狐と狼
勇が富士へ向かって数時間…妾は片時も尚美から目を逸らさずに、蛇を監視していた。
「お主も疲れたじゃろう。ワシが少し代わろう」
水谷の友人のジジィが妾に馴れ馴れしく話掛けてきた。
──いらぬ。貴様如きの手に負える代物ではないのは承知だろう?それより、外の魔狼に手を貸してはどうだ?
屋敷に蜷局を巻く大蛇を牽制しておる魔狼を、妾は感じていた。
外の大蛇は尚美に憑いている蛇の分身。
現在尚美に異変は感じられぬ故、大蛇も動きは無い筈だ。
それでも巨大な蛇は、じわじわと屋敷を締め上げている。
「フェンリル狼は心配いらん。なに、呪いの飛び火くらい、ワシでも何とかなる」
ジジィは背中から鬼神を出す。
──ほう、なかなかの鬼神だな
ジジィは鼻をフンと鳴らす。
「九尾狐に世辞を言われるとはのぅ。金剛では、お主の相手にもなるまいが」
別に嫌味で言った訳ではない。
その鬼神を従えておるジジィの力量を素直に驚嘆しただけだが。
──本体から出てくるであろう蛇の力が如何程か解らぬ今、やはり尚美の傍からは離れられぬ
妾はジジィから顔を逸らし、再び尚美に意識を向けた。
「お主程の大妖がのう…随分と懐いておるようじゃな、その嬢ちゃんに」
ジジィは差し入れられた酒をクッと呑み、意外そうに呟いた。
──妾と尚美は盟友故に。勇の被害者としてのな…
「フン、あのガキもつくづく大したガキじゃな。伝説の国滅ぼし、白面金毛九尾狐を意のままに従えておるとは!!」
ジジィは面白く無さそうに、再び杯に口を付ける。
──貴様の弟子もなかなかの者よ。貴様の弟子が名乗りを上げた瞬間、勇がいつもの調子に戻った。勇が認めておる者のようじゃな
深刻極まりない表情の勇を見たのは初めてだったが、ああも露骨に安心した勇を見たのも初めて…
「北嶋さえ居なければ、ワシのガキが最強じゃったのに…」
ジジィの面白く無さそうな態度はそれか。親馬鹿なジジィだ。
妾はつまらぬ、と言う表現を溜め息で表してやった。
──!!
妾は低く身構えた。
「出たか」
ジジィの鬼も錫杖を前に突き出し、構える。
「ううう……」
尚美の額に玉のような汗が噴き出る。
「あああ…ああ…!あああぁあ!!!」
何かに縛られているように、身を硬くしながら尚美が悶えた。
──出た!!
尚美の身体から無数の黒い蛇が湧き出た!!長さは一尺から三尺まで様々な蛇の群れ!!
その蛇の群れは部屋の壁や天井に這い上がり、部屋から出ようとしていた!!妾とジジィに向かって来る蛇もいる!!
──カァーッ!!
妾は九つの尾を振るい、黒い蛇の群れを叩き潰す。
「振るえ!金剛!!」
ジジィの鬼神も錫杖を振り回し、蛇の群れを潰している。
──気を付けろ!!毒も持っておるぞ!!
「飛び火程度ならば大した事はあるまいて!!」
確かに強さはそう大した訳でも無い。
無いが…
ゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾッッッ
尚美から湧き出た蛇は、部屋を真っ黒に染める程に大量に発生していた。
この数は流石に余るわ!!ジジィに気を向けるのも惜しい!!
──退け!!
妾は勇から託された。この屋敷の人間全てを守る事を。
「なんの。この程度ならば…」
妾の忠告を無視して鬼神に錫杖を振るわせる。妾の邪魔にしかならぬのが解らぬ様子。
──退け…!!
妾は怒気をジジィに向ける。
「!!っ…おっかないのぅ…」
漸くジジィは尚美の部屋から退いた。これで思う存分尾を振るう事が出来る。
──カァァァァァァア!!
最早部屋を埋め尽くしている蛇を尾で薙ぎ倒す。
しかし、尚美の身体からは、まだ蛇が出て来ていた。
尚美の身体から湧き出てくる蛇を止める事は、尚美の魂に深く食い込み、絡み憑いている蛇を殺すしかない。
だが、それを無理やり行えば、絡み憑いている蛇は抵抗し、尚美の魂を食い破るだろう。
結果尚美は死ぬ事になる。
勇が来るまで、湧き出てくる蛇を潰す事が、ここの人間と尚美の命を守る最善の策と言う事になる。
──カアッ!!
