役割

 北嶋さんが鏡を取りに向かってから、2日目。

 昨日大蛇に恐れて怯んだ私と桐生さんを、義父が泊まっている部屋に呼んだ。

「なんですか?」

「私に何か御用でも…」

 この組み合わせで呼ばれるのは、何となく理解した。

 義父は熱いお茶を私達に差し出し、自分も一口飲んで話を切り出した。

「うん、神崎さんに憑いている本体と、屋敷に蜷局を巻いている大蛇だが、九尾狐やフェンリル狼は、やはり流石とは言っても寝ずの番は厳しい筈だ。たまに君達に交代をして休んで貰おうと思ってね」

 やはりか。

 いくら獣の王と謳われている、あの二匹とは言え、7日も寝ずの番、しかも暴れ出したら身体を張って止めるのだ。

 保つ筈は無い。

 だけど…

「私達に務まるかどうか…」

「私もそう思っていました」

 消極的な私とは対象に、桐生さんが目を輝かせて同意した。

「漸く役に立てる時が来たんだわ」

 不安など微塵も感じていない様子だった。北嶋さんの役に立つ事が目標らしいから、当然と言えば当然だ。それは私もそうだけども…

「うん、桐生さんは表の大蛇をお願いできるかな?可憐は神崎さんに憑いている本体からの飛び火を頼むよ」

「そうですね。術や技の性質上、その方がいいですね」

 一も二も無く桐生さんが同意した。

「どういう事ですか?」

 術や技の性質上とは、いまいち意味が解らない。

「剣で斬り捨てるは直接攻撃です。表の大蛇に直接攻撃すれば、尚美に憑いている本体が暴れてしまいます。そうなれば尚美が危険です。本体から湧き出してくる蛇には攻撃しても差し支えない事から、宝条さんは本体の方が適任と言う訳です」

 成程と思った。

 フェンリル狼がうっかり大蛇に傷を負わせた瞬間、本体の蛇が暴れて部屋を黒い蛇で埋め尽くしたのは、松尾先生から屋敷にいる人全てに伝わったので、みんな理解した。

 それでも、適材適所を配置した義父、それに素直に反応した桐生さんはやはり流石と言った所だ。

 問題は…

「私に蛇を斬り倒す事ができるのかな…」

 俯きながら呟く。

 私は、あの赤い目に恐怖を覚えてしまったのだから。

「勿論。寧ろ宝条さんが一番適役だと思いますよ」

 桐生さんが私の手を取り、そっと握り締める。

 その瞳には、全く迷いが無い。それが一番だと確信している光が宿っていた。

「しかし私は…」

 口を開くのを止めるよう、義父が続けた。

「流石桐生さん。良く理解していますね」

 義父が何度も頷いている。私が一番適役なのは、気休めや励ましでは無いようだ。

 だけど、何故私が?

 考えている私に、義父は十拳剣を指差す。

「答えはそれだよ可憐」

 十拳剣が答え…それを聞いて閃いた様に思い出す。

「成程…確かに私が適役ですね!」

 十拳剣を扱える事が答え。私が蛇を倒すのに一番適役だったのだ。

 桐生さんは何回も頷く。

「表は私に任せて貰えれば、何の心配も無いです。私達は勝たなくても構わないんですから。気楽な仕事ですね宝条さん」

 そう!それもそうだ!

 私達は勝たなくても構わない!

「本当に!楽な仕事ですね桐生さん!」

 私は桐生さんに握られた手を、固く握り返して笑った。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 早速外に出て、屋敷に蜷局を巻く蛇の周りに10数箇所の細工をしに回った。

