第1話 最期の日常


 「光夜。なーに読んでるの?」


朝早く生徒の姿も殆どない学校で、自分の席に座り一人小説を読んでいた俺は、突然自分の後ろから掛けられた声に手元の小説から意識を逸らした。


 「桜か。おはよう」


後ろを振り向くとそこには一人の少女が立っていた。

少女は俺と同じ如月高校に通う2年生でクラスメイトの桃木桜だった。


桜とはいわゆる幼馴染で、光夜がまだ小学生の頃に黒峰家の隣にあった空き家に桃木家が引っ越して来て以来、小中高と同じ学校に通っている。

彼女は明るく活発な性格で人に対し分け隔てなく接することが出来るタイプだ。

腰まで伸びる栗色の長い髪を後ろで一つに縛っていて、少しつり目気味の勝ち気な瞳と彼女のコンプレックスでもある身長の低さから活発な子猫の様な印象を受ける。

もっとも、それを本人に直接言うとバカにするなと怒られるが……。


 「ん。よろしい。で、なに読んでんのさ?」


桜は俺の挨拶に満足したのか、ほとんど無いと言っても過言ではないその胸をえっへんと大げさに張ってみせた。


 「これだよ」


俺は持っていた小説に栞を挟み、表紙が見えるようにして桜に見せた。


 「『人類獣躙』? あれ?これ前にも読んでなかったっけ?」


本のタイトルを見るため顔を寄せてきた桜が、さらりとその視界を遮った前髪を鬱陶しそうに指で自分の耳へと掻き上げる。

近くで見ると、部活の朝練から直接来たのであろう桜の顔や首筋が僅かに汗ばんでいるのが分かる。

その本人の見た目とは正反対の女性らしい仕草と、汗と桜本来の甘い香りが混ざった甘酸っぱい匂いに不覚にもドキドキしてしまう。


 「この本の作者『宵ノ時雨』さんの新作が近々出るんだよ。だから、今の内に読み直そうと思って」


俺は小説が特段好きな訳ではない。

漫画やゲームの方が断然好きだが、学校に漫画やゲームを持ち込む訳にもいかず、よく小説を持ち込んで休み時間に読んでいる。

小説であれば注意される事も無いし、むしろ教師から褒められる事すらある。


そんな小説の中でもこの宵ノ時雨著の人類獣躙はお気に入りだった。

その内容は、『地球上の生物が突然変異で凶暴な怪物と化した世界で主人公が仲間と共に生き抜く』とよくある話だったが、空想の話とは思えないほどのリアリティーがこの作品にはあった。

万が一このような非常事態が現実で起こったとしても、この小説の内容を知っていれば対処できるのではと思うほどだ。

 