無限に現れる蛇に対し、妾は尾を振るい続けた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
大した奴じゃぁ…
嬢ちゃんに憑いているナーガの力が巨大過ぎる故、嬢ちゃんの魂では納まり切らぬ呪いの力が蛇の形を象って湧き出てくる訳じゃが、その数は部屋を埋め尽くし、それでも尚、溢れ出る事を止めぬというのに…
「九尾狐はその殆どを潰しておるわ…」
戦慄さえ覚える九尾狐の力。
ワシに退けと言ったのは、己の力を存分に振るえぬからだったか!!
湧き出てくる蛇は、云わば地震の前に起こる前震みたいな物。
外の大蛇と連動もし、嬢ちゃんの命を徐々に奪っていく為に起こる現象じゃ。
周りの人間には命の危機すら起こり得る。
「それ程北嶋のガキを信じて従っておるか…!!」
北嶋のガキの言い付けを忠実に守り通している九尾狐に感動を覚える。
──ハァ、ハァ、ハァ、ハァ…
あれ程居た蛇の群れは、最早姿が見えぬ。全て九尾狐が葬ったのじゃ。
「む!九尾狐!まだ一匹脚下に…」
ワシが言うより早く、九尾狐は残り一匹を前脚で踏み付け、動きを止める。
そして顔を近付け、蛇の首を咬み千切った、
──ジジィ、もう良いぞ
九尾狐が吐き出した蛇の首は、少しピクピクと動いた後に大気に溶けるよう、消え去った。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
──む!!
屋敷の大蛇を見張っていたロゥが耳をピクピクさせながら見上げる。
「グレイプニルが軋み始めたわ!」
それは分身が屋敷を締め始めた証。
「本体が憑いている神崎さんは大丈夫かしら…」
私はグレイプニルを締め直そうと近寄る。
──行くな!!
ロゥの叫びに踏み止まる。
「ど、どうしたのロゥ?」
──あの悪意!!キョウなら兎も角、お前では飲み込まれてしまう!!
そう言うと、ロゥは私の前に立つ。
──離れていろ
灰色の毛が逆立ち、唸り声を上げるロゥ。
ヤバい相手なのは知っていた。
知っていたけど…
「分身でしょ?」
そう、本体じゃない。分身に本体程の力は無い筈だ。
──分身…だ!俺が再び気を引くからグレイプニルを締め直してくれ!!
ロゥは大蛇に向かって飛びかかった。
大蛇はその赤い悪意に満ちた目をロゥに向ける。
──オオオオオオ!!
決して牙を振るわずに大蛇の身体を駆け回るロゥ。
「な、何を焦っているの?」
そう思った私だが、息を飲み込んで続く言葉を発しなかった。
グレイプニルが…壊れ掛かっている…?
枷に亀裂が走っているのを発見したのだ。
大蛇を繋いでいるグレイプニルは全部で4つ。その全てに亀裂が走り、鎖が切れそうになっていた。
「そ、そんな!!こんなに早く!?フェンリル狼やトールを繋いでいた枷なのよ!!」
確かに劣化して交換をしなければならない場合もある。
だけど、このスピードは異常過ぎる!!
呆然として立ち竦む。
──グレイプニルの数を増やせ!4つでは足りない!
大蛇の気を引きながら、私に声をかけるロゥ。
「そ、そうだわ!4つで駄目なら5つ、6つよ!」
呆けている場合じゃない!!
私はポケットからコインサイズの枷を取り出す。
グレイプニルは自在に大きさを変えられるので、普段はキーホルダーのように数個ポケットに忍ばせているのだ。
グレイプニルを嵌めるタイミングを見計らう。
ロゥに気が行き、頭を向ける。その時私から意識が外れた。
「はぁっ!!」
コインサイズのグレイプニルを大蛇に向かって投げる。
私の手を離れたグレイプニルは、標的の大きさに変わり、大蛇の首に嵌った。
瞬間!枷から鎖が伸びて来て、地面に潜り込んだ!!
「一つ成功したわ!」
喜び、ロゥに声をかける。
──まだ終わっていないだろう!!
ロゥの叱咤が飛ぶ。
「解っている……っ!?」
思わず息を飲み込む。
亀裂が入っていた4つのグレイプニルが砕け散ったのだ!!