「桐生さん、こんにちは」

 背後からソフィアさんが話し掛けてきた。

 振り向き、挨拶を返す。

「こんにちはソフィアさん……!!」

 ソフィアさんの顔を見て驚く。たった一晩で疲弊しきって、別人のような顏になっていた。

「寝ていないんでしょ!?身体に悪いですよ!!」

 背中をグイグイ押し、庭に置いているワンボックスカーに無理やり押し込む。

「ち、ちょっと桐生さん」

 寝ていなくて疲れきっているソフィアさんは抵抗するも、今は私の方が力が強い。難なくワンボックスカーに押し込む事に成功する。

「確かにグレイプニルはソフィアさんにしか作れないし、掛けられないけど、それ以外なら休んだりして構わないんですからね」

 ソフィアさんは弱々しく笑う。

「無理言ってワンボックスカーまでお借り出来たんですから…多少寝なくても…」

 ワンボックスカーに備え付けていた小さなテーブルをバンと叩いた。

 ソフィアさんは驚いて私を見た。

「大体私は車で寝泊まりする事も反対したんですからね!!」

 そうなのだ。ソフィアさんがグレイプニル制作の為のラボ兼休む為にと、屋敷の誰かにワンボックスカーを手配したのを知った私は、それに猛反対したのだ。

 ラボは物置とか色々あるし、休むならちゃんとお布団に入った寝た方がいいと。

 しかし後の祭り。

 私が知った時には、既にソフィアさんはワンボックスカーでグレイプニルを作っている最中だったのだ。

「大蛇の様子を見る為には、やはり姿を確認できる場所が好ましいので…」

 困ったように笑うソフィアさん。

 フェンリル狼も大蛇から目を離さずに、私達の話に、耳をピクピクさせて聞いていた。

「あーっもう!あなたも休んでないでしょ!?こっちに来なさい!!」

 フェンリル狼に近付き、その立派な首輪を掴み、ワンボックスカーに引き摺るように連れて来る。

──何をする人間!!貴様等の安全を考えて…

 その巨躯で踏ん張り、ビクともしないフェンリル狼。

「うるさい!!あなたもソフィアさんと一緒に私の話を聞きなさい!!」

 私の一喝に、フェンリル狼は怪訝な顔をしながらもワンボックスカーに渋々と歩いた。

 ソフィアさんとフェンリル狼を見ながら、腰に手を当てて右手の親指を自分に向ける。

「お昼は私が蛇を押さえるから、ちゃんと休んで。もし暴れ出したらソフィアさんに連絡するから」

 キョトンとするソフィアさん。

 前に出て来るフェンリル狼。

──貴様が押さえる?出来る訳ないだろう

『引っ込んでいろ』と態度を露わにするフェンリル狼。

「要はグレイプニルを嵌めるまで動きを封じればいいんでしょ?グレイプニルは私に扱えないけど、押さえる事はできる。夜はあなたが見張っていれば、負担は軽減するでしょう?」

「暴れ出したら桐生さんが押え、その隙に私がグレイプニルを嵌める…と?」

 不安いっぱいなソフィアさんだが、私は自信満々だった。

「よく聞いて。私達は倒す必要は無いんです。北嶋さん達が帰ってくる間、それまで押さえ込めばいいんですよ。楽な仕事です。勝つ必要がないんですから」

 巨大な敵とて、倒す必要が無いのならばリラックスして望める。

 私達はただ、鏡の到着を、最強の霊能者を待てばいい。

──それはその通りだが、貴様が押さえ込める事とは別問題だろう?

 フェンリル狼が言う事もごもっとも。私の力を知らないのだから当然だ。

「あなたの不安を解消してあげるわ。今度大蛇が暴れ出したら、私が押えてみせる。それなら納得できるでしょう?」

 素直に自分の力を見せる事で納得を得ようと言うのだ。

──…よかろう。その時は、この目でしかと見せて貰おうか

 鼻をフンと鳴らすフェンリル狼。大蛇を押える事ができないと思って笑っているのだろう。

「そうね。是非見て頂戴」

 逆に余裕の表情を作り、ワンボックスカーの助手席に乗りって文庫本を開いた。

「あ、あの、桐生さん?」

「だから、私が見張っているから、少し休んでくださいって」

「え?え、ええ…」

 ソフィアさんは多少混乱していながらも、目を閉じる。途端に軽い寝息が聞こえた。

「あんな化け物を相手に寝ずの番をしていたんだから、疲れちゃっていたんだわ」

 そしてフェンリル狼にも同じように促した。

「さぁ。あなたも少し休みなさい。大丈夫!大蛇が暴れ出したら、起こしてあげるから。私の力を見るんでしょ?」

──俺はまだ休息は必要ではない

 私の言葉を無視して、フェンリル狼は再び大蛇を監視すべく、正面に歩いていった。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 その日の夜、再び神崎さんが苦しみ出した。呼応して身体から黒い蛇が湧き出す。

──女!!去ね!!

 昼間から神崎さんの容態を見ていた私に、九尾狐が部屋から出るよう促した。

「あなたこそ退きなさい。疲労困憊で守りきれませんでしたじゃ済まないんだから」

 そう言って十拳剣を抜く。

──昼間言ったアレか?日中は貴様が、夜は妾が相手をすると言う?

