第25話
「俺、仕事はじめてみてわかったんだよ。俺には仕事が合わないってことがさ。必死に毎日へこへこ頭下げて……ほんと馬鹿らしいっていったらねぇよ。その点、陽菜と付き合ってた時はよかったよなぁ……」
昔を懐かしむような声でヒデがそう言う。
「陽菜がバリバリ働いてくれるおかげで陽菜の部屋に入り浸ってる俺は楽できたし、料理も掃除も洗濯も全部陽菜がやってくれてたしさぁ。もう、アレだよ、オカン! 母親って感じ? 俺がギター弾いてるだけでお前は楽しそうだったし、ホント、安上がりでいい女だったよ、お前は」
ヒデが別れ際に放った『もう女に見えない』という言葉が、耳朶に蘇った。その瞬間、沸き上がってきたのは、悲しみではなく怒りだった。こんな男に尽くしていたのだと思うと、情けなさもこみ上げてくる。
陽菜は恐怖で強ばりそうになる身体を必死でよじった。それでも拘束は緩まない。
陽菜はヒールの踵で思いっきりヒデのつま先を踏んづけた。
「ぐぅっ……」
その途端、両手の拘束が緩み、陽菜はヒデを押しのけて距離を取った。動きやすいように低めのヒールを履いているのでピンヒールのような攻撃力は無いが、それでも十分に痛かったらしく、ヒデは少し目に涙を浮かべたまま、怒りで顔を真っ赤にさせていた。
「ひぃいぃぃいなぁあぁぁあぁっ!」
身を竦んでしまうほどの声に陽菜は弾けるように走り出した。しかし、すぐに捕まってしまう。
右腕を捕まれ、まるで綱引きをしているかのような状態で、陽菜は鞄についていた防犯ブザーを引き抜いた。そして、それをヒデの顔に投げつける。
けたたましい音が鳴り響く。卵形の防犯ブザーは、一定の間隔でSOSを辺りに訴えていた。
「くっそっ!」
ヒデが少しだけ焦った様子で防犯ブザーを踏んづける。二回、三回と、何度も踏みつけていくうちに防犯ブザーは鳴らなくなってしまった。
「そんな……」
カラカラの喉が掠れた声を響かせる。
本当は叫びたかった。周りの人に助けて欲しいと声を張り上げたかった。しかし、恐怖で固まってしまった喉は、あまり大きな音が出せない。
腕はまだ捕まれたままだ。その腕の拘束が、痛いぐらいに強くなる。
「……んだよ。そんなに嫌かよ。俺は前の関係に戻りたいって言ってるだけだろうがっ!」
「……やっ……」
「お前は何も考えず、俺に尽くしてれば良いんだよっ!!」
いきなり耳元で叫ばれて、陽菜は鼓膜が破れるのではないかというぐらいの衝撃を受ける。捕まれた腕をじりじりとたぐり寄せられて、陽菜は必死で首を振った。
「やめてっ! おねが……」
言い終わる前に、陽菜の口は彼の唇によって塞がれた。
押しつけられた唇が不快でたまらない。隙間から侵入してきた舌を思いっきり噛めば、ヒデは陽菜を突き飛ばした。ガンッと強い音がして、陽菜の背中はコンクリートブロックの壁に打ちつけられる。
「ってぇ……」
口の端についた血をヒデが拭う。
陽菜はその隙を突いて走り出した。怖くて仕方が無い。次に何をされるのか予想がつかない。
陽菜は滲んでくる視界を拭いながら、必死に足を動かした。
だれか
だれか
だれか
陽菜は必死に助けを呼ぶ。それが音になることはなかったけれど、心の中で彼女は必死に助けを呼んだ。
「はせがわ、さんっ……」
無意識に声が溢れた。
助けに来るはずが無い人を陽菜は求めてしまう。
自分が
「はせ、が、わさ……」
今にも掻き消えそうな声だった。もうまともに息が吸えない。喉からヒューヒューと変な音が鳴る。心臓が胸を破るのではないかというぐらい激しく鳴った。
ヒデの足音がもうすぐ側まで聞こえてきて、陽菜は捕まることを覚悟した。
その時……
「陽菜さんっ!」
直ぐ後ろで、砂袋を蹴ったかのような鈍い音がした。
陽菜が恐る恐る後ろを振り返ると、そこには長谷川がいた。荒々しく肩で息をして、これ以上無いぐらいに怒りで顔を怒らせている彼が。
鉄仮面とはほど遠い感情まみれの表情で、長谷川は唇を噛んでいた。
その少し奥に、腹を押さえて転がるヒデの姿が見える。
長谷川は陽菜の方に目を向けると、まるで泣きそうな表情で駆け寄ってきた。そうしてすぐに抱きすくめられる。
「大丈夫ですか?」
一番安心できる腕の中で、陽菜は身を震わせたまま一つ頷いた。
視界が滲む。
まるで堰を切ったかのように涙が瞳からこぼれ落ちた。
「は、せが……」
「もう大丈夫ですからね」
顔が熱い。鼻と喉が痛くてしょうがない。嗚咽は自然と漏れていた。
長谷川は携帯電話を取りだし、直ぐに警察に連絡をした。簡潔に情報を説明している最中、ヒデが立ち上がる。その表情は怒りと、焦りと、羞恥でぐちゃぐちゃだった。
「くっそっ!!」
彼の中で怒りよりも警察に捕まる焦りの方が勝ったのだろう。ヒデはそのまま走って夜の暗闇の中に消えてしまったのだった。
◆◇◆
