第二回 復讐するは――(中編)
雷蔵が棲家に戻ったのは、翌日の朝だった。
趙教が、この寮へ足を運ぶ事は少ない。二十日に一度の頻度で姿を見せれば方で、先月は一度も姿を見せていない。どうやら、大店の主は忙しいらしい。
その寮の広い庭の片隅で、羽合が木剣を振っていた。
諸肌にった羽合の線は細いが、程よい筋肉もついている。剣術は一応に修めたそうだが、雷蔵が見るに道場剣法だった。だが最近は熱心に励んでいて、時には城下の道場にも通っている。
「戻ったか、雷蔵」
羽合が手を止めた。細い身体には、大粒の汗が浮かんでいる。
「遅かったな」
「日暮れには間に合いませんでしたので」
あれから城下で一泊した。そうした時の為に、定宿が一つある。それも松戸屋の口利きによるものだった。
「どうやら上手く行ったようだな」
「ええ、まぁ」
「富嶽一家の手柄だと聞いたが」
「そう聞いたのならば、その通りなのでしょう」
梅五郎は計画通り、富嶽一家が始末した事になっている。銭や名誉欲の為に働いていない雷蔵にとって、誰の手柄になろうが問題ではない。
「雄勝に来てまで、斯様な真似をする必要は無いのだ。恩返しとは言え」
「私は、これしか出来ませんから」
「何を申すか。お前は吏僚としても優秀なのだぞ」
また、その話か。と、雷蔵は思った。
雷蔵も羽合も、雄勝藩に仕官の誘いを受けているのだ。既に栄生家への忠誠など失せたと言う羽合は前向きであるが、雷蔵はにべもなく即断で拒否している。
忠通や雄勝藩には、深い恩義がある。保護してくれただけでなく、夜須藩からの引き渡し要求に対して、戦も辞さぬ覚悟で拒否してくれたのだ。また、勤勉でお人よしが多い民情や、厳しいが美しい風土も好ましく思える。
だが、復讐があった。父の無念を晴らす為、嫡流を利景公の血筋に戻す為、利重を殺さねばならない。雄勝藩に仕えるにしても、まずはその後の話だ。
「それより、剣術に精が出ますね」
雷蔵は話題を変えた。
「最近になって、楽しいと思えるようになった。以前は嫌々していたものだが」
羽合は、
「それは良い事です」
「だが、身体はきついな。今まで疎かにしてきたツケだろう」
それでも、羽合の腕前は格段に上がったように見える。それは暇を潰すかのように始めた稽古の成果もあるが、逃亡の最中で実戦を何度も体験したからであろう。
羽合を救出し雄勝に入るまで、幾度も夜須からの追っ手と刃を交えた。そこで初めて羽合は人を斬った。その経験が大きく作用しているのだ。実戦に勝る経験はない。
「そう言えば、貞助から便りがあったぞ」
羽合がそう言って、木剣を正眼に構えた。
「へぇ。そうですか」
「今は黒河にいるそうだ。何でも飯が旨いらしい」
「気楽なものですね、あいつは」
「羨ましい限りだ」
忠通は英明な藩主であり、視野も広い。尊敬に足る男であるが、雄勝藩の家風は、上下の別が厳しい。下士に属する貞助は、執政府の判断で、保護対象とならなかったのだ。本人はその事に不満を述べていたが、自分や羽合の窮屈な軟禁生活を目の当たりにして、旅に出てしまったのだ。
それから雷蔵は、居室に戻ってひと眠りした。眠ろうと思えば、いつでも泥のように眠れる。そんな身体になっている。目が覚めたのは、昼もかなり過ぎた頃だった。
雷蔵は、母屋にある食堂に入った。
板張りに、長机が置いている。縦に長い造りで、時には此処で宴会を催す事もある。
厨房からは湯気が立ち上り、出汁のよい香りがしてきた。昼時を終えたからか、女中達がのんびりとしている。
「あら、雷蔵さん。食べていくかい?」
中年の肥えた女が、顔を出して訊いた。もう此処に住んで一年になろうとしている。女達とも、馴染みになっていた。
「頼みます」
「飯か饂飩、どっち?」
「では、飯で」
「大盛りだね」
雷蔵は首肯の代わりに微かに笑みを見せ、奥の席に腰を下ろした。
食堂では、いつでも飯が食える仕組みになっている。夜には、一人に銚子一本の酒も出す。この日も、三人の男が各々飯を掻き込んでいた。その三人も雷蔵同様に、趙教が抱えている食客である。
趙教は見所がある文人墨客から学者、武芸者などを食客として抱え、その面倒を見ているのだ。その数は十五名を越え、彼らの為の長屋を庭に構えている。
