豊永は一歩遠のいていく。どうしてもそんな人だとは思えなかった。どちらかと言うと、周りをよく見ていた方だと思う。だからこそセッターという役職に向いていたのだし、その実力を認められていたのだ。
それでも、突然部活を辞めた。もしかしたら急にいなくなったのも、それと似たものなのかもしれない。
「いつも突然だったからなあ」
その声は寂しさを含んでいた。
「豊永さんは、戻ってこないんでしょうか」
「さあね。それはあいつしか知らない」
主将はドリンクをかごに投げて戻すと、パンと手を叩いた。
「サーブ練一人五十本!」
みんなが返事をする。いつも通りの光景。男女の声が入り混じる中、少しずつ人は散らばり、サーブ位置に並ぶ。何も変わらない。いつも通り練習はハードで、それでもどこか楽しい。変わったことなんて、何もないのに、それなのに心が痛い。心に穴が開いたみたいだ。そしていつもよりも、音が溢れかえっているような気がする。ボールが床に叩きつけられる音と、そのたびに飛ぶ声。手がボールを打つ音や、マネージャーがドリンクを補充しに行った足音。話し声も聞こえる。コーチの声はいつもより怒っているみたいだった。
翠は立ち尽くして、体育館の中を眺めていた。何が足りないのだろう。入部したときから、何も変わらないのに、それでも翠は泣きたい気分だった。
「大丈夫?」
ひとつ年上のマネージャーが近くで首を傾げていた。
「豊永くんがいなくなったこと、気にしてるの?」
「……そんなこと、ないです」
「嘘」
それが嘘なんてことは、自分が一番よく分かっている。だから、言わないでほしかった。言ったところで、何かが変わるわけではない。
「せんせー! 橋本が体調悪そうなので向こうで休ませておきますねー!」
翠を無理にベンチに座らせたマネージャーは、少しいたずらに笑って、翠の隣に座った。
「あたしさ、豊永くんと同じ中学だったよ」
「え……」
「だからちょっぴり心配してたの。豊永くん、中学のときは男バレなかったから陸上部だった。走り高跳び。バレーは学校の外でしてたみたい。そんで、陸上部は中学二年生の春に辞めちゃった」
視線は体育館の中。向けられたのは男バレのようにも見えたし、女バレのようにも見えた。ただ、その横顔がまるで儚いものを見るように切なそうだったのを覚えていた。
「あたし同じ陸上部だったの。陸上競技にはあんま興味ないのも知ってた。でも、バレーだけはたぶん宝物だったの、豊永くんにとっては。たぶん、何よりもバレーが好きだったよ、バレー馬鹿だったよ。豊永くん、大人しくて頭も良かった。本当は進学校を目指せって言われてた。でも、それでもバレーの強豪校を選んだの。それだけのことだから、確信があるわけじゃない。でもあたしは、そうだと思う」
「じゃあ、なんで」
「分かんないよ」
どうして、自らその道を捨てた? 言いかけた言葉はさえぎられてしまった。
「でもその宝物を捨てるって、よほどのことがあったと思うよ。急にいなくなっちゃったのも、バレーと関係があるのかもね」
頭をぐしゃぐしゃと撫でられ、翠はその手を振り払う。
「あんただけ、特別だよ。他の人には言わない。豊永くんを、何しても長続きしないって悪く言う人もいるよ。でも、あたしにはどうしてもそう思えないの。たぶんあんたも、同じだと思ったから」
翠はただ兄がやっていたという理由でバレーを始めた。面倒なことは好きじゃない。チーム戦も嫌いだ。集団行動だとか、連携だとか、苦手なのだ。たかが部活だからと、熱意を注ぎきれない自分もいた。ベンチ入りだってしていない。そんな自分はバレーを続けているのに、どうしてあんな大切に抱えていた豊永はここにいないのだろう。
豊永が、バレーをまるで宝物みたいに、壊れ物みたいに抱えていることなんて、翠は、それだけは分かっているつもりだった。