 そう。私は昼間に九尾狐に打診したのだ。日中は私が飛び火の相手をすると。

 九尾狐は、実力の解らない者の手助けは受けないと首を縦には振らなかったが。

「だから私が今あなたに見せてあげる。私が飛び火を滅する事ができると言う事を」

──妾は勇と…!!

 私は九尾狐の発する言葉を聞かずに前に出た。

 実際見て貰った方が解り易いだろう。

 神崎さんから湧き出して来る黒い蛇の群に、十拳剣を振るった。

 一振りする毎に黒い蛇が滅する。

──なんと…直接斬らずとも滅する事が出来るとは!!

 そう。十拳剣の神気で黒い蛇は触れずとも斬れるのだ。

「とは言っても、蛇…それも、この呪いじゃあ飛び火程度が精一杯だけど」

 何度も十拳剣を振った。

 黒い蛇は湧き出して来る刹那から滅されて行く。

──確かに大した神気だが…

 こうも容易く滅する事が可能とは思っても見なかったようだ。

 十拳剣を振りながら答える。

「十拳剣は別名天之尾羽張あまのおはばり。蛇王、ヤマタノオロチを斬った剣!!」

 天之尾羽張は日本神話において、国生みの神イザナギが手にした剣。古語で『鋭利な剣』という意味だ。

 柄の長さが十握り分あった事から、十束剣とも呼ばれる。

 イザナギの妻イザナミは、数々の神々を生んだ。

 しかし火の神カグツチを生んだ時に大火傷を負い、それが原因で死んでしまう。

 怒ったイザナギは、この剣でカグツチを切り倒してしまう。

 イザナギの次に、この神剣を手にしたのはスサノオと言う神である。

 スサノオはこの剣を使い、不死再生の蛇王、ヤマタノオロチを倒した。

 天之尾羽張…十拳剣は、言わば神殺し、蛇殺しの剣…

「いくら強力な呪いでも、蛇ならば飛び火程度なら滅する事は造作ないって事よ!!」

 次々と現れる黒い蛇を薙ぎ倒す。

 触れずとも滅されていく飛び火を、九尾狐はじっと見る。

──ふん…貴様の力では無いにせよ、これならば多少任せてやっても良いか。勇も文句は言わぬだろう

 九尾狐が口を開いた頃には、黒い蛇の群は全て消え去っていた。

 息を整え、私は言った。

「北嶋さんには私から言っておく。私達の仕事は勝つ事、倒す事じゃない。北嶋さんが戻るまで神崎さんを、屋敷のみんなを守ればいい。ただそれだけよ」

 十拳剣を鞘に収めて少し座る。九尾狐と向かい合う形だ。

──しくじったら妾が貴様を殺す…それが条件だ

「その時は喜んで喰われてあげるわよ」

 互いに笑みも見せずに見合う。

 私の覚悟を感じ取ったように九尾狐が言う。

──去ね。貴様は朝から張るのだろう?

 そして九尾狐は私を通り過ぎ、背を向けて神崎さんの傍に座った。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


「大気が震えた?」

 ワンボックスカーから飛び降り、大蛇の前に駆け寄る私とソフィアさん。

──グレイプニルはまだ破壊されていないが、念の為に交換しようか

 フェンリル狼が後脚を踏ん張り、飛び跳ねようとする姿勢をみせる。

「あなたは見ているんでしょう?少しどいて」

 そう言うと、フェンリル狼は後脚から力を緩めた。

──遊びじゃないんだぞ!お前の力量など見ている暇はない!!

 牙を剥いて威嚇する。いや、諭していると言った方が正解かもしれない。

 しかし私は構わず前に出る。

「見ていなさい!ソフィアさん、私が動きを封じたら、グレイプニルを嵌めて下さい!」

 ソフィアさんは不安な表情を露わにしながらも頷いた。

 フェンリル狼は再び後脚を踏ん張る。いつでも飛び掛かれるように姿勢を作った。

「はあっ!!」

 印を組み、集中すると、お昼に大蛇の周りに仕込んでいた10数個の魔法陣が発動する。

「誘いの手!!」

 魔法陣から地獄に引っ張り込む腕が伸び、大蛇の身体を掴む。

 通常なら腕は5~10本程だが、魔法陣から伸びて来た腕は約20…それが10数箇所全てから伸びてきているのだ。

 首や目無しの時に発動した誘いの手の数10倍の力が働いている筈。

 屋敷から移動する事がない大蛇だから有効な魔法陣だが。

「す、凄い…!!」

 ソフィアさんが感心してくれるも、やはり師匠が封印するのが精一杯だった神の呪い。

 多少パワーアップした誘いの手では、引摺り込むどころが、暴れるのを止める事すらできていない。

──解っただろう!退け!