警察は到着して間もなく、逃げるヒデを捕まえた。逃げている最中に誤って川に落ちたところを捕まったらしい。
陽菜は少しだけ事情を聞かれて、その後すぐに解放してもらえた。
どこに行くにも長谷川は一緒で、常に陽菜の肩を支えたままだった。
「ありがとうございました」
泣きはらした目で陽菜は長谷川にそう言った。
背中にはエレベーターの扉、目の前には長谷川の部屋がある。
長谷川は肩を抱く手を強めながら、陽菜を覗き見た。
「今夜は一緒にいましょうか?」
「……大丈夫です」
頷きそうになる自分を叱りつけて、陽菜は決死の思いでそう言った。
本当はずっと側にいて欲しい。大丈夫だよと頭を撫でてもらいながら眠りにつきたい。
けれど、陽菜にはその権利はないのだ。
目の前の部屋にはその権利を持っている人が長谷川の帰りをまっている。これ以上、彼らを巻き込んではいけない。
陽菜は震える手で、肩に掛かる長谷川の手を外した。
「今日は本当に助かりました。このお礼は、また後日しますね」
「陽菜さん」
窘めるような長谷川の声が耳朶を打つ。無理しているのがバレバレだったのだろう。彼の表情は少し怒っているようにも見えた。
「今日は一緒にいさせてください。君のことが心配で、まともに寝れそうもありません」
「でも……」
「駄目ですか?」
その問いかけは狡いと思った。人の気持ちも知らないで、気持ちのない優しさを与えないで欲しい。まだ彼が自分のことを好きなんじゃないかと勘違いしてしまいそうになる。
「長谷川さんは、帰らないと駄目ですよ……」
「なぜ?」
「……それを私に言わせるんですか」
残酷だな、そう思った。小さく乾いた笑いが漏れてしまう。どこまで背中を押させれば気が済むのだろう。
「部屋で待ってる人がいますよね?」
「……なんで、それを……?」
目を見開いた長谷川に「今朝会いました」というと、「そうですか」と一つ頷かれた。
「今度改めて紹介しますね」
その言葉がずどんと内臓にのし掛かった。もう陽菜のことなどなんとも思って無いのがありありと伝わってくる言葉の羅列だ。
早く帰って、泣き喚きたかった。部屋の鍵を閉めて、布団に籠もって、大声で泣きたかった。
長谷川の言葉に陽菜は一つ頷く。そして、踵を返したところで、もう一度腕を引かれて止められた。
「それでどうして、俺が君の側にいちゃいけない理由になるんですか? アイツは放っておけばいいでしょう?」
「長谷川さんのばかっ!」
気がついたら叫んでいた。なんで気持ちを理解してくれないのかと、どうしようもなく腹が立った。
「私は、長谷川さんのことが好きなんですっ! 長谷川さんはもうなんとも思ってないのかもしれないし、切り替えてるのかもしれないけど、私はそんなに早く切り替えなんて出来ないっ!」
「え?」
「部屋になんて上がられたら、期待しちゃうじゃないですか! 触って欲しいとか、キスして欲しいとか、そんな風にっ! ……それって、長谷川さんにとっては迷惑でしょう?」
言い切ってから後悔した。こんなことを言えば、長谷川を困らせることはわかっていたからだ。
もう好きになってもらえなくても、嫌われたくはない。それが陽菜の本心だった。
しかし、今の発言はきっとマイナスに働いただろう。
その証拠のように、長谷川は眉を寄せたまま、苦い顔で固まってしまっている。
「そういうことなので、失礼します」
陽菜は改めて背中を向けた。情けなさすぎて、本当に消えてしまいたい。
「わかりました。そういうことなら……」
長谷川が固い声を発したかと思うと、後ろに手を引かれた。そして、そのまま二人は長谷川の部屋に向かっていく。
長谷川はなんの躊躇いもなく自分の部屋を開けると、その中に陽菜を押し入れた。そして、自分も入り、後ろ手に鍵を閉める。
「えっ!? ちょっと!」
「えぇえぇ!? お兄ちゃん、私いるのに女の人連れ帰ったの? って、卯月さん!?」
陽菜の抵抗する声と、部屋の中にいた人の声が重なる。
そこには案の定、凜がいた。しかし、彼女は会社で見る彼女とは全く様子が違う。
上下のくたびれたジャージに、ヘアバンドで留めた前髪。桃色のネイルが輝くその手には缶ビールが握られていた。
「凜、今日は駅前のビジネスホテルに泊まれ。金なら全部持ってやるから」
「え、いいの? ラッキー! お兄ちゃん、太っ腹じゃん! でも、なんで? 部屋今から使うの? え、もしかして、二人って……? え? えぇえぇ!?」
大げさにおののいてみせる凜の様子を陽菜は呆然と眺める。
そんな陽菜の様子を知ってか知らずか、いつものような淡々とした口調で長谷川は凜を紹介した。
「陽菜さん、本人から直接聞いてると思いますが、改めて紹介しますね。片山凜、俺の実の妹です」
「は?」
すべての思考回路が停止した。
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