 「へぇー。よく知らないけど光夜のお気に入りなんだ?ちょっと気になるかも……。今度貸して」

 「読み終わったらな。なんだったら今度出る新作も貸してやるよ」

 「ほんと!さっすが光夜気が利くじゃない!」


タダで本が読めるとなったからか桜は随分と機嫌が良さそうにしている。


 「あっ! でも、うーん……」

 「どうした?」

 「やっぱ今読んでるやつだけでいいや。新しい方は自分で買う」

 「あー。もしかして、大会が近いからか?」


桜は現在バトミントン部に所属しており、近々全国大会がある。わざわざ朝早くに登校しているのも、部活の朝練があるからだ。

身長の小さい桜がバトミントンなんて無理じゃないかと最初は思ったが、持ち前のズバ抜けた運動神経で部のエースとして活躍している。


 「まあ、それもあるんだけど……」


桜がニヤニヤとからかう様な表情を見せる。明らかに良からぬことを企んでいる顔だ。


 「……なんだよ」

 「光夜が楽しみにしてるその本を先に読んでネタバレしちゃおうかなーなんて」


とんでもない事を言い出した。

人が楽しみにしてる小説の内容をネタバレするなど、普通に怒る。

小説に限った話ではないが、先の展開が気になるからワクワクするのであって結末を知ってしまってはそれが無くなる。台無しだ。

しかし、桜に本の内容をネタバレされるなんて事は起こりえないだろう。俺は桜がどんな少女なのかをよく知ってる。


 「読書が苦手な桜が、俺より先に読めたらな」

 「べ、別に苦手な訳じゃないし! ただ、ちょっと読んでたらついつい眠くなっちゃうだけで……」


そう。桜は小説……というより文章全般が苦手なのだ。理由は眠くなるから。

体を動かすのが大好きで、いつも何かと走り回っているイメージのある桜にとって黙って本を読むなんて退屈なのだろう。

授業中ですら教科書を開きながら、うとうとしていて教師によく怒られていた。


 「ところで、なんで光夜がこんな早くから学校にきてるのさ?」


桜がむすっとした表情で聞いてくる。俺に小馬鹿にされたのが悔しくて話題を変えたのだろう。


 「あ。そうだ、忘れるところだった。ほら、これ」


俺は鞄から弁当箱を取り出して桜に渡す。

俺がこんな朝早くから学校に来たのはなにも暇だったからではない。

朝俺が朝食を食べていたところに桜の母が訪ねて来て、忘れ物を届けて欲しいと頼まれたのだ。


 「え?わざわざ届けてくれたの?言ってくれれば取りに戻ったのに。」

 「それだとお前遅刻するだろうが……」


俺と桜の家は学校からあまり近くはない。通学もバスを利用している為一度家に戻っていたらHRに間に合わない。


 「あー。そっか。わざわざごめんね」

 「気にすんな」


桜に忘れ物を届けるのは今回が初めてでは無い。

以前にも何度か忘れ物をしたことがあり、その度に家が隣で同じ学校に通う俺が届けるのが恒例になっていた。


 「でも、こんな早くこなくても良かったんじゃない?蛍ちゃんだって置いてきぼりでしょ?」

 「た、たまには早く来ててもいいだろ?」


黒峰蛍は来年中学生になる俺の妹で、いつもは俺と蛍と桜の三人で登校するのが日課である。

そんな蛍は俺の大切な妹であり、現状唯一の家族だ。

両親は桜が引っ越してくるより前に突然居なくなった。消息不明で、生きているのか死んでいるのかさえ分からない。


先日、俺はその大切な妹と些細な事で喧嘩をした。

気まずい空気の中に舞い降りたお届け物クエストをこれ幸いと受注し、一目散に家を飛び出して来たのだ。


 「ちょうど読みたい本もあったし、お前も弁当が無いと困るだろうと……」


妹と喧嘩して居心地が悪いから逃げてきたなど、そんな恰好悪い話を知られる訳にはいかないので誤魔化す。


 「弁当は朝からいらないし……。もしかして、また蛍ちゃんと喧嘩したの?」

 「ぐっ……!」


しかし、桜はあっさりと見抜いてみせた。幼馴染は伊達じゃない。


 「やっぱりね。どうせ光夜が悪いんでしょ? 早く仲直りしなよー」

 「わかってるよ」


蛍は俺よりしっかりしていて頭も良い自慢の妹だ。

喧嘩した時はついつい熱くなってしまったが、冷静に考えれば悪いのが自分だとすぐにわかった。

素直に謝れないのは仮にも兄としての立場があるからだろうか?


 「帰ったら謝る」

 「うん。それがいいよ」


桜が笑顔で答える。俺の事をよくからかってはいるが、根は優しい少女なのだ。




ガララッガタン!バサァァ。


 「きゃっ!」


そんな他愛ない話をしていると、突如何かが散らばる音と少女の悲鳴が聞こえた。

音の方を見ると、一人の少女が教室の入り口で座り込んでいる。

足元には少女が落としたのか、大きな段ボールと中に入っていたのだろう教科書や紙が散乱していた。


 「緑野さん。大丈夫?」

 「あ、黒峰くん……。大丈夫。ちょっと躓いちゃって」


トレードマークである緑色のメガネをかけ、胸元まで伸びた黒髪を肩の辺りから左右で縛っている言わばおさげヘアの少女は、クラスメイトの緑野翠だ。……ちなみに、胸はでかい。

翠は内気で大人しい性格をしており、あまり人と話すのが得意な人間ではない。特に男子とは普段から距離を置いているようだが、何故か俺にはよく話しかけてくれる。


 「手伝うよ」


翠の近くに座り、散らばった荷物を拾い集める。


 「あ、ありがとう……。黒峰くん」

 「随分と量が多いね。翠ちゃんひとりに持たせるかなぁ……普通」


後から来た桜が落ちていたプリントの束を持ち上げて言う。


 「ほんとにな。誰に持たされたんだ? コーモリか?」

 「ううん。静香先生。小森先生は急遽来れなくなって、今日は静香先生が授業するって……」

 「静香ちゃんか……。あの人、普段はいい人なんだけど焦ると途端にポンコツになるからなぁ」

 「教師に対してポンコツはどうかと思うけど、否定出来ないのが悲しいわね……」


うちのクラスの担任は小森聡と言う男性教師で、いつも具合悪そうな顔で暗いオーラを放っている為、生徒からはコウモリだなんてあだ名で呼ばれている。

副担任の町谷静香先生は小森先生とは対照的な明るく優しい女性教師で、小森先生の居ない時は代わりに授業を受け持っている。

ただ、教師になって日が浅い為か今日のように突然仕事を任されると、わたわたと焦って凄まじいポンコツっぷりを発揮してしまう。


 「これで全部かな」


荷物をすべて段ボールに詰め、教卓へと乗せる。


 「ありがとう黒峰くん。桜ちゃんも」

 「気にしない気にしない。翠と私の仲じゃん」


桜がそんな事を言いながら、翠に抱き着く。

翠の豊満な胸が押しつぶされ、その柔らかさが見ているだけで伝わってくる。翠のちょっと困ったような表情も合わさり、凄まじい破壊力と化していた。

ちなみに、桜の胸には一切の変化はない。完全に一方的に押しつぶしている。


  おぉ……。


それしか言葉が浮かばなかった。人は真に素晴らしい光景を目の当たりにした時、賞賛の言葉すら浮かばないものなのだと今わかった。もっとも、言葉が浮かんだところで口には出さないが。