 フェンリル狼には効果が薄い事がバレているようだが、それを無視して、続きの印を組む。

「誘いの手、二の腕!!」

 大蛇の上空に、蜷局を巻く身体より大きな魔法陣が現れ、腕が伸び出る。

 上空の魔法陣から出現した腕は、大蛇の身体を上から押さえて、下から伸びている腕の助けをした。

──何っ!?

 フェンリル狼は、その無数の腕に驚き、飛び掛かるのをやめた。

 大分大蛇の動きを封じた事に成功した訳だが、更に印を続けて組んだ。

「誘いの手、三の腕!!」

 下の魔法陣から出た淡い蒼い光が、上空の魔法陣に柱のように伸びる。

 やがて上空の魔法陣に繋がった蒼い光は、そこからやはり無数の腕を伸ばし、大蛇の身体を押さえ付けた。

「これが私の最強の術!!誘いの千手!!」

 師匠ならば魔法陣を使わなくても発動可能な技だが、今の私にはこれで精一杯…

 地獄に引き摺り込めないまでも、その動きは完全に止めた!!

 大蛇が鎌首を持ち上げる事も出来ない程に!!

「グレイプニルの交換を!!」

 私に促されて、我に返ったソフィアさんは、手持ちのグレイプニルを大蛇に嵌めて、今まで 縛っていたグレイプニルと交換した。

「も、もう術を解いて大丈夫かしら…」

 魔法陣もそうだが、今の私では、そんなに長く発動させられない術だ。プルプルと腕が震える。

「も、もう大丈夫です!!」

 その言葉を聞いて安心し、術を解いた。魔法陣は上空から徐々に消え、腕も元の地獄に還っていった。

「はぁ、はぁ…どう?フェンリル狼?」

 汗をびっしょり掻きながら、フェンリル狼に笑いかける。

──ふん…まぁ、ソフィアの手助け程度は出来そうだな

 フェンリル狼は私から顔を背けて続ける。

──明日の朝、交代に来るがいい。今日までは俺が受け持つ

 私は息を切らせながらも、笑いながら頷いた。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 昨日は結局カビや埃臭い部屋に泊まってしまった私だが、一回寝たら気にならなくなったので、まぁ良しとした。

