第4話 練習試合

 練習を終え、我門と自転車を走らせていると気分は登校の時と比べて雲泥の差だ。

「テニスとは難しいものだ」

「ああ、そうだな」

「来週の日曜までに試合ができるようになるだろうか?」

「さあ、どうだろうな」

「俺に夢中だったレディたちは愛想を尽かすだろうか?」

「まあ、それは大丈夫だろ。そんな奴は一人もいなかったから」

「くそ。いい加減なことばっか言いやがって」

「最後のは極めて正確だけどな」

 日はすっかり暮れて腹が減る。こんなになるまで練習して、何故傍らを走るのが男なのか。抗議の声を上げそうになったが、かろうじて堪えた。

「しかし遠磯といったら、お前に対して異常にライバル心を燃やしている奴がいたな」

「いたか?そんな奴」

 思い返すのも面倒で俺は我門の説明を待つ。

「ああ、いた。北上って奴。俺は思うに、あいつは陣がテニスのことを忘れた、って言っても納得しないな。この機会に確実に勝負を挑んでくるぞ」

「うわ、そういう暑苦しいのは御免ですわ」名前を聞くとおぼろげながら、顔の輪郭が浮かんでくる。「なんでそいつは俺にライバル心なんか燃やしてるんだ?俺がモテるからか?」

「ホントにお前、忘れてるんだな」

「いまさら何だよ」

「いや、何というか、奇妙だ」

 我門は説明し始めた。

 北上は一年生の頃から遠磯高校のシングルス1を任されている、中々の手練らしい。遠磯高校のテニス部にはそれなりの人数がいるから、やはり一年生のシングル1とは異例なことなのだろう。驚異の新人が入ったということで、他校の注目も結構集めたそうだ。

 そして昨年、我らが大原高校の男子テニス部は記念すべき創立を迎えて、最初の練習試合の相手はその遠磯高校であった。練習試合は大原で催された。こちらの部員が五人しかいないということもあって、向こう側も恐らく選り抜きであろう五人でやって来た。

 練習試合は団体戦形式で行われた。シングルス1は俺と北上の試合である。しかし注目の新人である北上だったが、なんとそれでも俺には手も足もでなかったらしい。

「ごめん、聞こえなかった。もう一回言って」

「それでなぁ……」

 我門は何も聞かなかったように続ける。

 瞬く間にゲームカウントは5―0になったのだが、チェンジコートのために俺がベンチへ戻った時に、試合の流れの転機が訪れたそうだ。その練習試合は雰囲気を出すためにベンチコーチまで置いていたそうで、俺のベンチにはダブルスを見ている先生の代わりに我門が座っていたらしい。

『見てたか?今の俺のフォアのジャックナイフ。ポイントどころか女の子のハートまで奪えそうなやつ』

 と、俺は言ったそうだ。きっとよほどカッコいいジャックナイフだったのだろう。ジャックナイフとはバウンドの高いボールをしっかりと叩くためにジャンプして打つストロークであるから、決まればそれはそれはカッコいいのだ。

『見てなかった。そんなすごかったのか?』

 我門はぬけぬけと言ったそうだ。

『お前ね、ベンチにいるのに試合以外に何か見るものでもあんのかよ?』

『あれだ』

 我門が指さしたのは、コートの外の一段高くなっているところでこちらに背を向けて話をしている二人の女の子であった。こちらがベンチに腰をおろすと高さ関係は絶妙で、スラリと伸びた彼女たちの足の上で時折吹く風にひらひらと揺れながらも一向にその奥を覗かせてくれそうにない制服のスカートは、なかなか決着のつかないデュースゲームを見るよりも、こっちをやきもきさせていた。

『なるほど』

 俺は瞬く間に5ゲーム落としたらしい。

「聞こえたか?一気に5ゲーム落としたんだぞ。コート外の女子のパンツが気になってな」

「うるさい。聞こえてんだよ」

 勝利が危ぶまれたが、5ゲーム落とした後に外の女子が姿を消したことで俺は2ゲームを連取して7―5で試合をおさめたそうだ。そしてこの試合を見ていた遠磯高校の者たちには、何をどう見間違えたのか、俺と北上の試合が宿命のライバル対決のように映ったらしく、コートを出た時は俺にも賞賛の声を送ってきたそうな。

