第十九回 秋霖(前編)

 村に戻ってから降り始めた雨が、翌日になっても止む事はなかった。

 清記は、代官所の御用部屋で筆を進めながら、瓦を叩く雨音に耳を傾けていた。

 これが、秋霖しゅうりんというものなのだろう。どことなく、物憂げな気分になる。


(牟呂四に会わねばならぬのだが……)


 生憎の雨である。故に、清記は溜まった仕事に励む事にした。

 何かあれば、こうして滞る。故に藩庁は、磯田のような有能な与力を派遣してくれるのだが、清記は以前の平山家当主のように全て任せる気はなかった。百姓にとっては迷惑な話かもしれないが、刺客だけ生とは思いたくないのだ。


「誰だ?」


 気配を察し、清記は筆を止めた。障子の陰。女が控えていた。


「薊でございます」


 そう声がしたので、清記は入るように命じた。

 村に於ける薊の立場は、代官所付の女中という事にしていた。故に何かあれば、代官所にいる清記や雷蔵に会う事も出来るし、屋敷にいても怪しまれる事はない。三郎助にも話を通している。


「若宮を探ってまいりました」

「ご苦労だったな。で、どうであった?」

「お屋敷は灯が消えたような静けさでした。近郷の百姓に話を聞くと、どうもご家族は里に帰したようで」

「ほう、里か」


 薊が、目だけでそうだと頷く。

 帯刀の妻は、東北は羽仙うせん国の生まれだった。雄勝藩おがちはんの名門である八柏やがしわ家の出で、藩主・小野寺権少衛おのでら ごんしょうえ忠通ただみちとは血縁関係にある。この先、帯刀が何かをしたとしても、雄勝にいれば安全だと踏んだのだろう。当然と言えば、当然の処置である。


「帯刀様は?」

「一度もお見かけいたしませんでした。本当に病なのかもしれませぬ。毎日医者が屋敷を訪ね、決まった時間に家人が薬湯を運んでおりました」

「ふむ」


 果たして、そうなのか。疑問はあるが、これ以上は調べる必要が無いのかもしれない。もし帯刀が屋敷におらず利重を付け狙っているにしても、それは帯刀個人の事だ。平山家として関わるつもりはない。


「清記様」


 薊が顔を上げて言った。


「何かあるのか?」

「村への帰り、何者かに襲われました」

「ほう」

「刃を交えたわけではございませぬが、殺気を帯びた必要な追跡で、それを躱すのに一昼夜ほど要しました」

「なるほど、それか」


 昨日から、どうも不穏な雰囲気が村内に漂っていた。その時は捨てておいたが、薊が躱したという追っ手が、実は村に入っているのかもしれない。


「何かあるのでしょうか?」

「いや……。それは、剣呑だな。お前は暫く代官所の奉公へ戻るといい。何かあれば、申し付ける」


 薊が平伏し、部屋を出た。

 雨が降っている。止む気配もない。だが、この仕事の山を片付けた後、もう一度村の巡察を行わねばならないだろう。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 翌日は、晴れた。

 昨日まで降った雨が嘘のように止み、秋晴れの穏やかな日差しである。

 両手には、刈り取りを待つ黄金の稲穂。秋茜あきあかねが宙を飛び、すれ違う子ども達がそれを追っている。

 一人だった。三郎助が誰か連れて行くように懇願したが、それを聞かず村を出た。

 体調は万全とは言えない。が、清記は牟呂四の集落ムレへと向かっていた。どうしても、会わなければならない理由があるのだ。

 山人やまうどへの帰属化。いずれ風聞で牟呂四の耳に入るのならば、せめて自分からという想いがある。

 利重の話によれば、相賀が中心となり山人支配の方策を考えているという。どのような形に落ち着くかは判らないが、定住化と年貢は間違いなく含まれるだろう。

 どうすべきか、清記に考えがあるわけではなかった。ただ、牟呂四が藩庁に抗うならば、止めなければならない。夜須の山野を離れるという選択肢もある。もし、それを選ぶというのなら、全力で加勢するつもりではいる。


(だが、あいつが聞き入れるかどうか)


 牟呂四の誇りは、痛いほど理解できる。だが、女子どもはどうなのか。生きる為には、捨てなければならないものもある。少なくとも、生き残る見込みがあるならば、だ。

 肌に指すような殺気に襲われたのは、村を囲む田畑を抜けた時だった。

 清記は立ち止まり、周囲を見渡した。

 右手には、鬱蒼とした藪。左手はちらちらと流れる小川。その畔には、血のように赤い曼珠沙華が咲いている。

 人影は無い。が、確実に誰かはいる。


(またか……)


 清記は、塗笠の下で嘆息した。

 昨夜、村の外れで二人を斬った。黒装束の忍び。薊を追跡した者か判らぬが、何かを探るわけでもなく、殺気だけが溢れていたので、清記は村外れに誘い出し、斬ったのだ。

 殺しの剣。清記が感じたのは、それだった。道場の剣ではない、邪悪な筋があった。

 誰の手先か、そこまでは考えなかった。疑えばきりがないほど、敵は多い。それに、もうそのような事に構っている場合ではないのだ。降りかかる火の粉は、剣で以て振り払うだけである。

 清記が再び足を止めたのは、背の高い蘆荻ろてきが群生する荒れ野だった。背後に殺気。振り向くと、男が立っていた。

 二本差しの武士。懐手にしている。顔を半分覆った髭面で、癖が強い髪を無理矢理結っていた。


「ぬしが平山さんかい?」

「左様。貴殿は?」

「始末屋さ。名前は名乗らねぇよ」

「その始末屋殿が、私に何か?」

「この商売をしてんだ。用件は、一つしかねぇなぁ」


 男は、脂でてかる顔に、不敵な笑みを見せた。不潔な黄色い歯が見える。


「ぬしの剣は、昨夜見せてもらったぜ。俺が到底勝てるような腕じゃねぇ」

「なら、退く事だな」

「そいつが、そうもいかんのだ。銭を受け取った。しかも話を聞いたからにゃ、俺が殺されちまう」

「その覚悟もなく、始末屋をしていたのか?」

「まぁ、恥ずかしい話が」


 男が、髭面の顎を掻いた。ぼりぼりと、雲脂フケのようなものが舞う。


「どちらにせよ、死ぬ運命さだめだな」

「腕には自信があったんだがなぁ。これが、始末屋の終わり方ってもんよ」


 男は懐手を解き、刀の鯉口を切った。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 口では弱気を吐いたものの、並みの者が差し向けられるはずはなかった。

 剣を抜いた男の氣は、清記すら圧倒するものであった。

 対峙をして、どれほどか。相正眼のまま、長い時が過ぎたかのように思える。

 頬に汗が伝った。男の圧力がそうさせたのだ。一方、男も赤黒い顔をしている。お互い、何かに耐えるような対峙になった。

 膝が落ちそうになるのを、清記は必死に堪えていた。男はどうだろう。互いに、そう若い歳ではない。

 念真流。扶桑正宗。信じられるものは、父祖より伝わりし、この二つしかない。お前はどうなのか? お互いの腕は伯仲。ならば、最後まで信じ抜いた方が勝つ。

 清記は、切っ先を沈めた。下段と正眼の中間である。すると、男の口許が緩んだ。

 男が跳んだ。

 落鳳。何故? そう思ったが、清記の足は地から離れなかった。ただ、扶桑正宗が自然と動いた。


「馬鹿な」


 声だけが聞こえた。清記は残心のまま膝を付くと、男の身体が左右に分かれて斃れた。

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