 師匠の弟子達はお葬式やら呪いやらで忙しい。

 一晩寝てそれに気付いたので、昨日は少し大人気無かったと素直に反省し、謝罪の為に梓を捜す。

 屋敷中捜したが、梓の姿は見えず。

「秘書みたいな仕事している筈なのに、どこほっつき歩いてるのかしら」

 少し苛立ちを覚える。

 尚美が寝ている部屋の前に差し掛かった。

 ~~~………!!

 襖越しに、九尾狐と誰かが話していたのが聞こえた。

 好奇心を抑えきれない私は、そっと襖を開けて覗き見た。

「十拳剣を持っている女だ」

 それは初対面の私に剣の切っ先を突き付けた女。九尾狐がその女に何か怒っているようだ。

──貴様があの蛇を葬れる訳が無かろう!!戯れ言を抜かすな!!

 本気でイライラしている様子の九尾狐。

 しかし、蛇を葬るとか何とか言っていたような?

 もっと良く聞く為に、襖に限界まで近付いた。

「心配いらないわ。私は蛇殺しに特化していたのに気付いたから」

 何?蛇殺しに特化って?

 まさか尚美に憑いている呪いを叩く気な訳?

 あれは私にしか倒せないのよ?

 思わず襖を開けて怒鳴り付けそうになるのをギリギリ堪える。

──貴様では、いや、勇でなくば尚美から蛇を離せぬ!!

 卑しい獣…馬鹿な主人をそこまで信じる忠義には驚嘆だが、視る事すら叶わない奴に何ができると言うの?

 鼻で笑ってしまった。聞こえてなければいいけど。

「勿論、アレは北嶋さんじゃなければ倒せない。私が言いたいのは、呪いで湧き出てくる黒い蛇を、日中は私、夜はあなたで代わる代わる見張るって事よ。飛び火程度なら私にも倒せる。あなたの負担も軽減するって訳ね」

 なんて図々しい女だと思った。身内の私にすら手出しをさせてくれない呪いを、部外者の分際で首を突っ込もうなんて。

──貴様が尚美を殺してしまう事にも成りかねんのだ!その提案は断る!!

「いいぞ~。その調子だぁ~」

 つい小声で九尾狐を応援してしまった。

「私の力を実際見て決めて。それならば納得できるでしょう?」

 また鼻で笑ってしまいそうになった。

 自ら無様を見せる事を提案するとは。

──よかろう…しくじったら喉笛が引き千切られる事になると心得よ!妾は尚美が無事ならば構わないのだからな!!

「…肝に命じておく」

 そこまで聞いて、そっと襖を閉じる。

 そしてそ~っとその場を離れた。

 尚美の寝ている部屋からかなり離れた所に来た途端、私は大きく息を吐いた。

「はぁ~っ!!マズい!!非常にマズいわ!!」

 早ければ今夜、この屋敷で人間が妖に殺されるのだ。

 部外者なんか別にどうなっても知った事ではないが、屋敷で人が殺されるという不名誉は避けなければならない。

「やっぱり私がやるしかないか…」

 古の大妖、白面金毛九尾狐と対峙する事になろうとは…脚が多少震えている。

「武者震いか…しかし、惨劇を止めるのは、私にしかできない」

 やれやれと言った感じで自分の肩を揉んだ。少しでもほぐしておこうと思って。

 いざと言う時に硬直しましたじゃ済まされないのだから。


 夜。私は九尾狐を倒すべく、尚美の部屋に忍び足で向かった。

 いよいよ尚美の部屋の前に差し掛かったその時…

「随分殺気立っているわね。そんなんじゃ、九尾狐に気付かれてしまうわよ」

 背後から梓が不意に話しかけてきて仰け反ってしまった。驚いたからだ。

「梓?シーッ!!声が大きい!!」

 梓に向かって唇に人差し指を添えて唇を突き出した。

「…ちょっと来て」

 梓は私の腕を掴み、その場から離れる。

「なになになになに?」

 成すが儘に腕を引っ張られ、遂には庭まで連れて来られた。

「何なのよっ!!…何この腕…?」

 大蛇の周りに配置してある魔法陣から、沢山の腕が伸び出て大蛇を押さえ付けている。

「生乃の最強の術、誘いの千手ね」

「誘いの千手!?生乃が!?」

 驚いてその場に腰を落としそうになるのを漸く堪えた。

 誘いの千手…亡者を地獄に引き摺り込む技の中では最高峰の術。

 師匠しかできないと思っていたが、まさか生乃が…

「残念だけど、アンタが水谷一門最強ってのは無くなったようね」

 梓が気のせいか、したり顔しているような?

「わ、私だって冥獣の顎を!!」

「地獄の門番を喚ぶ技が、あの程度な訳ないでしょう?」

 ムカッとした。私の最強を『あの程度』とは!

「確かに生乃には負けるかもしれないけど、九尾狐に通用しない訳じゃないでしょ!!」

 生乃の術には確かに驚いたが、九尾狐を倒すのは、また別問題だ。

「九尾狐がどれ程か…相手の力量が解らないなんて、アンタ本当に天狗になっちゃったんだね…」

 梓は私に哀れみの眼差しを向ける。

 そしてゆっくりと印を組む。

「出しなさいアンタの最強を。私に勝ったら、アンタの好きにしたらいい。言っておくけど、九尾狐は私なんかは足元にも及ばないよ」

 梓は私を止めるつもりのようだ。

 だけど、梓の術は魂を直接斬る鎌な筈。

 しかも条件がある。悪しき魂でなくば。術者の梓を攻撃するのだ。言わば呪詛返し的に。