 そう言えばその北上とかいう奴は、試合終了後の握手で『高校テニス青春物語―めざせ、インターハイ―ゴッコ』でもしているように清々しい顔をしていたような気がする。

「ま、そういうことだ」

「迷惑な話だな。こっちは結局5ゲームを棒に振っても見えた記憶はないぞ」

「傑作だな。ところでずっと気になってんだけど、その肘どうしたんだ?」

「これは、名誉の負傷だ」


 〇


 梅雨の晴れ間はすぐに過ぎ去って、連日雨が続いた。開閉式の屋根があるわけでもない大原高校のテニスコートは濡れそぼって、男子テニス部はすることがなくなる。部の創立当初こそ、校舎内をランニングするなどという他の部活のマネごとをしてみたりもした。しかし、我々五人が校舎を走り回っていると、やや不可抗力気味に花咲く猥談のせいで不必要に周囲の冷たい目線を集める上に、どうも要らぬ所ばかり鍛えられている気配が拭えないので、すぐに止めてしまった。

 テニスを取り戻すことが今や焦眉の急となっているので、部活ができないとなると学校へ来る気分が使い込んでべこべこになったテニスボールくらい弾まなくなる。堀川さんとの掃除という支えがなかったら、とうに授業を棄権していただろう。しかし掃除の時間になると、俺の心は一転してラファエル・ナダルのストロークもかくやと思われるほどに弾むのだ。男子テニス界でも随一のトップスピンを誇るナダルのストロークは「分かっていても、とれない」らしい。俺の高揚だって、分かっていても止められない。だからといって堀川さんの貞操の危機だと思うのは誤解も甚だしい。俺はあくまで紳士である。

「陣、俺はバイトあるから先帰るぞ」

 帰りのホームルームが終わるなり、我門が席までやって来る。

「おう、帰れ、帰れ」

「掃除、手伝ってやろうか?」

「断固として拒否する。とっとと帰って、バイトに勤しみやがれ」

 我門はへらへら笑いながら教室を出ていった。

「坂上」今度は石村と柿沢がやって来た。「今日も頼んでいいか?」

「おう、任せておけ」

「さっすがは坂上だな。頼りになるぜ」

「ホント、ホント」

「なんだ、今更気づいたのか?」

 石村と柿沢はにこやかに教室を後にした。教室は空っぽになり、堀川さんはいつものように箒で床を掃いている。今日の髪型はポニーテールだ。なんとも可憐ではないか。俺の気持ちにぎゅるぎゅるとスピンがかかり出す。

 昨今のテニス界にはエッグボールなるものが存在する。極度にスピンのかかったボールが高い軌道で打ち出されると、一見アウトのような軌道を描きながらベースラインの付近でグイと沈む。その軌道が卵の輪郭に似ていることからエッグボールという名がついた。いまの俺の気持ちをボールで表せばエッグボールも目じゃない。弾み過ぎて教室の窓から飛び出しそうである。しかしそんなことをすれば二階とはいえ、その先天国まで弾んでもおかしくないので、そこはもちろんコントロールが肝要である。

「堀川さん、今日の髪型いいね」

「ありがとう」

 堀川さんが机を避けて横を向いた時、彼女の体を眺めていた俺は驚いた。

 堀川さん、君はやけにおっぱいの発育がいいではないか。テニスボールが二個入ってるみたい、と考えながら見つめていたら急に堀川さんがこっちを向いたので、焦って視線を逸らし、そのせいで危うく首の筋を痛めそうになる。

