間隙 庚戌の獄

 添田甲斐は縁側から庭の菜園で土を弄る若い下男を眺めていると、妻のおえんが大きな身体を丸めて茶を運んできた。

 秋晴れの午後、楽市村の別邸である。


「お前さん、何を呑気にぼうっとしているんですか」

「ああ、太吉たきちをな、見ていたのだ」

「太吉を?」

「そうだ。よく働くものよ、あやつは」


 視線の先では、太吉が齷齪あくせくと鍬を動かしている。

 太吉は楽市村の百姓で、生まれつき知恵が足らなかった。それ故に厄介者扱いを受けていたが、ゆっくりだが真面目な働きぶりを見込んで、下男として雇い入れたのである。


「そうでしょう、そうでしょう。わたくしが見込んだのですから、間違いはございませんよ」

「それについては、儂は否定せんよ」


 太吉は、おえんが連れて来たのだ。最初は虐めを見るに見かねてだと思ったが、それだけではない事は雇ってみて判った。

 楽市村は、添田家の知行地である。しかし、首席家老としての職務に掛かり切りになり、実際の経営はおえんが掌握していた。太吉の性根を見抜いたのも、村をじっと見ていたからであろう。

 女ながら、肝が太かった。身体も太い。故に、近郷では自分とおえんの事を〔仁王とぼうふら〕と呼んでいる。それに対し、甲斐もおえんも怒る事は無い。〔仁王とぼうふら〕とは、事実なのだ。

 おえんは、二歳年上で商家の行かず後家であった。出会ったのは、もうどれ程前だろうか。まだ甲斐という仰々しい名ではなく、源太郎と名乗っていた頃だ。長崎のオランダ商館長カピタンの女房に手を出して、夜須に匿われた甲斐の世話を仰せつけられたのが、城へ奉公に上がっていた、おえんだった。

 おえんはその頃から肥えていて、甲斐の好みではなかった。しかし、かいがいしく世話をする姿を眺めているうちに、ついつい悪い虫が騒ぎ出し、気が付けば褥の中にいて、裸で抱き合っていたのだ。女遊びが好きで、南蛮女にまで手を出した自分が、最終的におえんという巨漢の行かず後家と結ばれる。まるで戯作げさくにありそうな洒落ではないか。

 それでも三人の子に恵まれ、人並みの幸せを手に入れたのだから、おえんには感謝しかない。


「ねぇお前さん。そろそろ、隠居する時期じゃないんですかねぇ」


 おえんが、土を弄る太吉の背中を眺めて言った。隠居という突拍子の無い言葉だが、甲斐は何故か驚きもしなかった。


「そう思うか?」

「潮時でございましょう? 若い人もお育ちになられたようですし、それにもう利景様もおられませんよ」


 甲斐は、否定も肯定もしなかった。ただ、茶に手を伸ばした。

 常寿丸がいる。利景の一粒種を、利重の野望から守らねばならない。そう思えば、まだ隠居するわけにはいかない。

 これは、利重との戦いなのだ。政事という刀で斬り合う、立ち合いとも言える。だが旗色は悪い。相賀が利重派に鞍替えし、執政府全体も利重に迎合しつつある。この窮地を打開するには、どうすればいいのか。答えはあった。しかし、決心はつかないでいる。その代償が、余りにも大きいのだ。


「それに、この時期に休暇を与えられたのは、もうお前さんがいなくても大丈夫だと、言外に伝えているのですよ、新しいお殿様は」

「ふむ……」


 五日前、利重に休めと命じられた。利重を暗殺しようとした犯人の取り調べが行われている最中にである。甲斐は当然拒否したが、藩命だと言われ受けざる得なかった。


「最近、痩せたように見えるのでな。まとまった休みもなかろう。たまには骨休めでもして、余力があれば女房を可愛がってやれ」


 という言葉まで賜った。利重は照れ気味にいったが、その瞳の奥にある鋭いものを、甲斐は見逃さなかった。


「ま、ゆっくり考えなさいな」


 そう言っておえんは重そうな身体を持ち上げ、その場を離れた。

 利重は、何かを企んでいる。その為に、自分を藩庁から遠ざけたのだろう。そうでなければ、休養など与えるはずがない。

 そうは判っても、甲斐は思い切り休む事にした。それは、幾ら考えても仕方ないからである。忍びを放っても、利重の胸の内までは覗く事は出来ない。

 この五日は、おえんとゆっくりと過ごした。近郷を散歩し、近くの温泉へも出掛けた。利景の幕僚となって以来、ここまで休んだ事は無かったであろう。


(隠居もよいかもしれぬな)


