健診-健康を気遣う人々

由布 蓮

第1話

都会の片隅のある居酒屋に入るとこんな話が聞こえてくる。『健康には自信がある』と一人の年配のサラリーマンが口火を切ると次々と同僚らしき仲間達が話し出した。『唯一、自慢が出来るのが健康だけなんだ』とか、『今まで何の病気もしなかった』とか、『これまで病院には一度も通ったことがない』とか、そんな話題で盛り上がる。しかし実際どの位の人が健康自慢を出来るのだろうか。年々、増え続ける医療費。それは国だけでなく庶民の暮らしにも直結する大問題。見過ごすことが出来ない社会問題の一つなのだ。その反面、健康に気遣う人も少しずつ増えている。


これまで健康自慢と思っていた広山 元も数年前まではそう考えていた。子供の頃から運動が得意で中学では軟式野球部、高校ではサッカー部、大学では幾つかのスポーツ同好会に所属していた。働くようになっても時間を見つけては登山、水泳、ランニング、マラソン。そして結婚し子供が生まれると少年野球のコーチまでも引き受けていた。試合直前の週末になると朝から出掛けていた。


元は六月末で働き盛りの四十一歳になる。世間では前厄と呼ばれる年齢だ。五人家族で妻と女の子供が三人いる。少年野球のコーチを引き受けたのも期待していた男子も生まれず、そんな理由からコーチになったのだと言う専らの噂だった。


毎年、四月に入ると入学式や入社式が行われる。元の会社でも四月初めに入社式が終り研修期間中の四月末から五月初めに掛けて全社一斉の健康診断が行われていた。それが終わるとゴールデンウィークに入る。これも長年の行事として行われており、元も、その二週間前になると気を付けて生活をしているが、それ以上に妻と三人の女の子の八個の目が何時も以上に厳しく見守っていた。


妻の香も三人の子供達もこれまでに大きな病気をした事がなく誰もが健康だった。どの子供も妻の香の影響を受け、特に次女の愛は小学校の時から部活をしているせいか体も大きく、それに走るのも早く運動会ではリレーの選手に選ばれていた。


四月初めの金曜日の朝だった。三人の子供達は春休み真最中。そんな時期に妻の香が台所の壁に掛けている大きなカレンダーを見ながら夫の元に話し掛けてきた。

「あなた今月は健康診断を受けるのでしょう。一体、いつなの」

元は朝食のパンを口に挟んだまま言った。

「今のところ聞いているのは、今年も連休前って、数日前に社内メールがきたんだ」

香は言われた通りにカレンダーに記した。そして振り向くと元は焼き立てのトーストを美味しそうに食べていた。時々、テーブルに置かれたコップに入った冷たい牛乳を飲み、その日も香の話を聞いていた。

「と言うことは来週からからね」

「何をするんだ」

「節制よ、毎年しているのよ」

「わかったよ」

この日もあっけない返事をした元だったが、妻の香は別段驚きはしなかった。数年前には微かな抵抗をして妻や子供達を困らせていたが、今では人が変わったように自分の体を気遣うようになった。それもその筈、そろそろ社内でも中間管理職候補の一人だったからだ。

「あなた、その日までは野菜中心の生活だからね。甘い物も当分控えて朝から規則正しい生活するのよ」

と自分を管理するかのような妻の口ぶりは、この時期になると更に厳しくなる。

「分かったわね。あなた」

妻の念の言葉に元は首を縦に振った。

この命令口調が嫌だったが、それもやっと慣れ出した。

それもそのはず最近は健康を気遣ってくれる妻に感謝しているほどだった。

「お父さん、私も応援するからね」

夫婦の話を聞いていた、今年、高校受験する長女の恵も言葉をかけてくれた。春休みのために朝から同級生と合う約束で早めに起きて支度をしていた。

「お父さん、私も手伝うからね」

次女でこの四月に中学に新入学する愛も耳元で励ますように言った。

その愛も地域の陸上クラブに参加するために支度をしていた。

「私もするからね」

たった、今、起きてきたばかりの三女の瞳までが理由も知らずに話したのだ。


そんな四人の目が元の励みにもなり時にはプレッシャーにもなったりした。

「でも今年は厄年だからね。… 何時も以上に健康には注意しなければならないんだ。…」

そう言うと椅子から立ち上がり、そのまま廊下に掛けている姿見の前に行った。元はマジマジと自分の姿を眺めた。ベルトの位置も結婚前と変わらず体型的には変化がなかった自分の姿が写っていた。

すると香は、一旦、台所仕事を止めて、そのまま出てくると身支度を整えている元に言った。

「パパも自覚しているのね。でも恰好いいよ。愛しているよ」

香が励ますと同時に鞄を差し、そのまま見送った。

「じゃ、行ってくるね」

すると元はサンダルを履いた香の右頬に軽くキスをして家を出た。

そのまま急ぎ足で会社に向かった。


広山が住むマンションは千葉市稲毛区にある。その為に専らの運動は自宅から職場までの徒歩と電車通勤だった。十一階建てのマンションの七階に住み、普段はエレベーターを使わず階段の昇り降りで済ませていた。そこから稲毛駅まで歩いて行くこと十五分。一時間ほど電車に揺られて到着した新宿駅からは再び歩く。それも急ぎ足で十五分も歩くと職場に着く。これが彼の転勤してからの日課で健康の秘訣だった。


職場でも久々の内勤だった。その部署にも数年前に移動になったばかりだ。殆ど出歩くこともなく、唯一、出掛けるのは昼食の時だけだ。それも彼にとっては良い運動になっていた。


その結果、以前よりも足腰が強くなったと自覚していた。車も運転するが使うのは専ら妻の買物と雨が降った時の家族の送迎だけ。それに少年野球で教える時だけで、その日は朝から夕方まで体を動かしている。


広山 元と香にとって、この四月は忙しい時期だった。来週の月曜日から長女の恵と三女の瞳は、それぞれの学校に登校し中学三年と小学四年になる。次女の愛も、その三日後の木曜日に恵と同じ公立中学に入学する。


その日には夫婦で愛の晴れ姿を見るつもりでいた。事前に先月末から有給休暇を取り、式が終わるとそのまま三人でファミリーレストランに行き昼食を食べると、その日だけは愛と過ごす積りでいた。その為に明日の土曜日は長女の恵と三女の瞳を連れて楽しむ予定でいた。そんな事を考えながら朝の満員電車に揺られて職場に向かった。


元が勤める職場でも研修中の二名の新人が加わった。同時に社内移動もあり課長だけが入れ替わった。前課長は昨秋に体調を崩し長期入院となったために会社を止むを得ず去った。あと三年も頑張れば定年と言われていただけに惜しかったと誰もが思っていた。新任の課長も元より7歳上。彼の子供達は一番下が長女の恵と同世代。話が合いそうだと思った。そうなると話の話題は家族や子供のこと、健康のことだった。そんな事を密かに期待していた。


その日は新任の課長の挨拶が終わると直ぐに初ミーティング。お互いに自己紹介が終わると、来週末に歓迎会をすることになった。その担当は古手になりつつある元に決まった。

「広山さん、これから宜しくお願いします」

課長席から広山の席にわざわざ降りて来ると挨拶をした。

「こちらこそ、宜しくお願いします。前任の課長が突然辞めましたので、何か分からなければ教えますから」

広山は答えた。

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