「そういえば坂上くんって、テニスのことを忘れちゃったって聞いたけど本当なの?」

「残念ながら、本当」

 しかし今は君がいるからもう過去には拘らない、と言おうとしたが、その前に堀川さんに言葉を継がれてしまう。

「一カ月前の球技大会であんなに活躍してたのに、残念だね」

「応援してくれてたの?」

「うん。ウチのクラスで唯一決勝まで残ってた種目だったから、皆で応援してたよ。気づかなかった?」

「いや、多分忘れてるだけだ」

 俺は初めて記憶を失くしたことを残念に思った。女の子たちに応援されつつもそんなに活躍していたのか。そんな貴重な記憶を失くしていたとは自分のサービスゲームを40―0からの逆転でブレークされたよりもへこむ。

「ほら、あれ」堀川さんは黒板の上の賞状を指さす。「あれ見ても思い出せない?」

『第三回大原高校球技大会 男子テニス 優勝 坂上陣』

 おお、俺は優勝したのか。まあ西田先輩はもう卒業したからな。

「うーん……」

「坂上」

 必死に記憶を手繰っていると、教室の入口から誰かが呼んだ。見ると日野だった。

 何しに来やがった、こいつ。選手が必死のラリーを繰り広げている時に大声を上げる観客のように空気を読まない日野の行動に、怒り心頭に発しかける。

「なんだ?」

「今日は女子がピロティを使わないらしいから、ネット打ちをやろう」

「駄目だ。今は掃除中」

「もうほとんど終わったから、大丈夫だよ」

 堀川さんは優しく言う。

「しかし、堀川さん……」

「テニスの練習でしょ?頑張って」

 確かに掃除はほとんど終わっている。ここで堀川さんのエールを前にして教室にしがみつけば、アウトボールを避け損なってポイントを取られた時に匹敵するくらいみっともないだろう。俺に選択の余地はなかった。

「ごめん、じゃあ後を頼む」

「うん」

 俺は日野と連れだって教室を出た。そして、すぐに今日が掃除当番最後の日であることに気がつき、靴を履き替えながら必ずや日野に復讐することを固く胸に誓った。

「ネット打ちなら一人でもできるだろう。何故一人でやらない?」

 部室に着いても気持ちが教室から離れない。

「坂上のためだからさ。下手になったのに、ここのとこ雨で練習できないだろ」

「余計な御世話だ」

 そう言いながらも体操着に着替える。堀川さんにエールをもらったからには仕方ない。ボールが擦り切れて破裂するくらいまでネット打ちをしようじゃないか。意気込みながら日野を見ると、しっかりテニスウェアを着ている。

「お前、何でウェア持ってきてんの?」

「備えあれば憂いなし」

「人を憂鬱にしといて、『憂いなし』じゃねぇよ」

 体育館の下にあるピロティと呼ばれる空間のテニスコート側の端にはトイレがあり、その女子トイレの方の入口の横には野球のピッチング練習なんかに使うネットがある。そのネットに向かってテニスボールを打ちこみ続けるというのがネット打ちである。

