第19話
「今日一緒に寝ませんか?」
その言葉に、二人の時間は止まった。額を撫でる長谷川の手は止まり、陽菜も顔を赤くして固まってしまっている。
そして、たっぷり十秒は固まったあと、陽菜はベッドから飛び起きた。
「ごめんなさい! 変なこと言ってすみません!! 忘れてください!」
目を真っ赤に血走らせ、陽菜は身体を二つに折る勢いで頭を下げた。
「長谷川さんも疲れているように見えたから、つい、というか……。迷惑かけちゃってて、悪いなって罪悪感もあったし……」
「……陽菜さん」
あわあわと言い訳を口にする陽菜をやんわりと止めて、長谷川はにっこりと営業スマイルを顔に貼り付ける。そして、陽菜に身体をぴったりとくっつけた。
「今、君は俺に襲われても文句は言えない状況なんですよ? わかってますか?」
「……はい」
地を這うような恐ろしい声に陽菜が身体を震わせながら一つ頷いた。
「襲われたいならそう言ってください。これでも一応、我慢してるつもりなんですよ? いろいろと……」
「……い、いろいろと?」
「はい。いろいろと……」
陽菜が繰り返した言葉を長谷川は更に強調する。細めた目の奥が笑っていない。これは怒っている。誰がどう見ても、長谷川は完全に怒っていた。
陽菜は数時間前とは別の意味の恐怖で身体を強ばらせながら、青い顔をする。すると、そんな彼女に気づいたのか、長谷川は肺から息を吐ききると、顔を片手で覆った。
「俺だって傷ついている君に無体なことはしたくないんです。ですから、そういう煽るようなことは言わないでください」
「ごめんなさい。……でも、長谷川さんも休んだ方が良いって思うのは本当ですよ?」
大丈夫ですか? と顔をのぞき込む陽菜の手が長谷川の頬に触れる。長谷川はその手を掴むと、布団の中に押し戻した。
「君はっ! いいかげんにしないと本当に襲いますよ!? 良いですか? 今の俺に不用心な言葉をかけない! 簡単に触れないっ! ……お願いですから守ってください!!」
「長谷川さんの方からは触れるのに?」
「うるさい!」
ぴしゃりと断じられて、無理矢理ベッドに寝かせられた。陽菜は掛けてもらった布団を口の辺りまで被りながら、長谷川を眺め見る。
いつもきっちりまとめているはずの前髪は垂れていて、いつもより幼く見える顔立ちに隈が出来ている。テーブルランプはオレンジ色なのに、それが照らす彼の顔は少しだけ青白く見えた。
(そう言えば、昨日も営業さん忙しそうだったんだよなー……)
まだ師走に入ったばかりだが、年末に向けて駆け込むように仕事が増えてきている。会社全体がバタバタしていて、営業補助である陽菜も忙しいのだが、営業である長谷川はもっと忙しそうだった。
彼はそんな中、陽菜の通勤に毎日付き合い、食事当番の日は手を込んだ料理を振る舞ってくれる。そして、ゆっくり休めるであろう明日からの週末でさえも、陽菜のために潰してくれようとしているのだ。
「何でそんなにいろいろしてくれるんですか?」
思わず漏れた心の声にはっとする。長谷川は陽菜の額を撫でる手を止め、優しく微笑んだ。
「言わなくちゃわかりませんか?」
「いえ、わかります。すみません……」
彼が自分に優しいのは気持ちがあるからだ。そんなことわかっている。返せる気持ちが定まってないのに何でそんなことを言ったのだろうと陽菜は恥ずかしくて布団を頭まで被り直した。
(そもそも、私は長谷川さんのことをどう思ってるんだろう……)
ふと、そんな疑問が頭をよぎった。
告白してくる前の長谷川の印象は、単なる仕事がよく出来る仕事仲間で、告白されてからの印象は上から目線の変な奴だ。
(なら今は……?)