「……豊永さんの顔が、思い出せないんです」
頻繁に会うわけでもなく、会ったからと言って喋るわけでもなく。しばらく会わなければ、もう記憶は薄れていく。最後に話したあの日、バスの中で白い息にかき消されてしまった涙は、どんな色をしていたのだろう。
「最後に会ったとき、すごく悲しそうにしてました。どこか遠くにいるみたいでした。なんでだろう、トスを上げる後ろ姿も、その表情だって思い出せるんです、それなのに私、どうしてもその顔が思い出せなくて」
「おかしいよね、人は覚えたいことを忘れるんだもの」
彼女もそうだったのだろうか、その横顔は相変わらず切なく、そして今にも泣き出しそうだった。それでも笑っていた。そんな必要ないのに、無理に笑おうとしていた。彼女は優しい先輩だから、そうやって笑うのだ。
「あたしもさあ、豊永くんが高飛びやってんの好きだったのに、もう、その背中は覚えてないの」
ああ、そうだったのか。翠は胸が締め付けられるような苦しさを覚えた。大切だったのだ。途中で辞めてしまったとしても、それでもこの人にとって、豊永は大切な人だったのだ。それは間違いなく、翠にとってもそんな存在だった。いなくなれば、世界はひっくり返る。何が変わったかは分からない、それでも大切なものが欠けた世界は、確かにひとつ色を失ったようだ。翠は天井を見上げた。天井が、揺れたような感覚がした。
「あ……天井」
「え?」
「天井が、落ちてくるみたいですね」
そんなのは錯覚だ。ぐらりと、にじんだ天井は本当に落ちてくるみたいだった。
「豊永さんは、これを言ってたんですかね」
「それは知らないわよ」
少し笑ったみたいな声がして、にじんだ世界が淡い緑色のタオルでふさがれた。その衝撃で腕にこぼれ落ちたのは汗だったのか、あるいは涙なのか、翠には分からなかった。
次の日、滅多にない午後練のために部室に向かうと、一番にそこに着いていたのは主将だった。主将は朝でも昼でも、とにかく早い。それを知っているのは、翠もまた朝が早いからだ。それは部活に熱意を注ぎきれない自分を咎める意味もあった。早めに来ることで、自分を納得させていたのだ。
「こんにちは」
「お、橋本。大丈夫かー? 昨日ちゃんと眠れた?」
「大丈夫です。すいません、ご心配をおかけしました」
あのまま帰った翠のことを、心配してくれていたらしい。
「あの、豊永さんのことなんですけど」
主将の動きが止まった。二人きりだからこそ、聞けることだった。翠は決めていたのだ。まだ何も知らないあの静かな人を、知りたいと思った。探したいと、見つけたいと思った。
「どうして部活を辞めたんですか?」
主将はロッカーをパタンと閉じて、それからそこに座った。トンと前を叩いたのは、翠も座れということなのだろう。
「残念だけど、その質問の答えは知らない。ごめん」
「いえ、それは」
何も言わずにいなくなってしまったのだ。そんな豊永が部活を辞めた理由を誰かに話していたら、それこそおかしな話だ。豊永の幼馴染を名乗るあのそっくりな先輩――笹谷だって、知らないのに。予想通りの答えに、翠は小さく首を振る。
「そもそも、本当はあいつが主将になるはずだったんだ。一年生の終わりにもなれば、大体そんな話が出てくるんだよ。豊永は上手かったし、まとめ上手で教え上手。だから、最大候補って言われてた。でも、そんな矢先、三年生の引退試合の直後、急に部活を辞めた。みんな慌てたよ。理由を聞こうとした。そしたら豊永はこう言うんだ」
主将は顔をしかめて、だけどその表情がどのような感情を示すのかは分からなかった。
「もう、意味なくなっちゃったんだ。もう、追いかけたいもの見失っちゃったから」