「しかしネット打ちのことでさえ、実際にやってた時のことは思い出せん」

「以前の坂上はこの練習をただのフォーム確認用の練習だってバカにしてたけど、きっと今は満足にできないだろうね」

「嫌味な奴だな。大体、今の俺はとても正確にコースを狙える技量じゃないぞ。女子トイレにボールが入ったらどうする」

「問題ないよ。坂上はよく狙って女子トイレに入れて、喜んで取りに行ってたから」

 そんな阿呆なことあるわけないと思ったが、最近は自分の過去にやや信用を失いつつあるせいで何も言えなかった。

 日野が偉そうに手本を見せた後で、ラケットを握ってネットの正面に立つ。

「はい、スプリットステップ。テイクバック。振り抜いたら、また正面向いてステップ」

 苛立ちながらも、日野に言われるままに動いた。

「よし、そんな感じ。じゃあ、ボール投げるから、テンポよくいこう」

 日野がボールを投げる。ステップを踏んで、フレームショット、再び踏んで、フレームショット、踏んで、ネットの遥か上、ステップ、ネットの上枠。

「そんな思い切り打とうとするなよ」

「軽く打つのは性に合わん」

「それだけは覚えてるのか。よく見てスイートスポットに当ててコントロールするんだよ」

 仕方なしに日野の言う通りにすると、取りあえず五球連続でネットには当たった。

「そう、その調子」

 延々と打ち続けて、球がなくなったら拾って籠に戻す。それを何回繰り返したかも分からなくなってきた頃、どうにか少しはボールを打つことに慣れてきたことを実感できた。

「しかしコートに入る打球かどうか分からん。やはり過去の俺が言ったことは正しいな」

「無駄口叩かない。ほれ、ほれ」

 日野は次々ボールを投げてくる。ぼこん、ぼこん、ぼこん。大分フレームショットがなくなってきた。ぼこん、ぼこん、ぼこん。ピロティは打球音が反響するから打てているような錯覚がある。ぼこん、ぼこん、ぼこん。疲れてきたな。ぼこん、ぼこん、がきっ。

「集中、集中」

「コーチ、わたしもう駄目です」

 大げさに膝をついて俯く。

「何だよ、いきなり。気持ち悪いな」

 せっかく上がったチャンスボールを決めにいかないでそのままラリーを続けるように日野は俺のふざけた演技を無視した。

「お前ねぇ、ちょっとはノってくれてもいいだろ。俺がバカみたいじゃねぇか。木戸か大場ならノってくれたぞ」

「ふざけてないで、練習、練習」

「ちょっと待った。ホントに休ませて」

 給水機で水分補給をしてからピロティへ座りこむ。雨は一向に止む気配なく降り続いている。思わずため息がでた。

「何でこんな日にこいつと二人きりでネット打ちをしなきゃなんないんだ、とか思ってるだろ」

 日野が目ざとく俺のため息に反応した。こんなため息に反応するくらいなら、さっきの演技にちゃんと反応してほしい。

「本来なら、可愛い女の子と相合傘で帰途につくはずなのに、と思っているところだ」

「けど意外だよ。坂上はもっと躍起になってテニスを思い出そうとすると思った」

「躍起になってるさ」

「テニス、好きそうだったのにな」

「テニスは好きだ。だが可愛い女の子はもっと好きだ」

 今度は日野がため息をついた。

「それにな、練習すれば思い出せるってもんでもなさそうなんだよ」

 その言葉は何にも考えずにポッと口から出てきたが、不思議と後からその言葉にほとんど確信に近いものが湧いてくる。

「何で?」

「直感だ」

 納得いかなそうな顔をしている日野を尻目に立ち上がる。

「コーチ、わたし、頑張ります」

「ノらないよ」

「じゃあ、早くボール出せ」

 ピロティに再び打球音が響き始めた。


 〇


 球出しのゆっくりしたボールがやっと山なりの弾道でコートに返るようになったら、早くも練習試合だった。もう全く勝てる気がしない。プロテニスの大会にはワイルドカード、つまり主催者推薦枠というのがあったりする。有望な新人を無条件で本戦に出場させる制度だが、何かの手違いでプロの大会にワイルドカード出場してしまったアマチュア選手がいたら、きっとこんな気分だろう。