 「と、ところで、黒峰くんがどうしてこんな時間に?」

 「いや、それは……」

 「聞いてよー。実は光夜ったらね」

 「あ! お前、ばか!」

 「うぃーっす。……って、なんだこの状況?」


桜が俺の痴態を翠にバラそうとしてると、一人の少年が教室に入ってきた。

一同の視線が少年に集中する。

自然の色ではない染められた金髪を整髪料でツンツンに立てていて、その目つきの悪さから如何にも不良といった印象を受ける少年は俺の親友である青葉竜胆だ。


 「うぃっす」

 「あ。おはよー竜胆」

 「お、おはよう御座い……ます……青葉君」


翠は竜胆が少し怖いようで、挨拶がややぎこちない。


 「光夜が居るなんて珍しいな」

 「人を不登校みたいに言うなよな……」

 「はは。悪い悪い。それより、すごい話があんだよ!」


竜胆がやたら興奮した面持ちで話してくる。

翠がびっくりして俺の後ろに隠れてしまう。……なにそれ。普通に可愛い。


竜胆は不良じみた外見とは裏腹に、とても気の良い好青年だ。

頭も良く学年上位成績を誇る為か、頭髪に関しても教師から2、3度注意されただけで厳しくは言われていない。

以前はあまり接点がなかったが、話してみると気が合い今では親友とまで呼べる仲である。


 「なんだ? 聞かせてくれ。今すぐに」


翠には悪いが、俺の痴態を桜に話される前に急いで話題を逸らさなければならなかった。


 「まあ、慌てんなって」


状況を知らない竜胆は俺の態度に勘違いしたのか、自慢げな表情で話し始めた。


 「大規模失踪事件は知ってるよな?」

 「あ。わ、私聞いたことがあります……。突然大勢の人が居なくなるって話ですよね……?」


とりあえず、翠の関心が竜胆の話に移った事に内心安堵する。


竜胆の言う大規模失踪事件は俺も知っていた。

日本のあらゆる場所で人間が突如として消えると言うものだ。

詳しい原因はわかっておらず、怪しげな宗教によるものだとか宇宙人による誘拐だとか色々言われている。大手企業のビルに在籍する何十人という人間が一度に消えた例もあるそうで、両親が失踪している俺にとってはあまり気分の良い話ではない。


ふと、桜が複雑そうな顔でこちらを見ているのに気づく。

その表情の意味はすぐにわかった。俺の事情を知っている桜は、俺がこの話題を話すことを心配してくれているのだ。

俺が両親の事で嫌な思いをしないかと……。


 「ああ。知ってるぜ。この間なんかどこぞの高校でも起こったんだろ?」


桜に心配を掛けないように、なるべく明るい口調で言う。


 「それがどうかしたの?」


俺の態度を見て気にしない事に決めたのか、桜も話に加わる。


 「なんと、その失踪事件が起きた高校から転校生がくるって話だ。」

 「はぁ? 全員失踪したって話じゃなかったか?」

 「いや。未成年だとかマスコミ対策だとかで公表されなかったそうだが、1人だけ残った奴がいるらしい」

 「まじでか」

 「マジでだ。親父から直接聞いた」


 竜胆の父親は警察官だから、その父親から聞いたのであれば本当の話なのだろう。


 「それは、確かに凄いな……。その転校生は、いつ来るんだ?」

 「ん? それは―――」





 ――キイィィィィィィィィィィン


 

突如凄まじい耳鳴りが俺を襲った。

いや。俺だけじゃない。

桜や翠に竜胆、それに僅かながら教室に来ていた他のクラスメイトまで、その場にいた全員が俺と同じく苦悶の表情で耳を抑えてうずくまっている。


 「な、なんだ⁉ これ⁉」

 「耳が……痛い……頭が割れる……!」

 「がっ……あぁ!」


まるで、警告音のようにも聞こえるその音は、一向に止む気配が無い。

それどころか、次第に強くなっているようだ。


「……ッ。桜 ……大丈夫か⁉」

「……こう……や……」


桜は意識が朦朧としていて危険な状態であるのが見て取れた。


「ごめん……こう……や。もう……」


桜の身体から力が抜け、床に崩れ落ちる。音に耐えきれず気を失ってしまったのだ。


「くそっ!……緑野さん……竜胆! 桜が!」


返事はなかった。

翠と竜胆の意識は既に無く、その身体は桜と同じように力なく床に横たわっていた。

3人だけではない。

気付けば辛うじて意識を保っているのは、既に俺だけだった。


そして――俺にも限界が来た。

意識は朦朧とし、体には力が入らなくて起き上がることすら出来ない。




意識を失う間際、少しだけ見えた空は血のような赤色に染まっていた――。

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