その言葉を聞いた瞬間、頭を殴られたような衝撃が走った。ずっと分からなかったのだ。どうして父を追いかけて始めたはずの大切なものを手放したのか、新しい道すらも捨て去ってしまったのか。バレーを捨てて始めたくらいなのだからバンドも大切だったに違いない。それすら、豊永は捨て去ってしまった。
「あの、主将」
立ち上がり、勢いよく頭を下げた。
「すいません、あの、今日、部活休みます」
荷物を腕に引っ提げ、ローファーに足をねじ込んだ。主将に呼び止められた気もしたが、もう一度頭を下げて振り切る。部室を出るときにマネージャーとすれ違った。部室棟の二階から駆け下りて行く。スカートがひらりと揺れた。
「翠ちゃん!」
振り返った視線の先に立っていたのはマネージャーだ。昔の彼を教えてくれた、あの。
「頑張って!」
「ありがとうございます、あの……」
「うん?」
「私たぶん、あの人のことが好きです」
マネージャーの先輩は嬉しそうで、それでいて寂しそうに笑った。この人は、豊永を好きだったかもしれないと、翠は思う。自分のことすら理解しきれない翠は、そんなことに確信を持てない。それでも、そうかもしれないと思う。女の子らしさって、この先輩のためにあるんじゃないかと思うくらい、彼女の笑顔はかわいらしかった。寒さで赤らんだ頬に、小さなえくぼがある。
「うん、知ってる。ねえ、いいこと教えたげようか」
微笑んだ先輩に差し出された紙切れを、翠は強く強く、握り締めた。先輩はもう一度笑って、そして翠の背中を押した。こぼれ落ちた涙は、苦しさからだろうか、それとも嬉しかったのだろうか。翠は涙を飲み込み、駆け出した。
くだらない。本当に自分でもばかばかしい。
だけど。今しかないのだ。こんなこと、今しかできないのだ。
翠は自覚していた。自分があのとき、あの先輩に抱いていた思いも、そして彼がいなくなって思ったことも、全部、本当は理解していたのだ。それでも認められないのは、それがたまらなく苦しいものだと分かっているからだ、そして彼がいなくなってしまったという事実を受け入れたくないからだ。これを恋と呼ぶのなら、それはあまりに苦しい。
そんなもの、とうに気がついていた。
ずきずきと心が痛い。心臓が押しつぶされたように、息ができない。苦しくて、苦しくて、それでも走るしかない。息を吐き出すたびに、視界が白くかすむ。豊永がいなくなる前、バスの中で見た表情を思い出した。泣いていた、確かにあの日、涙もなく豊永は泣いていたのだ。
少し前をバスが去っていこうとしている。待って、お願い。声にはならず、翠は走るペースを上げた。信号が赤に変わり、バスが止まる。やっと追いついたところで扉を開けてもらい、飛び乗った。これを逃した次のバスが何分後かと考えるだけで頭が痛くなるようだ。安心するとせき止めていた涙がまたあふれ出して、翠は慌てて手のひらでそれを拭い、後ろの方の席へ腰掛けた。あの日、豊永が座っていたのと同じ場所だ。自分が座っていたのと、通路を挟んだ向かい側の席。
もしも自分が男なら、もう少し近い距離にいれただろうか。あの人からバレーを教わることはできたのだろうか。同じコートに立つことはできただろうか。だけど、もしも男だったら、きっとこんな感情は知らないままだ。
息を整えながら、窓の外を見やる。冬の景色が、白く染まっている。豊永がいなくなってから、まだ三日しか経っていない。それなのにこの数日間は長く感じてしかたがなかった。
翠は何から話そうかと考えた。豊永がどうやってこの数日間を過ごしたのか、どうして何も言わずにいなくなったのか、どうして何もかもを投げ出さなくてはいけなかったのか。聞きたいことはあまりにも多く、何から聞けばいいのか分からない。そもそも会えるとも限らないのに、本当にばかみたいだと思った。
