男と女 3

藤村 綾

男と女 3

【別れよう】

 男が業を煮やしメールをしてきた。うすうすは気がついていた。いつかは来るだろう言葉に。怯えていた。案の定来てしまったメール。あたしはしばらく世界一見たく無かった言葉を呆然と見ていた。

 「なんでこうも約束が守れないんだ」

 男に何度も叱咤されていた。あたしと男は家が離れていて、迎えにくるとなると、片道40分はかかってしまう。逢う約束をしていた矢先、他の男から電話があり、あいたいと言ってきた。その男(第二の男)は逢うとお金をくれる。性的なことなどしなくても、あうだけでお金をくれる。あたしはそこで考える。

(男と逢ってもお金にならない。また次逢えばいい。けれど、第二の男はそうそう誘ってはこない。お金が欲しい)

 あたしは、否応無しに後者を選び、待ち合わせ時間の10分前に男にメールをした。

【ごめんなさい。急用で。また今度にして。ごめんね。ハート】

 あたしよりも男の方があたしのことを好きだという果敢とした自信があり、一度や二度約束を反故した分で怒りをぶつけて来る男だとは思ってはいなかった。つき合って半年。凡庸につき合ってきたけれど、お互いに粗が見え始め、男の恋の色が赤からだんだん薄暗い褐色に変化をしていくとは、皆目思っては居なかった。

【わかりました】

 やや、時間を要したあと、男からメールが届いた。きっと、あたしの家の近くまで来ていたのだろう。書いてはなかったけれど、時間的にその時間だった。あたしは悪いなぁと思いつつ、思っただけでそれ以上なにも感じなかった。仕事が終わり、クタクタにくたびれた中で、あたしを迎えにきた男。腑が煮えたぎっていたに違いなと思ったのは別れのメールの少し前だった。

【鍵は郵送でいいです。今までありがとう】

 また、短文が送られてきて、あたしは、ひどく驚嘆をした。ユウソウデイイデス。ユウソウデイイデス。何度も読み直した。そのあと、また、チンという忌々しい音と共に律儀に男の家の住所が送られてきた。

 腹が立った。腹が立つ立場ではないことは分かっている。随分と勝手な女だということは重々に了承している。あたしの怠惰な性分を理解しようとした男だったけれど、もう限界がきたようだった。あたしの生活スタイルに合わせてくれる男など今までいやしなかった。

 どの男も口並みを揃え言っていた台詞がある。

『カナのことよくわからない』『すきでもきらいでもない』

【いや、鍵はあって返すから】

 あって返すと、返事をした。その日はこれでメールは途切れた。男はきっと考えているに違いない。あって。逢ってなのか、会ってなのか。ということを。


 次の日、【20時半に駅に来てください。必ず時間厳守。守らないと帰ります】

 ある種、あたしには脅迫メールに思えた。時間厳守の部位をやけに強調していて、時間厳守の部位だけ赤文字に見えた。時間を守らないといけない。あたしは、珍しく(いや、初めてかも)約束の時間よりも一本早い電車に乗った。

 【今電車に乗った】

 一応メールをしておく。約束の時間より30分程早く着く。早いには超したことがない。最後になるかもしれないから最後はきっちりと時間厳守を守った。

 改札に痩せた男が作業服でぼーっと突っ立ていた。まさか、居るなんて思わなかったので、えっ、という間抜けな顔をしていたみたいで、

「なに?そんなに驚いて」

 男はいつもと相違ない口調であたしの方に視線を向けた。

 男が、手のひらを差し出し、何も言わず待っている。

「え?なあに?」

 分かっていた。鍵を返しに来ただけだという体になっている。

「だから」

 顔色を変えず男は、だから、早くと急かす。

 あたしは、苛立ってしまい、

「本当に鍵だけ返しに来ただけだと思っているの?ねえ?」

 男が手をゆっくり元の位置に戻し、俯いて押し黙った。

「……、じゃあ、車に」

 とりあえず、と、付け足し、車に乗り込んだ。

 久しぶりに助手席に乗った気がした。前回乗ったときに買った爽健美茶と、雪見大福のカラ箱がそのまま残っていた。捨ててなかったんだ。なぜか不思議と安堵を憶えた。あたしの影を残してくれていたような気がして。

「どうするの?」

 男がどうしたいの?というのを、あえてどうするの?に変換したのが分かった。なんて不器用なのだろう。はっきりと言えばいいのに。帰ってくれ。もう、降りまわされるのはたくさんだって。言えば。

「どうしたいの」

 逆にあたしが怒気を含んだ声音で語尾あがりに質問を返す。

 虚無な空間がとても長く感じた。

「抱けないよ。もう」

 男が男らしくない台詞を口にした。思わず、

「意気地なし」

 マフラーで半分程隠れた声はくぐもって車内に埋もれた。

 あ、あたしは言ってはならないことを言ってしまったと後悔をした。

「俺さ、」

 男が声を潜め話し出したと同時、車が動きだした。行こ、じゃあ。と、ささやかな声が微かに耳の奥に入ってきた。

「香奈のことが最後まで全く分からなかったよ。なんで、そんなに人をそうも簡単に苛立たせるの?なんで?俺のキャパが狭いのかな?」

「なんで。なんでかな?香奈(かな)だから?」

 くつくつと肩を震わせ小さく笑ってみたけれど、うまく笑えていたかは定かではない。男は呆れ顔をし、ただハンドルを握りしめていた。助手席に乗って、どこかに一緒に出かけるのが好きだった。秘湯に行ってみたいよね。などと、言い合っていたことをふと思い出した。現実味が全く湧かないでいた。いつ、秘湯に行く?などと言ってしまいそうだった。男は無言のまま眉間に皺を寄せているはずだ。信号待ち。男の方に視線を向ける。背にコンビニが丁度あり、逆光で男の顔がひどく真っ黒で輪郭だけが浮かびあがり、あたしの知らない誰かといるような気配に苛まれた。