 古今東西の書を読み耽り、たまには土に手を汚し、花鳥風月を愛でる。そう暮せばどれほど良い事か。

 ふと太吉が鍬の手を止め、深々とお辞儀をした。その先に、貞助が立っていた。


「添田様」


 貞助が、縁側の前で片膝を付き、頭を下げた。

 二の腕に、包帯を巻いていた。微かに血が滲んでいる。


「貞助、その傷は如何した?」

「これですかい? 仲間内で喧嘩をしちゃいやしてね。お恥ずかしい話」

「年甲斐もない奴め」

「へへ、面目ねぇです」

「その喧嘩、勝ったのであろうな?」

「へぇ、何とか。相手は多数でしたが、この貞助の忍法で」


 貞助がおどけた顔をしたので、添田も釣られて笑みを見せた。この忍びを使うようになって七年。今の今まで一度も手抜かりは無かった。鼠顔の小男だが、実力はかなりのものである。


「して、何かあったか?」

「朝賀無甚が屠腹とふくしやした」

「いつ?」

「昨夜、遅く。自宅の屋敷にて」

「そうか。朝賀が死んだか」


 朝賀は始末屋を雇い、清記を消そうとしていた。その企みが、利重の耳に入ったのだ。貞助の説明によれば、その時の怒りようは尋常ではなく、こうも乱れるのだと周りは驚いたほどだったらしい。

 勿論、そうなるように仕組んだのは自分だった。貞助の献策であるが、利重派であり清記の命を狙う朝賀は消さねばならなかった。利重がどのような判断を下すか賭けのようであったが、計算通りに朝賀を消してくれた。


「あの江上八十太夫の静止も聞かず、切腹を命じるほどでございやすからね」

「お殿様にとって、平山は利用価値が高い。喧嘩両成敗にして、朝賀と心中させるわけにはいかぬと考えたのだろう」

「お殿様の厳命で、朝賀家はお取り潰し。三人の息子は放逐されやした」

「連座されぬのは、僅かながらの慈悲だろうな」


 朝賀には、三人の息子がいる。どれも父親に似て取るに足らない者共だ。故に、その処置について何の感慨も無い。


「目算通りに事が運びやしたね」

「これで、一つ駒を奪った事になる。朝賀は無能者でも、頭領を代々務めた朝賀家の影響力は強い」


 忍びとは、犬のようなものだと貞助が言った事がある。頭領には絶対服従であり、命じられた事を必ずする習い性があるのだと。喩え、無能極まる飼い主だとしても。


「して、次の頭領かしらは?」

「へぇ、そこまでのお話はまだ」

「ふむ。他に変わりは?」

「清記様が、山人やまうどの間を駆け巡っております」

「ほう」

「内住の山人だけでなく、他の郡の山人とも会って話しているようです」

「そうか。始めたのだな、あれを」


 山人の帰属。それは自分と利景で考えてきた事だった。この先、夜須藩が一つにまとまり、更なる豊かさを手に入れる為には、山人を藩民に組み込む事が不可欠だった。彼らが持つ技能や労働力は魅力的であるし、同じ夜須に住みながら年貢を徴収されない事に不満を覚える百姓は少なくない。

 夜須藩が飛躍するには、必ずやらねばならぬ事である。だが、この政策には山人に旨味は全く無い。人間としての、誇りを奪う行いである。反発は必至だろうという事で、この政策は慎重を期していた。

 しかし利重は、これを事も無げに始めてしまった。経緯を知っている相賀は、さぞ驚いた事であろう。


(この果断さが、利重の魅力だな)


 そして、多くの者を惹きつける輝きでもある。相賀や許斐などは、それに引き寄せられたのだろう。

 だが、自分は違う。最も輝く光をずっと見続けてしまったのだ。それに比べて、利重の光は暗い。それに、その光源が不確かな怪しいものとなれば、到底受け入れる気にもならない。

 貞助が去ると、甲斐はまた太吉の動きに目をやった。動きは鈍いが、丁寧に鍬を扱っている。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 藩庁に呼び出しを受けた。休暇を与えた分際で、今度は呼び出しである。何とも、身勝手な話だ。

 登城し、執政会議が行われる二の丸御殿、御小書院に入った。

 既に全員が揃っている。どうやら、自分が最後だったらしい。甲斐は、いつもの首席家老の席に座した。対面には相賀。他の面々と、何やら話し込んでいる。


(例の狙撃の事か)