「随分リスクあるよ梓?」

 私も易々とは斬られるつもりはない。

 仕方がない、梓を諦めさせるためにも、冥獣の顎を現世に喚ぶ為に印を組み、集中する。

 梓も同じく集中しているが…

「冥獣の顎!!」

 私の術が先に発動した。

「死んでも私を怨まないでねっ!!」

 自分から売ってきた喧嘩で命を落として、それで恨まれたら堪ったもんじゃない。

 まぁ、化けて出てきても返り討ちにするけど。

 冥界の獣が梓に牙を向け、向かっていく。

 だが、梓に届く寸前に急停止した。

「え!?」

 私が喚んだ獣が、怯えて段々と下がって行く…?

「何してんのよ!?梓に向かって行きなさい!!」

 叱咤するも、冥界の獣は私が命じる前に姿を消した。

「な、なんで!?」

 初めての体験で私は軽いパニックになる。

「還ったのよ。地獄にね。自分より格が上の者に命じられてね」

 格が上?命じられた?梓が地獄の獣、ケルベロスより格上を喚んだ?

 私は目を細めて梓を見る。

「そんなに近くじゃ解らないわ。もう少し離れて見て」

 梓に促されて、一歩、二歩、三歩と後ろ向きに離れた。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 結奈が驚きのあまりにへたり込む。まあ、予想通りの反応だ。

「解った?アンタの術は本物じゃないって事が」

「そ、それは何?」

 震えながら私の背後を指差す結奈。

 そこには、触れる者全て砕きそうな、鋭利な牙を持った黒い犬の首が三つ。結奈を鋭い眼光で睨み付けていた。

 黒い犬は厚みが無い。

 言うなれば絵のような感じだが、その大きさは1匹約20畳程。それが3つ連なっている。口を開けると、まるで洞穴のようだ。

 その黒い犬こそ地獄の番犬、ケルベロス!!

「これが本当の冥獣の顎!地獄の第三層、貪食者の地獄!!」

 貧食者の地獄とは大食の罪を犯した者が、ケルベロスに引き裂かれて泥濘にのたうち回る地獄。

 また、死者の魂が、冥界にやってくる時には友好的だが、冥界から逃げ出そうとする亡者は捕らえて貪り食うという。

 つまりはこう言う事だ。

「ケルベロスは冥穴そのもの。決して使役する犬じゃないって事よ」

 結奈が繰り出したのは、言わば紛い物。ケルベロスは地獄そのものだからだ。

「ま、紛い物…」

 もはや反論する気力もないようだ。

 地獄を喚ぶ術は、大変な精神力や霊力を必要とする。

 私も生乃が仕込んでいた魔法陣に便乗し、その術のバックアップをして貰わなかったら、こうも簡単には繰り出せない術だ。

 結奈の戦意喪失を確認した私は、漸く冥獣の顎を解いた。

「私の勝ちね。九尾狐を狙うのは諦めなさい。あれは、私よりも遥かに強く、向かって来る者には容赦しない。あれを扱えるのは、やっぱり北嶋さんだけよ」

 額にうっすらと浮かんでいた汗を袖で拭いながら言う。

「北嶋…北嶋 勇……」

 俯きながら呪文のように呟いている結奈。

「私も生乃も宝条さんも、勿論尚美も、北嶋さんに助けられた。九尾狐は素直に自分より強い者に従っているだけ。それだけじゃないだろうけど、私が思い付くのがこれくらいなだけか。まぁ、よく誤解されるけど、彼は本当に凄い人よ。強さだけじゃない、人格も備わっている。じゃなきゃ、葛西さん程の人がライバル視する訳ないでしょう?」

 そう、北嶋さんは結奈が挑んであっさり退けられた葛西さんがライバル視しているのだ。

 それに気が付いていない結奈。

 自分が道化だと、少しでも解ってくれれば…

「私は!私は絶対認めない!北嶋 勇が神の呪いを倒すなんて絶対に認めない!!みんなで向かって行けば、きっと呪いは倒せる!!部外者に頼らずに、師匠の弟子の私達の力で何とかしましょうよ!!」

 何故か必死の結奈。道化以前に、北嶋さんを気に入らないようだ。

「まだ解らないの?神の呪いは私達が太刀打ちできる相手じゃない!」

 結奈は私を睨み付けて立ち上がったかと思うと全力で人差し指を向けた。

「このヘタレ弟子!部外者に頼る事しかできない、哀れな馬鹿達!」

 負け犬の遠吠えみたいな事を平気で言うなんて…もう何も言えない。言いたくない。

 でも、これだけは言わせて貰う。

「私達の事をどう思おうが自由だけど、私達の邪魔はしないでね。アンタは私に負けたんだから」

 黙って結奈を見る。

 結奈は唇を噛み締めながら、私に背を向ける。

「…確かに、今の私じゃ力不足のようね…だけど、北嶋 勇が帰ってくるまで、私の力がそのままって訳でもないんだからね」

 負け惜しみなのか、5日間、修行する気なのかは解らないが、取り敢えず最悪の事態は避けられたようだ。

 去って行く結奈の後ろ姿を見て、大きく息を吐く。

「北嶋さん…早く帰って来て…このままじゃ、尚美は身内に殺されてしまうかも…」

 私は不安になり、思わず天を仰いで呟いた。

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