第21話

 空き巣事件から二週間が経った。あの荒れ果てていた部屋は元通りに戻り、陽菜はもう以前のようにその部屋で暮らしはじめている。

 大家さんのはからいにより、鍵は特注の物をつけてもらっているし、ロビーのオートロックは番号をかえてもらった。また、警察の方でもマンション付近の見回りを強めたらしく、あの空き巣の入った日から陽菜の周りで妙なことは起こっていない。長谷川との通勤も食事も続いているので、あんなことがあったマンションだが、陽菜は割と安心して暮らすことが出来ていた。

 そんな年末も近づいてきたある日……

「お、卯月。今日はなんだか女らしいんだな!」

「課長、それってセクハラですよぉー」

 会社でセクハラじじいと有名な上司の言葉に釘を刺したのは陽菜の後ろに控えていた芽依だった。芽依の言葉に上司は大口を開けて笑い、陽菜の腰を勢いよく叩く。陽菜はその勢いに前につんのめりそうになりながらも、上司に書類を手渡した。「これ、昨日頼まれた契約書です。それと、これが主な取引会社のリストになります。ライバルになりそうな会社にはマーカーで線を付けてますので、あとで確認してください」

「お前はほんっとに、仕事が出来るヤツだなぁー」

 礼を言いながら彼はまるで子供にするように陽菜の頭をがしがしと撫でる。陽菜はそれを手でうっとうしげに払いながら鋭い視線で睨みつけた。

「いやぁ、恋は女を変えるって本当だねぇー。長谷川とは上手くいってるのか?」

「上手くいくも何も、長谷川さんと私はなんの関係もありませんから。課長、いい加減にしないと本当にセクハラで訴えますよ?」

 こめかみをひくつかせながら陽菜がそう宣言すると、上司は身体を抱きながらわざとらしく身震いをしてみせた。

「そりゃないよー。ひなちゃんー」

「甘えた声出したって、可愛くもなんともないですからね。仕事してください。し・ご・と!」

「へい、へーい!」

 軽く返事をしながら去って行く後ろ姿を見ながら陽菜は軽くため息をつく。陽菜の後ろで芽依が口を尖らせながら「まったくー」と小さく文句を言っていた。

「って言うか、課長じゃねぇけど今日のお前、良いと思うぞー」

 まるでタイミングを見計らったかのように同僚がそう声をかけてきて、陽菜は顔を強ばらせたまま振り向いた。

「……何が?」

「『何が?』って……、その格好のことだよ! まさか女帝様のスカート姿を拝める日が来るなんて思ってもみなかったわ! 今日は髪も降ろしてるし、女っぽくなったって営業部内でも噂になってるぞ!」

 彼の言うとおりに今日の陽菜はいつものような男性的なパンツスタイルでは無い。上半身はいつも通りのシャツにジャケットなのだが、下半身にはスカートを穿いていた。髪もいつものように一つにまとめているわけではなく、おろしている。「今日はたまたまパンツをクリーニングに出してたから……」

 目を泳がせながらしどろもどろにそう言う陽菜に同僚はぐっと身を寄せた。

「またまたー。 お前足だけは綺麗だもんなー。目の保養、目の保養!」

「ちょ、じっくり見ないでよ!」

 寄ってきた身体を押し戻しながらそう言えば、

更に距離を詰められて陽菜は眉を寄せた。

「長谷川さんってそういうのが好きなのか?」

「だから、長谷川さんは関係ないって……」

 未だに強く残る噂に嫌気がさす。人の恋愛なのだから正直放っておいて欲しいのだが、どうにも周りがそっとしておいてくれない。

 そんな時、まるで陽菜を守るかのように芽依が同僚との間に滑り込んできた。

「そうですよー。先輩は人の恋路より、自分の恋路を心配した方が良いんじゃ無いですか? 先輩が狙っていた受付の香奈ちゃん、最近彼氏出来たみたいですよー」

「は? マジで!?」

「マジです」

 にっこりと微笑みながら芽依がそういうと、同僚は顔を青くしたまま、がっくりと肩を落とした。

 それを好機とみた陽菜と芽依はその場から足早に去って行く。デスクにもどり一息つくと、メールが来てるのが目についた。

『長谷川 薫』

 もう差出人の名前だけで物騒だ。

 陽菜がおそるおそるそのメールを開くと、たった一言書いてあるだけだった。

『昼休憩、いつもの場所で待ってます』

 ぞくりと背筋が寒くなる。顔を上げて長谷川のデスクの方を見ると、彼はにっこりと営業スマイルを顔に貼り付けていた。

(私、悪くないのに……)

 機嫌を損ねたのは明白で、陽菜はそのメールに『わかりました』とだけ書いて送り返したのだった。


◆◇◆


 使われていない資料室で陽菜は長谷川に追い詰められていた。普段誰も立ち入らないそこは、鍵が掛かる上に両側とも倉庫になっていて防音も完璧という、社内恋愛を隠したい二人にはぴったりの場所だった。