「なおちゃんは?どこ?」

 あたしは声に出してゆった。

 男はあたしを一瞥し、なにゆってるんだ、とは言わなかったけれど、そのような形相であたしを不振そうに眺めていた。


「終電は22時37分だから。その前に送る」

 うん。あたしは、首をこくりと折り、男の隣にあたりまえのように座った。

「なんか、香奈は違うんだ。なにかわかならいけれど、なにかが俺と違うんだ」

 男がよくわからないことを急に話し出した。さらに付け足すように続ける。缶ビールのプルタブに手をかけ、プシュという音とともに泡を舐めた。

「悪いとか、思わないの?俺のことコケにしてるの?」

 あたしは犬のように首を必死で横に振る。

 反省の色も見えないし。さらに重たい言葉を重ねる。最後だから言いたいことをいうと意を決し言っているに違いない。男がこんなに饒舌になるなんて初めてだった。最後に別の顔を垣間見た気がした。

「わからない」

 あたしは男をじっーと凝視した。わからないの。もう一度言った。

「これがあたしだから、わからないの。なにが悪いのか全く」

 男はやれやれと言わんばかりに立ち上がり、コンビニで買ってきたチキン南蛮を食べ出した。

「シャワー借りていい?」

 返事も待たずあたしは、寒い中シャワーを浴びた。寒い、寒いと震えながら、いつも交わっていた布団に潜りこんだ。

「俺もしてくる」

 寡黙な男だ。更に寡黙さが増していて、部屋に入ってから一度も笑顔を見てはいない。あんなにたくさん笑ったのに。あんなに優しい目をあたしに向けてくれたのに。もう、あの日のなおちゃんはいない。あたしは、今、あたしを愛してくれていたあの日の男といない。同一人物だけれど、全く別の人種。分かっている。惰性であたしを抱くことを。

 天井を見上げる。見慣れた天井がやけに今夜は汚く見える。まあるい電球。古くて煩いエアコン。枕が2つ。あたしのはピンクの子ども用枕。香奈用と買ってくれた枕。男の枕は薄汚くなっていた。男の匂いがした。この布団で何度も何度も抱かれた。抱かれる度に好きになり、抱かれる度に男は離れていった。あたしは離さないと躍起になり、嘯いた演技をし、たくさん男に甘い蜜を吸わせた。床が上手いと男が逃げないと思っていた。あたしは床上手だから。バカだけどそれだけが取り柄だった。その取り柄さえも凌駕する怠惰さにあたしも自分自身に嫌気が刺す。本当は分かっている。自分が一番分かっている。

「寒い、寒い」

 男がシャワーから飛び出てきた。寒い、寒い、と震えながら布団の中に入ってくる姿はまるで子どものようだった。あたしたちは同い年だ。精神年齢が女の方が高いという説はあながち間違ってはいないけれど、あたしとなおちゃんは同等だと思う。あたしもまるで子どもだから。

 なんとなく、電気がお休みモードになり、なんとなく始まった。抱けない。などと豪語していたくせに。などという思考もありつつ、男と言う生き物について学習してみる。

 別れを前提にしたセックスでも、きちんと律儀に勃起をするんだな。男は脳と身体は別ものなんだと確信をした。している最中に、

「あたしのことすきなの」

 なんどもキスを交わしたあと訊いてみた。けれど、その台詞をいうたびに、唇を塞がれ息を出来なくした。男はあたしをバックの体勢にし、何度も、何度も、渾身の力を込めながら啼かした。ああ、たまに、男が悦の嘆息を吐くと、またあたしの所へ戻ってくるのではないのか。という変な確信があり、ああ、と吐く悦の声音はあたしの欲情のスパイスになった。部屋の湿度がほんのりと上がり、男はあたしの中で果てていった。死んだように2人して肩で息をし、保安灯をぼんやりと見つめていた。現実があたしの身体を引き戻す。男は何も言わず汗ばんだ身体であたしを引き寄せた。

「ありがとう」

 なんだろう。ありがとうって。視界が歪み、あたしの頬に温かい液体が伝う。 あたしは温かい胸で泣いていた。もう、この胸に抱かれることはないだろうと思うと、余計に切なくなり泣いていた。ひっそりした夜。雨の音がしとしと聞こえる夜。最後の夜にとてもふさわしいと思った。

 「じゃあ」

 駅で降ろしてもらい、屈託のない笑顔を向け、したり笑顔でバイバイをした。

 男の車が見えなくなるまで見送った。

 あと、10分で電車が来る。

 

 人があまりいない時間帯なのが功を奏したとばかりにあたしはバカみたいに大声を上げ泣いていた。鼻水も垂れるがまま、お構いなしに泣き崩れた。

 息が出来ない。助けて、なおちゃん……。

 水中に投げ出されたあたしにの上に雨粒が容赦なく落ちてくる。

 「やだ、やだぁー」

 なにが嫌かわからない。ただ、泣きたかった。雨に打たれて。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

男と女 3 藤村 綾 @aya1228

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