破片が地面に落ちる様を驚きながら見る私…
「危なかった…少し遅れていたら…」
大蛇は容赦なく、中の人諸共締め上げる事になっていた。
冷たい汗が背中を走る…
──追加はまだか!!
我に返る。
鎌首を持ち上げてロゥを追っている大蛇が視覚に入る。
「い、今行くわ!!」
私は再びグレイプニルを大蛇に投げつけた。
「はぁ…はぁ…はぁ…」
手元にあったグレイプニルを全て大蛇に嵌める事ができた。
合計7つの枷を嵌めたのだが、もうグレイプニルは無い。
──何とかなったか…
私の傍に歩いてくるロゥ。
「ええ…っ!?」
ロゥを見て驚く。
ロゥの身体に傷が走っていて、所々で出血していたのだ。
「大丈夫!?」
慌てて傷口を見る。
──掠り傷だ。心配いらない
ロゥは傷口を舐める事もせずに伏せた。息遣いが荒い…かなり疲労しているようだった。
「よく反撃せずに耐えてくれたわ…」
ロゥの巨躯をギュッと抱き締める。
──無駄に刺激すれは、本体の方が暴れてしまうからな。現に狐の方は俺よりも疲労が濃いだろう
言っている意味がよく解らないが、神崎さんの命に配慮した故の傷なのは知っている。
「キョウが帰ってくるまで、頑張りましょう」
──それより、グレイプニルを大量に作っておいた方がいい。まさかあそこまで…
私とロゥは大蛇を見上げる。
大蛇は、その赤い瞳に悪意を乗せ、私達に視線を放っていた…
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
黒い蛇を全て殲滅させて、一息付く妾の脳に直接語り掛けて来る魔狼。
──すまなかった
何を謝罪しているのか理解ができぬ。
妾は首を傾げて考えた。しかし、答えは魔狼が勝手に続けた。
──分身に少しばかり傷を負わせてしまった。そちらで本体が暴れただろう?
何かと思えばと妾は返す。
──あの部屋を埋め尽くした黒き蛇の事か?あの程度、妾の脅威にはならぬ
恐らく、外の大蛇に牙か爪を立てた際、あの黒き蛇が尚美の身体を埋め尽くさんばかりに出てきたのだ。
それは妾も感じていた事。何の事も無い。
──7日の辛抱だ魔狼。勇が帰ってくるまで耐えるだけでよい。外は頼んだぞ
妾は勇に託された。魔狼も恐らく鬼神を背負う男に任された筈。
──互いにとんでもない者に仕えたものだな、妖狐よ
──貴様などまだマシだ。妾はあの馬鹿者だぞ
魔狼は押し黙った。恐らくその通りだと思ったに違いない。
──まぁ……頑張れ…………
暫く後、魔狼から返しがあったと思ったらば、それは同情に限りなく近い激励だった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
嬢ちゃんの容態は九尾狐により安定しだした。暫くは安心だろう。
ワシは酒のおかわりを貰いに台所へ向かう。
台所では、遅い晩飯を食べている弟子達が多く居た。
「すまんが酒を貰えんかな?」
箸の進まぬ弟子達が一斉にワシを見て、我先にワシに酒を持ってこようと立ち上がる。
動いていなくば、不安と悲しみに押し潰されそうなんじゃろう。
「嬢ちゃんは心配いらん。お主達も北嶋のガキを信じとるのじゃろ?同行しとるのはワシのガキ。更に心配はいらぬ」
励まして話したつもりだが、弟子達は俯いてしまった。
無理も無い。君代ちゃんでも…いや、君代ちゃんを筆頭に、当時の高名な霊能者達が束になっても、封印が限界だった相手。
北嶋のガキ、ワシのガキ、それに従順しておる獣の王共、更には君代ちゃんの弟子達が束になって掛かっても倒せるかどうか…
君代ちゃんの死により、この屋敷には沢山の霊能者が集まっておる。
それ程の戦力は、あの時以上の戦闘力な筈。
それでも、ワシの不安は消えぬ。
ワシ以上に君代ちゃんの弟子達がそう感じてもおかしくはない。
「大丈夫です。北嶋さんなら、圧倒的に楽勝で勝ちます!」
俯いた弟子達の奥から、確信しておるようにハッキリと言い放つ声。
「嬢ちゃんは北嶋のガキを信じておるんじゃなぁ」
その嬢ちゃんは弟子達を掻き分けてワシの元に一升瓶を持ってにこやかにやってきた。
「勿論です。お師匠が他の誰でもない、北嶋さんに託したんですから。北嶋さんなら倒せる。私もそう思いますんで。それと、嬢ちゃんって歳でもないですし、桐生と呼んで戴けたら有り難いのですが…」