 壁際に追い詰められ、右側は資料棚、左側には長谷川の腕という絶体絶命の状態に陥っている陽菜は伺うように顔を上げた。見上げた先には営業スマイルを貼り付けた長谷川の姿。そんな彼に、陽菜は口を尖らせた。

「な、何か……?」

「今朝も思ったのですが、どうして今日はスカートなんですか? パンツをクリーニングに出してるなんて嘘でしょう?」

 やっぱりそのことかと陽菜は内心ため息をついた。

 もちろん、クリーニングなんていうのは嘘だ。陽菜は顔を上げないまま視線だけで長谷川を見上げて首を傾げた。

「……駄目でした?」

「駄目では無いですよ? その姿もよく似合ってると思います。……俺は単純に理由が知りたいだけです」

「それは……」

 言いにくそうに陽菜が顔を背ける。すると、長谷川の身体が寄ってきて、陽菜の膝の頭に長谷川の指が触れた。そのまま円を描くように膝を撫でられて、陽菜は身体を強ばらせる。

「ちょ、こんなところでっ!」

「理由は? まさか、俺以外の人に肌を見てもらいたくなったんですか? それとも桂木さんの入れ知恵ですか?」

 非難する陽菜をよそに長谷川は指を少しずつ上に上げていく。陽菜はこれ以上先に行かせまいと長谷川の腕を押さえ込みながら、赤い顔で目を潤ませた。

「やめてくださいって! 本当に!」

「営業部で噂になってますよ? 女性らしい君を見て、誘い文句を考えているような人もいましたね」

 手のひら全体が腿に触れて、陽菜は声を漏らしそうになった。触り方がまるで情事を思い出すようなのに、その手はそれ以上進んでこない。それがたまらなくもどかしかった。

「どうして突然、そんな格好を?」

 耳に唇が触れるぐらいの距離で、もう一度確かめるようにそう聞かれた。陽菜は必死で長谷川を押し返しながらキッと睨みつける。

「は、はじめに長谷川さんが、そういう女性が好みだって言ったんじゃ無いですか!」

「は?」

「女性らしい格好をする人が好みだって……っ!」

 赤くなった目尻でそう言えば、長谷川の手が止まって、距離が空いた。

「俺がそう言ったから、ですか?」

 確かめるようにそう聞かれて、陽菜は一つだけ頷いた。

 確かに長谷川は告白したばかりの頃『女性らしい容姿』の女性が好みだと言っていた。陽菜としては好きな人に好かれたいためにしたことだったのだが、どうやら長谷川はその理由に思い至らなかったらしい。その言葉を受けた長谷川は営業スマイルを崩し、目を見張って固まってしまっていた。

「長谷川さんが喜ぶかなって思っただけなのに……」

 頬を膨らませ恨み節を言う陽菜に長谷川は困ったように眉を下げた。

「すみません。少し不安になってたんです」

「不安……?」

 陽菜が首を傾げると、腿にあった手をどけて長谷川は彼女の頭をゆっくりと撫でた。

「君が急に女性らしくなったので、好きな男性でも出来たのかと……。そうでなくとも、君がそれ以上魅力的になったら、君を誘う男も増えるでしょう? そうなったらここまで君に近づいたのに、どこかでかっ攫われてしまうと不安になってしまって……。だから理由を聞いて止めさせようと……」

「好きな男性……?」

 陽菜としては『好きな男性』というのは長谷川のことなのだが、どうやら彼は自身と陽菜の好きな人というのがイコールで繋がらないらしい。

(え? 長谷川さんの中で私達って付き合ってない?)

 そこまで考えて、陽菜は今までの自分を振り返った。そして、あることに思い至る。

(私、長谷川さんに『好き』って言ったこと無いかも……)

 さぁっと、顔から血の気が引く。もしかしたら社内で長谷川のことを『関係ない』と言い張ってるのも、彼が『陽菜と付き合ってる』と思えない理由の一つなのかもしれない。

(ちゃ、ちゃんと言わなきゃ! このまま勘違いされたまま『付き合ってもない人と身体の関係を持つ女性』とか思われたら、ホント最悪っ!)

「長谷川さんっ! あ、あの、私……」

 陽菜が勇気を振り絞って声を張る。そんな時、資料室の外がなにやら騒がしくなった。

 何事かと二人して外を覗けば、ずらずらとスーツを着た人たちが奥の廊下を進んでいくのが目に入った。

 その中の一人に、とても綺麗な女性がいた。年齢は陽菜と変わらないぐらいだろうか。しかし、顔つきは大人びていてスタイルは抜群な女性だった。他にも女性はいるのに、その女性だけまるで光っているような存在感を醸し出している。モデルだと言われても信じるレベルの女性に陽菜は思わず感嘆の声を上げた。

 そのまま視線を長谷川に向ければ、彼は息を呑んで固まってしまっている。そして、陽菜に聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな声を漏らした。

「凜?」

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