しばらくバスに揺られ、耳に慣れたバス停の名前に、ピクリと肩が反応した。普段豊永の使うバス停だ。だけど翠は立ち上がらない。くしゃくしゃになった紙を広げ、バス停の名前を何度も見る。これは、翠の最寄りのバス停の三つ前だったはずだ。そのバス停に着いた頃には、部活は既に始まる頃、既に二時半を回っていた。三つしか変わらないはずなのに、景色は全然違う。冷たい風が酷く吹き付けるのは、海が近いからなのだろうか。
「バスを降りて右側……海沿いの道……」
その先に、豊永が参加していた、少年バレーのチームが使用する体育館がある。渡されたメモをもう一度確認して、それから走り出す。遠くに見える海は翡翠色にもエメラルドグリーンにも見えるような色をしていた。翠の名前をきれいだと、そう話したのは、この翡翠色の海が、思い出の地にあるからなのかもしれない。自意識過剰かもしれない。それでも翠はあの言葉が嬉しかった。翠を、名前で呼んでくれることが嬉しくてたまらなかった。
足を動かすスピードを上げていく。本当にその先に豊永がいるのかも、会えるかも分からないのに、それでも翠は走り続けた。もしも本当にこの先にいるなら……たったそれだけの思いが、翠を突き動かしていたのだ。ローファーのせいで足が痛い、リュックに詰め込まれた荷物が重い、風ではためくマフラーが鬱陶しい。こんなことなら、部室でランニングシューズに履き替えればよかった。ジャージなんて、置いて来ればよかった。マフラーだって、一緒に。後悔と、豊永に会いたいと願う気持ちが渦巻き、でも最終的に残るのは、どうしたって会いたい気持ちだった。
何かにつまずき、右のローファーが転がる。つま先が痛い。その衝撃で涙をせき止めていた何かが決壊し、ぼろぼろと雫が零れ落ちた。慌ててそれを拭い、翠はまたローファーに足をねじ込んで走り出す。
会いたい、どこにいるか確証がなくても、それでも会いたい。日が暮れ始めていた。水平線へ、太陽が沈んでいく。
足が、止まった。
そのとき、確かに人影が砂浜で揺れていた。逆光で見えないけれど、それは確かに人の姿だった。
豊永だ、と思った。近くに獣道を見つけ、翠は砂浜へ降りる。強く風が吹きつける中、防寒もまともにしていない制服姿の豊永が、ぼんやりとした様子で立っていた。ゆらゆらと揺れたその影は、海に向かって歩いているようだった。
「待って!」
思わず、声をあげた。振り返ったその顔は、驚く様子もなく、いつもと変わらぬ顔で、少しだけ微笑んでいた。慌てて駆け寄り、その腕をつかんだ。豊永の顔が、刹那、泣いているように見えた。しかしその次の瞬間には、もう視界が歪み、何も見えなくなってしまった。
「翠」
その声は温かくて、優しい。それが余計に、翠の胸を締め付ける。
「死のうとしたわけじゃないよ。少し、手を伸ばしたくなっただけ」
「意味が分かりません」
分からないのだ。いつだって、豊永は気持ちを汲み取らせてくれない。言いたいことなんて、いつも心に閉じ込めて、そんなの、辛いに決まっているのに。
「いつも、上を向いて涙をこらえてたんですか」
「ちがうよ」
「違わない!」
翠が激しく責め立てる一方で、豊永はどこまでも冷静だった。もう、知ってしまったのだ。天井が落ちてくるような感覚を。涙で視界が歪んだときの、天井が近づくような感覚を。
「ごめん、おねがいだから、わらってよ」
笑う気になどなれない。入水自殺するみたいな、あんなところ、見せられた直後で。
豊永の話し方は、いつだって少し曖昧で、そして温かくて、まるで言葉じゃないみたいだ。それが、怖い。まるで人のものじゃないみたいで、あまりに遠い存在みたいで。
「何で……どうして、バレーを手放してしまったんですか」
「翠は、バレーがすき?」