 一同の末座に清記の姿を認め、そう思った。改めて招集するのだ。何か進展があったのかもしれない。

 小姓が、利重の御成りを告げた。一同が平伏する。


「私を狙った者の黒幕が判った」


 利重が、一段と高い上座に腰を下ろして言った。


「しかし、それが残念な結果となった」

「残念? それはどういう……」


 相賀が訊いた。だが、利重はそれには目もくれずに続けた。


「三人の内、二名が口を割った。それにより、にも恐ろしき陰謀が明らかになったのだ。私は、その事実が残念であり悲しくもある」


 場が静まり返る。その先の言葉を待っているのだ。


「八十太夫」


 そう言うと、八十太夫が御小書院に入ってきた。一緒に尋問したであろう雷蔵の姿はない。


「説明せよ」

「はっ……。捕らえた三名は、銭で雇われた始末屋でございました。彼らの元締めは、銀龍寺門前で仏具屋を営む、久兵衛という男。この男を捕らえて石を抱かせた所、さる武士の名が上がりました」


 八十太夫が、身体を甲斐に向けた。


田代権平たしろ ごんべえ。ご家老、ご存知ではありませんか?」

「私の家臣だ。元ではあるが」

「その田代が、こう申しました。『添田甲斐、羽合掃部、そして栄生帯刀に命じられた』と」


 全員の視線が、甲斐に集まった。室内が騒然となる。黙っているのは、清記ぐらいのものだ。口々に追及する声。だが、甲斐は悠然と構え、瞑目した。

 そう来たか。幾つかある選択肢の一つとして、想定はしていた。その事に驚きは無いが、意外だと思ったのは、羽合や帯刀の名があった事だ。この機会に、人事に於ける不安要素を全て切除してしまうつもりなのかもしれない。そして清記の名が無いのは、まだ利用価値があるからだろう。


(相賀の仕業か)


 八十太夫に唆されたのかもしれないが、相賀にとって自分は邪魔な存在。待っていれば後継者の座を手に入れられたというのに、堪え性が無かったのか。或いは、自らの一手で倒したかったのか。どちらにせよ、利重に踊らされているとも知らずに。


「今の話は本当か?」

「身に覚えはござらぬ」


 利重の問いに、甲斐は目を見開いて答えた。


「だが、お前の名も出たぞ」

「その男は素行が悪い男でして。それが原因で暇を出した経緯がございます」

「それが?」

「きっと私や羽合を失脚させたい者が、奴を銭で買ったのでしょう。逆恨みを利用して」


 八十太夫が、膝行し甲斐の目の前に進み出た。


「しかし、お名前が出た以上は、ご家老と言えお取り調べを受けてもらわねばなりません」

「判っておるわ、男妾おとこめかけ


 甲斐は一喝した。男妾と呼ばれ、八十太夫の表情が歪む。


「そもそもだ。権力が罪を問う事に、確たる証拠や言質など必要ない。『おぼし召しに能わず』で十分である。儂も亡き利景公も、そうしてきたのだ」

「見事だ、添田甲斐」


 利重が頷いた。何故、頷いたのか。その意味までは判らない。


「家老の任を解き、捕縛する。それでよいな?」

「結構。思えば、〔御別家殿〕がその場に座られた時点で、儂の負けであった」


 御別家と言われ色を為す一同を、利重は右手を上げて鎮めた。


「願わくは、利景公の御志に違わぬよう、夜須を導いて下され。犬山兵部殿」

「長きに渡る忠勤、ご苦労であった」


 平伏すると、利重が合図を出した。御小書院に若い武士が入って来た。一同に緊張が走る。これが、利重肝煎りの逸死隊というものか。

 若い武士が左右に立った。手荒な真似をしようとする気配は無い。


「政事とは、この繰り返しである。力ある者が追い落とされ、循環するのだ。皆々、この光景を忘れるではない。特に、相賀。儂の後を引き継けば、お前もいつかこうなろう」


 相賀が、ハッとして俯いた。流石に、まともに顔を見る勇気が無いのだろう。


「特に、江上には気を付けよ。いずれお前を追い落とすやもしれぬ」

「殿の御前で無礼ですぞ」

「黙れ、八十太夫」


 そう利重に言われ、八十太夫が素直に口を噤んだ。


「面白いのう。長崎の商館長カピタンに追われ、夜須に流れて来た。その選択は正解であった」


 甲斐は立ち上がると、利重に背を向け執政府の面々を見渡した。清記と目が合う。俯いていないのは、この男だけだった。

 甲斐は頷いた。清記も返す。さらば。その言葉を込めた。


「政事遊戯、思いっきり楽しませてもろうたわ」


 笑った。自分でも不思議なほど、笑いが込み上げて来た。もう、自分に出来る事はない。最後におえいの顔が見たかったが、それも叶わぬだろう。ならば、何も望みは無い。後は、死ぬだけである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る