そう言って一升瓶をワシに差し出した。苦笑した。ワシから見れは嬢ちゃんじゃからな。
「北嶋のガキの強さは又聞きでしか知らぬ。それを生で見れると言うのは楽しみじゃ」
ワシは受け取った一升瓶を更に返す。嬢ちゃんは困ったように首を傾げた。
「すまんがカンにしてくれんか?今宵は冷えるでな」
「あ、そうですよね。すみません、今温めますね」
嬢ちゃんは一升瓶を抱えながら、再び弟子達を掻き分けて流しへ向かった。
ワシは弟子達をズラッと見る。
「これ程君代ちゃんの弟子が居るのに、君代ちゃんが託した男を信じているのは一人だけか」
ワシは聞こえぬよう呟き、酒が温まるまで椅子に座って待つ事にした。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「はぁーっ!!はぁーっ!!はぁーっ!!」
心臓が張り裂けんばかりにドキドキしていた。
身体中から汗が吹き出て、まさに身も心も凍るような衝撃だった。
外で待機しているソフィアさんとフェンリル狼に差し入れを持って出た時、まさにフェンリル狼が大蛇に向かって果敢に向かっている最中だった。
ソフィアさんは臆する事なく、グレイプニルで大蛇を縛り付けている。
私は…
私はそれを恐れながら見ていただけだった…
決して大蛇に傷を負わせる事なく、注意を引き付けるフェンリル狼。
その隙を付き、グレイプニルを嵌めるソフィアさん。
私は何もせず、何もできずそれを見ているだけ…
怖い…
目無しの時など比較にならない程の恐怖が私を支配する。
あの大蛇の赤い目は、それ程の悪意を放っているのだ。
あれ程の相手に向かっていく勇気…
私は北嶋さんに何を教えて貰ったのか………
差し入れを地面に落とし、十拳剣を御守りのように抱えながら、私は終わるのを震えながら見ていた。
やがて大蛇の動きが止まる。
グレイプニルが全て嵌り、その動きを封じ込めたのだ。
ソフィアさんは傷だらけのフェンリル狼を優しく抱き締めていた。
あれ程の悪意に満ちた大蛇に恐れずに向かったフェンリル狼。そのチャンスを確実に物にしたソフィアさん。
どちらも本当に凄い。
私は怖くて影から見ていただけなのに。
恥ずかしい…悔しい…
先程の恐怖と違う震えが私の身体を駈ける。
「怖いか可憐?」
ドキッとして振り返る。
優しい瞳を私に向けている義父。おにぎりやお茶などを持って立っていた。私と同じく、ソフィアさん達への差し入れなのだろう。
「はい。怖いです…」
素直に認めた。顔を背けて。
義父から叱られても仕方ない。
「それでいい」
叱るどころか、安心したように私の肩をポンと叩いた。
思わず顔を上げた。
「私は!彼女達が果敢に向かって行ったのを震えて見ていたんです!」
懺悔にも似たような叫び。いや、まさに懺悔だろう。自己嫌悪のみの懺悔だろう。
「誰しも恐怖はある。それは仕方ない事。彼女達は場数が違う。お前は経験が足りない。目無しで多少自信が付いただろうが、お前はまだまだ未熟。仮に恐怖を感じる事無く、彼女達の助太刀に向かったら、お前は足手纏いになっていた」
それは…その通り…
しかし、私も十拳剣を預かったとの責任もある。
「神刀十拳剣を持っている私が恐怖で足が竦むなど、あってはならない筈!!」
殆ど八つ当たりで睨む私を優しく見つめながら義父は言う。
「十拳剣を扱える素質があるだけだよ可憐。まだまだこれからさ。さぁ、彼女達に食事を持って行こうか」
そう言って義父はソフィアさんに近づいて行った。
足が動かない私に振り返る義父。
「恐怖を全く感じず、立ち向かって勝利できるのは北嶋君だけだよ。お前は北嶋君と並んだつもりなのかい?」
我に返る。
義父のその言葉が、一番納得できる言葉だった。
北嶋さんに並んだとは思っていない。あの人は別格だ。だけど…
「……次は立ちます。この両脚で」
義父は微かに頷いて歩いて行った。私はその後ろ姿を、いや、魔狼とソフィアさんを、ある種の決意を以て見つめていた…
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