そう問うた声は、相変わらずどこか遠くにあるような気がした。好きか嫌いかで答えたら、きっと好きの部類なのだろう。でも、はっきりと答えられるほど好きではない。本当になんとなく、そこに立っていただけなのだ。
「答えられないよね。俺もなんだ」
豊永は、そっと目を伏せた。
「みんな、普通は好きでやってるんだ。でも、俺はそうじゃないから、理由がないとバレーだってやらない」
潮の香りが、顔にぶつかる。涙と同じ匂いだ、と思った。
「父親に……会ってきたんだ」
目を伏せた豊永の横顔は、きれいだった。夕焼け色の光を浴びて、憂いを帯びていた。どうしてこの人を見ていると、こんなに涙があふれてくるのだろう。翠は豊永をつかむ腕に力がこもるのを感じた。
「バレーは、少年チームのコーチだった父親が、俺に教えてくれたんだ。……それで、両親が離婚して俺が母親に引き取られたとき、他のものを犠牲にしてバレーひとつに絞ろうと思った。父親とのコミュニケーションの手段だったそれは、そのときの俺にとって、欠かせないものだったからね。俺は部活の後にこっそり父親の元を訪ねたりもして、もちろん試合のときは見にきてもらったりもしたんだ。でもある日、もう来ないでくれって言われた。だから俺は、バレーを辞めた。もう意味なくなっちゃったからね」
上手く息ができない。言葉が詰まる。こんなとき、何を言うのが正解なのかが分からない。
「みどり」
「はい」
透き通った声だった。透明に近い、曖昧な色で、彼は話す。
「意味がなくても、俺たちは主将なんてできるのかな」
女子バレー部の主将の声が蘇る。本当は主将になるはずだった豊永は、なぜか部活を辞めてしまった。豊永は期待されていた。学年で真っ先にベンチ入りして、ユニホームを着て、それなのにいちばんにバレーを辞めた。
翠は答えられなかった。翠に主将になってほしいと言ったあの日、豊永はもう父親に会いに行くことを決めていたのだろうか。この人は本当にずるい。自分のことはいつも曖昧なくせに、人のことばっかりはっきり話すのだ。
翠は答えない。きっと答えを出すのは、今ではない。
「みどり」
優しい声が降ってきた。うん、やっぱり間違いじゃない。答えが出たら、きちんと彼に会いに行こう。
「おれは、だれも愛せないとおもうんだ」
「……はい」
ああ、だから恋なんてしたくなかったのに。豊永は遠くの空を、見上げていた。涙をこらえているのだろうか。またそうやって、上を見てごまかすのだろうか。
「再婚したんだって、いつのことかは知らないけれど……。会いに来ないでほしいのは、そういうことだったんだよ。でも最後に会いたくてここまで来て、それなのに勇気が出なくて。ついさっき、たまたまそこで会って……もう、全部終わったんだ。――あぁ……天井どころか、空まで降ってくるみたいだ」
気がついたように目を細めて、そして空をじっと見つめる。今度こそ、その横顔は泣いていた。一筋の雫が、零れ落ちた。
「翠、俺は誰も愛せないかもしれないけど、でも、おまえは捜しに来てくれるって信じてたよ」
どくん、と心臓が揺れた。
「何で……だって」
「何でだろうなあ。でも、おまえのこと、信じてみたかったんだ」
豊永にかける言葉は、相も変わらず見つからないままだ。だけど今はそれでもよかった。今度こそ、翠は笑顔を作って、そして豊永を見つめる。自分の笑顔はきっとかわいくはないだろう、でも、今笑わなければ後悔をする。
報われることのない恋心を、翠は心の中で小さく呟く。言葉にするのは簡単なのに、どうしてこんなに伝えるのが難しいのだろう。こんなにちっぽけな想いが、どうして胸を締め付けるのだろう。代わりの言葉を探して、翠は今度こそその愛おしい人が消えてしまわないよう抱き締め、口を開いた。
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