 当日、俺は鬱々とした気持ちで駐輪場から部室へ向かった。

「うぃーっす」

 部室の戸を開けると、すでに全員揃っている。めずらしく四元さんもやって来ていて、パイプ椅子に座っている。

「お、ちゃんと来よったか」

「予想が外れたな」

 我門はにやけている。

「誰だ?俺が逃げ出すなんて予想した奴は?」

「私」

 四元さんの挙手に意表を突かれる。

「そりゃあ無いぜ、四元さん。俺がそんな腰ぬけに見えるかい?」

「見えたから、予想したんじゃん?」

「大場は黙ってろ。とにかくそんな臆病者じゃあないよ、俺は」

「そう。じゃあ、試合を観戦させてもらお」

「いや、有り難いんだけど今日の応援はいいよ。部室で涼んでいてくれたまえ」

 恐らく今日の試合内容たるや惨憺たるものであろうことは容易に想像がつく。

「そんなこと言っても、私は試合の記録つけなくちゃならないし」

「そっか。じゃあ記録はつけても、俺の試合は見なくていいよ。気にもとめなくていい」

「やたらに冷たいじゃないか。いつもは、しつこく見てくれるように頼んでいるのに」

「我門も黙ってろ」

「そろそろ、コートにイスを出した方がいいよ」

 日野が促す。

「そだな。とにかく君にカッコ悪いとこ見せたくないんだ。分かってくれよ、唯奈ちゃん」

「下の名前で呼ばないで。気持ち悪い」

 世界最高のリターナーと呼ばれたアンドレ・アガシのリターンはかくやと思われる鋭い返答である。彼のリターンも数多のファンを魅了したが、四元さんの冷たいあしらいも非常に魅力的だ。

 俺は満足してコートへと向かった。

「ぬわっ」

 コート入口の扉を開けると思わずうめき声が出る。日差しの強い今日、ハードコートは照り返しのせいで立っているのも辛いほどの体感温度だ。コートの奥側のベースラインが微かに揺らいで見える。

「あっちーなー」

「それにしても相変わらず、陣の阿呆さ加減には敵わんわ」

「そうか?お前ほどじゃないとは自覚しているけど」

「いやいや、俺なんてまだまだや。お前、一度女子としゃべっとるとこ録音してみ。阿呆のええ見本やで」

「どこが?至って普通の会話というラリーだろうが」

「実際のところ、お前は会話のラリーも強打し過ぎなんだよ」

 我門が入ってきた。

「せや、せや。それも全部アンフォーストエラーになっとるしな」

「黙れ、阿呆どもが」

 木戸と我門がげらげらと笑い出す。

「まあ、そう塞ぐな。運のいいことに、今日は一人一試合だそうだぞ」

「お出ましみたいやで」

 木戸がコートの外のピロティの方を指さした。

 遠磯高校のテニス部員が五人、顧問の先生に引率されて上杉先生に挨拶している。五人の中には一人、ここからでも分かるほど色黒な肌の男がいた。

 ああ、確かあれが北上だ。

 コートに並んで団体戦メンバーの発表が済むと案の定、北上が話しかけてきた。むろん少しも嬉しくない。

「どういうことだ?何で坂上がシングル1じゃないんだ?」

「スランプだ」

 説明するのが面倒くさい。

「嘘つけ」

「嘘じゃない」

「手抜きオーダーか?そうなんだな?」

 なんと面倒くさい奴。こいつのテニスへの情熱のせいで急に汗が出てきた気がする。

「記憶喪失だ」

「は?」

「テニスのことだけ忘れちまったんだよ。詳しいことは日野と試合やった時に聞いてくれ」

 コート三面を使って、一挙にシングル1、2、さらにダブルス1が始まった。リザーブの俺はシングルス2のベンチコーチに入ることにした。しかし、ベンチコーチがいるのに判定がセルフジャッジとは雰囲気があるのか無いのか分からない。まあ、審判をやらなくていいのは助かるが。

 オムニコートに入り、どっかりとイスに腰を下ろす。

「どうだ?勝てそうか?」

「さあな。俺は勝敗にはこだわらん」

 我門は俺の貸した300Gをくるくると弄んでいる。

「団体戦のシングル2だぞ。少しはこだわれ」

「知らん」

 遠磯高校のシングル2が来た。トスアップでサーブとレシーブそしてコートを決めると、二人はサーブの練習に入る。その試合前の一連の流れは、自分でやった記憶の無いことが不思議なくらい馴染み深い。我門と相手が片サイド二本ずつ、計四本のサーブを打ち終えると、すぐに試合が始まった。

 俺はテニスの記憶を失くすと同時にテニス部仲間のプレースタイルも忘れていた。テレビで見ていたプロ選手のプレーは思い出せるのに、実際に打っていた相手のプレーはきれいさっぱり忘れているから妙である。しかし、そんな俺でも1ゲーム観戦しただけで我門のプレースタイルが分かった。