そこまで考えて、頬がじんわりと熱くなった。
(好き……かも……)
胸の内を自覚すれば、あとは坂道を転がるように気持ちが大きくなっていく。止めようとブレーキをかける間さえも与えること無く、膨らんだ気持ちは、まさしく穴に落ちるようだった。
真っ赤になった目元を布団から覗かせると、優しげな視線が落ちてくる。まるで子供を扱うかのように頬を撫でられた。
「顔が赤いですね。熱があるんじゃないですか?」
そう言いながら頬から耳に手が走る。そして、耳の裏を指の腹で撫でられた。
「ひゃぁっ……」
思わず漏れた声に陽菜は口を覆った。長谷川も陽菜から手を離し、口元を隠す。手の端から覗く彼の頬は少し赤らんでいた。
「すみません……」
「いえ、私こそ……」
どうしようも無いほどに恥ずかしさがこみ上げてきて、陽菜はぎゅっと目をつむった。すると、長谷川はおもむろに立ち上がり、コートを羽織りだす。明らかに帰り支度を始めているようだった。
「あの……」
「すみません。もう限界なので帰ります。明日はちゃんと来ますので、今日はゆっくり休んでくださいね」
陽菜の方を向かないまま、長谷川はそう言って荷物を持って部屋から出て行こうとする。陽菜は慌ててそのコートの裾を握りしめた。
「ま、まって!」
「…………」
その陽菜の行動に長谷川は動きを止めるが、陽菜の方を振り返ろうとはしない。そのまま呼吸と止めているかのような間が空いて、長谷川はひとつ息を吐いた。
「約束しておいてすみませんが、今日はもう帰らせてください」
「……どうして……」
「どうしてって……君も一応大人なんですから、それぐらいは想像してください……」
長谷川はいらいらと頭を掻きながらそう言う。陽菜は長谷川のコートを持ったまま赤い顔で俯いた。
「あの、……いろいろしたくなるから、帰るって言ってるんですか?」
「……はい」
陽菜の方には一切振り向かないまま長谷川は一つ頷いた。陽菜はコートの端をたどり、長谷川の手までたどり着くと、その手をぎゅっと握りしめた。
「……それでも、そばに居て欲しいです」
「――っ! 君は意味がわかって言ってますか!?」
振り返った彼の顔は少し怒っているようだった。でもそれ以上に真っ赤に染まっていて、陽菜も真っ赤だった顔を更に染め上げて、首を縦に振った。
その瞬間、足を掬われ、ベッドに押し倒される。両腕を頭の上で縫い止められ、陽菜はあっけにとられた顔で長谷川を見上げた。長谷川はおもむろに眼鏡を外すと、少しだけ乱暴にサイドテーブルに置く。そして、なんの前触れも無く陽菜の唇に長谷川のそれが押し当てられた。
まるで噛みつかれるようなキスだった。上唇と下唇を交互に吸われて、強引に舌がねじ込まれる。歯列をなぞった舌先が、陽菜の舌を絡め取って丁寧に揉みしだいた。
唇が解放されたのは、それから数分後だった。互いの唇同士に銀色の糸がつたって、それを長谷川の親指が強引に断ち切ったのがどうしようも無く色っぽくみえた。
「は、せが……わ、さん?」
荒い呼吸を整えながら陽菜がそう言うと、長谷川は苦しそうな表情で低く唸った。
「そう言う顔をすると、俺の都合の良いように取りますよ? そんなのは嫌でしょう? お願いだから早く抵抗してください。じゃないと……」
「……抵抗しなきゃ駄目ですか?」
その答えに、長谷川が息をのむ。顔の横にある彼の腕に頬をすり寄せれば、長谷川は赤い顔のまま眉を寄せた。
「……後悔しますよ?」
「し、しませんよ! たぶん……」
「今日はあんなことがあったから冷静な判断が出来ないだけじゃ無いんですか?」
「それでも、……それでも、今日は長谷川さんの近くに居たいって、思ってます……」
精一杯の気持ちを告げれば、拘束されていた腕が解放される。そして、陽菜を跨いだまま、長谷川がコートを脱ぎ、床に落とした。そして着ていたシャツのボタンも外し始める。
「バカですか? 君は……」
「……バカって……」
「嫌だって言っても、もう止めてあげることが出来なくなりました」
淡々と告げられるその言葉は本当にいつも通りなのだが、端々に燃え上がる火のような熱が感じられる。
「嫌って、言わないので大丈夫です」
「……ホントに君は……最初は優しくしてあげたかったのに……」
その言葉が最後だった。あとはもう貪られるように体中を舐められて、キスされて、囓られて……。
最後は息が出来なくなるぐらいのもので何度も求められて、その日の夜は過ぎていった。
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