趙教という男は、人好きなのだ。だから面白いと思ったら、すぐに誘ってしまう。出て行くのは自由で、一度認められれば戻ってくるのも自由。故に、今いる十五名も明日には五名になるかもしれないし、二十名にもなるかもしれない。
「お待ち」
女が膳を運んできた。大盛りの飯に、秋刀魚の塩焼き、そして味噌汁に香の物が添えられている。
雷蔵は秋刀魚で飯を一杯、そして味噌汁で飯をもう一杯流し込んだ。
「相変わらず、顔に似合わず大食漢ですねぇ」
食後の茶を啜っていると、男が側に来て言った。
絵師の
「廬江殿ですか」
「へへ。どうも」
と、饂飩を乗った盆を置いた。
「平山様の食いっぷりを見ていると、こっちまで腹が減って来ますよ」
「ならば、その饂飩を食べればいいでしょうに」
「まぁ、そうなんですが」
「相変わらずお喋りな人だ」
雷蔵は廬江を避けるかのように席を立つと、外から女の金切り声が聞こえた。
雷蔵は廬江と顔を見合わせ、外へ飛び出した。声がしたのは、母屋を出て奥、離れの屋敷の方だ。そこでは羽合が起居している。
食客や奉公人が集まり、人だかりが出来ていた。雷蔵の姿を認めると、その群衆が二つに割れた。
「羽合殿」
羽合が、抜き身を手に対峙していたのだ。相手は、趙教の用心棒をしている浪人。名前は覚えていないが、顔を何度か観た事がある。
「平山様」
初老の小男が、駆け寄って来た。趙教だ。珍しく、寮に来ていたのか。
「止めてくだされ、平山様。あの二人を」
「いくら趙教殿の頼みでも、難しいですね」
もう止めようは無い。相正眼の対峙。潮合いは既に満ちていて、今自分が踏みだしても、それが切っ掛けになって二人は斬り合う羽目になる。
「もし、羽合様に何かあれば」
「心配は無用です。羽合様の腕前は並以上のものですから」
「ですが、もし相手がそれ以上だった場合は」
雷蔵は無視した。もしその場合は、羽合は命と縁が無かっただけだ。すると、趙教は青くなり、頭を抱えた。
無理もない。羽合と自分は、忠通に預けられた大切な客なのだ。しかも、それを襲ったのが自分の用心棒となると、当然ながら趙教の責任問題になる。
「しかし、どうしてこのような事に」
「それは私が聞きたいぐらいですよ。私の用心棒がいきなり切り掛かったのですから」
おそらく、その用心棒は夜須からの刺客、或いは雇われた始末屋だったのだろう。趙教も口では判らないと言っているが、おそらく勘づいているはずだ。
浪人が、正眼から上段に構えを移した。羽合も身を引いて、八相に変化させた。
(そろそろか)
と、雷蔵が思うとほぼ同時に、浪人が気勢を挙げた。
踏み込み、気合に満ちた大上段からの斬り下ろし。羽合は動かない。防ごうともしない。
浪人が降り下ろす。が、そこに羽合の姿はなく、代わりに浪人の首筋から血飛沫がたった。
「お見事」
その華麗な動きを目に捉えた雷蔵は、思わず声を挙げていた。
羽合は八相のまま相手の斬撃を待ち、その寸前で身を翻して背後に周り、首筋に一撃を与えたのだ。
浪人を
「趙教殿、庭を汚してしまった。申し訳ない」
大粒の汗を浮かべた羽合が、喘ぐように言った。
「なんの。こちらこそ、申し訳ございませぬ。まさか身内に刺客が紛れ込んでおろうとは」
「まぁ、相手も考えているという事ですよ」
刺客が寮に入り込むという事は、考えてもいなかった。利重か八十太夫か。誰が差配しているか判らないが、夜須藩は是が非でも、自分達を始末したいようだ。
「雷蔵、どうであった?」
羽合が雷蔵を見つけて訊いた。
「正直、紙一重でしたが素晴らしい一撃でした」
「荒神一羽流の奥義、
「羽合様らしい、美しい返しの一太刀でした」
雷蔵が肩を貸し、羽合を引き起こした。
「お前に言われると嬉しいな。ほれ、手はまだ震えておるが」
「相手も中々の腕前でした。仕方ありませぬよ」
「ふむ。頭で色々と考えていたが、どうやら剣は感覚が重要なようだ」
「それに気付かれたのなら、もっと上達しますよ。ですが、このような立ち合いはお控えください」
「おいおい。私とて控えたいのだ。そういう事は先方に言ってくれ」
羽合が珍しく莞爾として笑い、雷蔵もそれに釣られた。こうして笑うのは、一年振りだった。
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