『面屋』(2007年01月05日)

矢口晃

第1話

 ――平凡な半生でした。ごく普通の大学を卒業してから、ごく普通の商社に就職し、三十歳で結婚してから、一男一女を授かりました。二人の子供を育てるために一生懸命働きましたが、会社では低能だのぼんくらだの言われながら上司にこき使われ、高くはない給料をせっせと家に持ち帰りましたが、その家では生活が苦しいだの小遣いが少ないだの、妻や子供たちからなじられる始末、何のために働いているのかわからなくなってしまいます。

 その子供たちも、去年は息子、今年は娘と相次いで成人しました。二人とも学校は卒業していますから、もう今後学費の心配はありません。まだ息子にちゃんとした就職先が見つからないのは少し気がかりですが、今のところはアルバイトをしてお金はえていますし、まあいずれ何とかなるでしょう。娘はフランスに絵の勉強に行きたいと言って、こちらも必死でアルバイトをしてお金を稼いでいます。

 とりあえず二人の子供も無事親離れが済んだということもあり、私もそろそろ、自分のための人生を歩んでもいいかなあ、なんて思っている次第なのです。今までがあまりにも平凡に時間を使いすぎましたから、ひとつここらで変わってみたいと思うのです。勝負してみたいのです。わくわくすることをしてみたいのです。できないでしょうか。


 ――あなたのおっしゃることは大変によくわかりました。そういうお客さんはね、実は最近とても多いのですよ。ここに訪れるお客さんの七、八割はあなたのように平社員のまま中年まで達してしまった方たちばかりです。いや、これは失敬。つい余計なことまで喋りましたが、まあ先にご苦労様でしたと申し上げておきましょうか。今までご家族のために自分を犠牲にして懸命に汗を流して来られたことは、十分に賞賛に値することだと思います。ご苦労様でした。

 さて、そこであなたにお伺いしたい。あなたは今さっき、わくわくするような人生を過ごしてみたいと、そうおっしゃいましたね。そこで、具体的に何かお考えではいらっしゃいませんか。具体的にこの職業についてみたいと言ったような。


 ――そうですね。具体的には、まだ何も考えてはおりません。ただ漠然と考えているのは、一か八かの大勝負に出てみたいと思っているのです。当たれば莫大な金が入る、しかし外れればもう人生が台無しになるというような、そういう勝負がしてみたいのです。そういうぞくぞくするような仕事はないでしょうか。


 ――あなたのおっしゃるわくわく感と言うのはそういうことでしたか。わかりました。あなたが初め「勝負をしたい」とおっしゃったので、格闘家にでもなりたいのかと思っていましたが、そうではないのですね。わかりました。

 そういうことならば、おすすめしたいものはたくさんありますがね。まあその中でも一番スリルが味わえるものと言いますと、そうですねえ。


 ――何かありますか?


 ――ええ、ありますよ。そうだ、これなんかどうでしょうか。ワイナリーの経営者と言うのは。


 ――ワイナリー?


 ――はい。ワインの醸造を手がけるのです。


 ――それはいけませんね。


 ――ほう、なぜです?


 ――なぜと言って、私は酒が大の苦手でしてね。一滴も飲めはしないのです。そんな私に、ワインの醸造者が務まるようには思えません。


 ――なに。心配はいりませんよ。あなたはあくまでも経営者という立場になるのです。実際にワイン造りを手がけるのは職人達なのですから、あなたがたとえお酒を飲めなくても、経営者としての能力さえお持ちならば問題はないわけです。これほどあなたの理想にぴったり来る仕事は他にないと思いますよ。何しろ、ワインが一本当たってごらんなさい。あなたのところには世界中の問屋がワインの買い付けに訪れ、多くの企業がスポンサーとして立候補して来るでしょう。そうなればお金なんて嫌でも入ってきてしまいますよ。使えきれないくらいね。ただ、外れたときの代償は計り知れません。なぜならあなたはワイン醸造を始める前に、すでに莫大な借金をして広大な葡萄畑を買い取っているのですからね。五年、いや三年のうちに結果を出さないと、あなたは生きていけなくなるかもしれません。

 こんなにスリルに富んだ仕事は他にないと思いますがね。いかがです?


 ――ワインというのはそんなに儲かるのですか。わかりました。やってみます。


 ――やりますか? わかりました。それでは、これがワイナリー経営者のお面です。このお面を着けさえすれば、あなたは今日からでもワイナリー経営者になれるわけです。


 ――この何の変哲もない、プラスチックのお面を着けさえすれば、私の人生は変わるわけですね。


 ――はい。もちろんですとも。


 ――わかりました。では買いましょう。おいくらですか。


 ――二千六百万円です。


 ――に、二千六百万円ですって?


 ――はい。安いものでしょう? たったそれだけで、あなたの運命が変えられるのですから。


 ――ばか言っちゃいけない。そんな金、持っているわけないでしょう。


 ――何、心配はいりませんよ。あなたの退職金がある。二千万円のね。それを担保に売ってあげますから大丈夫ですよ。


 ――じょ、冗談じゃない。こんなお面に、そんなに払う馬鹿がいるか。やめさせてもらう。


 ――はいはい。結構ですよ。これでわかったでしょう? あなたには、そもそもそんな素質ないのです。一か八かの人生を歩む素質なんてね。

 だってそうでしょう? 運命を変えるために、たかだか二千数百万円の出費をするのにさえ、そんなにためらっているのですから。

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『面屋』(2007年01月05日) 矢口晃 @yaguti

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