「お前、プレー、雑」

「何言ってんだ、今更」

 チェンジコートのためにベンチへ来た我門は平気な顔をして言う。

「いや、記憶を失くして改めて見るとだな、スタイルとして完成してないくらい雑だぞ」

「それが俺のスタイルだ」

 我門はとにかく叩いた。あいつはボールが軟式のゴムボールに見えているんじゃないだろうか、と疑うような厚い当たりのフルスイングである。コートに入ろうが、隣の大原小学校に入ろうがお構いなしといった感じだが存外返球率は悪くなく、高い防球ネットを超える様な的外れなショットはない。

 ラリーは続いても二往復がやっとだったので、試合はさくさく進んだ。我門のリターンがアウトすると、ゲームカウント3―6でゲームセットになった。

「いやあ、疲れた、疲れた」

「何満足そうにしてんだよ。負けてんじゃねぇか」

「ああ、そうだな」

 コートを出ると、ダブルスの試合も終わっているようで、木戸と大場がピロティと地面との段差に腰かけて悠々と麦茶を飲んでいる。

「どうだった、我門?」

「3―6で完敗」

 我門は気楽に言うと、四元さんの方へ結果を伝えに行った。

「それで、我門の相手は強かったん?」

「まあ、今の俺よりは強いな。それにしても些かも慎重さのないプレーだな、あいつは」

「我門は最初からそうじゃん。元々試合も好きじゃないし。五人いないと団体の登録できないから陣が無理矢理引っ張りこんだんだし」

「そうだっけ?」そういえばそんな気もしなくない。「それで、お前らはどうだったんだよ?」

「6―2で勝ちや」

「遠磯のダブルスは去年の三年生のペアの方が強かった」

「それじゃ、日野の結果次第か」ハードコートでは、まだシングルス1の試合が続いている。「上から見るか?」

「せやな」

 テニスコート側にも二階の体育館に行くための階段があるので俺たちはそこを上がり、体育館横の通路まで行く。そこからだと、いい具合にコートが見下ろせるのだ。

 日野のプレースタイルも我門と同じように少し見ていれば分かるくらい特徴的だ。北上のボールをひたすら拾って繋いでいる。

「相変わらず、ごっつシコっとるなぁ」

「その『シコる』って、誰が使い始めたんだろうな」

 テニスで繋ぐことを俗にシコると言うが、あまりといえば露骨に繋ぐことを見下していないだろうか。繋ぐのも立派な戦術だろう。というより、それすらできない今の俺がとても情けなく見えるじゃないか。

「さあ。明らかに他意を感じるけど。それにしても日野は典型的なシコラーだよな」

「陣は、ようバカにしとったやないか。シコるのはAV見てる時だけにしろや、て」

「記憶にないな」

 あいつ、この前のネット打ちはそれの報復か。

「でも、実際日野は実力あるよ。何だかんだフットワークはいいし、ミスは少ないし。シングルじゃあ俺も木戸も勝てそうにないよな」

 大場は感心している。

「ま、あいつに平気で勝っとったのは陣くらいや」

 ほほう、俺はそんなに強かったのか。

「ちゅうわけで、リザーブ戦、楽しみしとるで。相手を木っ端微塵にしてくれるんやろな」

「うるさい」

 北上が浅い球をクロスに叩き込んで決めると、日野は握手をしにネットへ歩き出した。どうやら試合が終わったらしい。階段を下りてコートから出てきた日野に聞くと、4―6で負けた、と言った。

 これで団体戦形式の練習試合は1―2で大原高校の負けだ。俺に感想があるとすれば、それは一つである。

 もうリザーブ戦はやらなくていいだろ。

 団体戦終了の挨拶が済むと、俺は一人コートに取り残された。サーブを当てられるために立っているコーンとはこんな気持ちだろうか。すぐに遠磯のリザーブがコートに入って来た。遠磯の生徒はもちろん、大原の奴らも体育館横の通路へ上がり、こっちを見ている。なんと四元さんまで。何でリザーブ戦が一番の注目を集めなければならないのだ。

「フィッチ?」

「スムース」

 俺がそう答えて、相手が回したラケットはRDX300だ。そんなことは分からなくてもいいから、せめてサーブの打ち方を思い出したい。カランと音を立てて倒れたラケットを拾いあげてグリップヘッドを確認すると、スムースである。

 サーブを選んだ。相手がコートを決めてからサーブ練習を始める。

 練習だからと思い切りサーブを打つと、ノーバウンドで相手の後ろのフェンスに当たった。我ながら弁護の余地もない下手くそぶりである。しかし構わず思い切り打ち続けて一球もコートに入れることなくサーブ練習を終える。相手の練習サーブに対するリターンもまた一球もコートに返らない。にやにやとしていそうなので、ギャラリーの方は一度も見ずにボールを受け取り、やけくそ気味に声を張った。

「ザ・ベスト・オブ・1セットマッチ、サービスプレイ。お願いしまーす」

 サーブ練習は余興に過ぎない。見よ、これが今の俺の本当のサーブだ。

 しっかりと地に足をつけたまま、低いトスを上げてごく軽くボールを打つと、ぽわん、と山なりの非常にゆっくりしたサーブが飛ぶ。

 ああ、何と可愛らしいサーブだろうか。もし俺が女の子だったら、きっとこのサーブを叩くなどという非道なことは到底できまい。それどころか相手がこの可愛さに悶え苦しんで棄権しても全くおかしくない。もう、いっそのこと女として生きていこうかしら、おほほ、などと現実から目を背けていると見事に鋭角なリターンが飛んできた。

 全く動けなかった。

 試合は淡々と進んだ。気がつくと5―0で相手のサービス・フォー・ザ・マッチである。まるで録画放送で途中が飛んだみたいにあっという間だ。

 くそっ。コートにも返らんとはどういうことだ。

 相手のサーブが飛んできた。ボール自体はたいして早くない。落ち着け。よく見て……

 ぱこん。

 スイートスポットで捉えると、ボールは山なりの軌道で相手のコートへ返る。

 よし、と思ったのも束の間、相手に逆クロスへ決め球を打ち込まれ試合は終わった。

 試合後の合同練習を終えて遠磯生たちが引き揚げ、部室に戻った俺たちはすぐには帰らずにだらだらとしていた。室内には練習試合に負けた気配など微塵もなく、いつも通りの雰囲気が漂っている。しかし俺はへこんでいた。懸命に水玉模様を思い浮かべても容易に立ち直れないので、姉さんに申し訳ない。

「にしても北上の奴、『早く記憶取り戻して俺と勝負しろ』やて。あいつ、ホンマに高校テニス青春物語を地で行っとるわ」

「暑苦しいんだよな。夏場は特に近寄りがたい」

「ダブルスの奴らが恥ずかしそうにしてたし」

「別にいいじゃん。一生懸命テニスに打ち込んでいるんでしょ?」

 木戸、我門、大場、四元さんが談笑している中、俺と日野だけが黙々と着替えていた。

「だけど、日野、やるじゃないか。あの北上相手に4ゲーム取ったとは」

「でも負けたし」

「落ち込むこっちゃない。陣よりはな」

 全員が揃って俺の方を見る。

「まあ、気持ちは分かりにくいけど、元気出せや」

「今の陣は初心者同然だからな」

「人生で二度目の初試合だもんな」

 木戸、大場、我門の三人組が気を遣ってくるので余計惨めになる。わざとか、こいつら。

「四元さんは?」

「えっ?」

「俺に何か慰めの言葉はないの?いや、言葉じゃなくてもいい、慰めのチューとか、膝枕とか、その胸に顔を埋めさせくれるとか……」

 見る見る四元マネの目が細くなっていき、最後には出しっ放しで風雨に打たれ、汚く色褪せたテニスボールを見る様な目つきになった。

「坂上くんは一生負け続けても平気そうで、安心した」四元さんはイスから立ち上がって部室のドアを開け、「じゃあ、私バイトあるから帰る」と言うと、そのまま速足に去っていった。

「本日最大のアンフォーストエラーやな」

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