B-SIDE 07「温泉(混浴)」

「ねえ。テッシー、さー」

「テッシー、ゆーな」


 バイクを止めて、どこかの広い駐車場のどまんなかで、昼食の最中――。


「俺。その呼びかた。許した覚えはねーんだけど」

「これまでダメとか言ってないし」

「いいって言った覚えもないんだが」


「じゃあなんて呼べばいいの?」

「だから普通に徹心と――」

「テッシーはテッシーじゃん。ほかの名前は似合わないよ」


 俺は口を閉ざした。女と口論することの無益さはよく知っていた。だから放置していた。いっぺんくらいは言ってみようかと思ったが、やはり無駄だった。


 なんか音の響きが気に入らないんだが……。最後に「ー」がついてるところが気に入らないんだが……。チャラそうで。


「あたし? 〝ナナ〟って呼ばれるの、気に入ってるよ? なんか、カワイーし?」


 そうかよかったな。しかし可愛いのであれば、ビッチには全然似合ってないと思うぞ。


「ねえ。テッシー。このマークって、なんだったっけ?」


 カップ焼きそばを、もふもふ、吸いこむように食べつつ、ナナは地図を指さした。

 地面に広げられた地図は、太陽に照らされて、眩しいばかり。よく見えない。


 俺は顔を上に向けた。

 空は、青々としている。

 この青空は、きっと、どこまでも続いているに違いない。


 どこまでも。どこまでも。どこまでも。

 バイクで旅する俺たちは、どこまでだって、行けるのだ。

 ナナと二人で――。


「ん? なに?」


 俺の目線を捉えて、ナナが言う。つい見てしまっていた。べつに意味はない。


「する?」

「しない」


 だからおまえはビッチっていわれるんだぞ。わかってんのか。


「ねー、このマーク。――なんだっけ?」

「どれだよ?」


 俺は面倒くさそうな声をあげて、地図を見た。

 べつに面倒ではないが、声だけは、そうしておいた。


 太陽にガンガン照らされて、真っ白に光っている地図を見るには、だいぶ目を細めなくてはならないかったが……。


「ああ。温泉な」


 ナナが「わかんにゃい」と言ってた、その地図記号は、いわゆる「♨」というやつだ。


「おま。なんでそんなの。知らないの?」

「だってしらないしー」

「小学校ぐらいの社会で、やらね?」

「苦手だしー」


 ぷう、と、むくれた。

 あはははは。おもろい。


「温泉ってことは、お風呂なんだよね? 入れるかな?」

「いや。どうだろうな……」


 俺は考えた。

 文明が終了して、世界はだいぶ、有り様を変えた。


 まず、電気がつかない。

 蛇口をひねっても、水が出ない。

 道路などには、だんだんと、雑草が浸食して行っている。


 〝あれ〟が起きてから数週間……は、経っていない気がする。

 ああ。やばい。日記なんて当然つけてねえし。カレンダーなんて意味ないと思って、ぜんぜん見てもいないので……。

 今日が何日なのかさえ、わからない。

 5月から6月にかけての、どこかだと思うんだけど……。


 ま。いっか。

 文明、終了、おつかれさま。カレンダーも暦も、ばいばいなー。

 今日が「何曜日」かなんて、知ったところで、なんの意味もないもんなー。

 ガッコもない。仕事もない。旅の毎日があるだけ。


 たいした日数は経っていないにも関わらず、文明の名残は、だんだんと風化しつつあった。


 ここはどこかの駐車場だが――。そのアスファルトの路面にも、砂がすこし溜まって、雑草が芽を伸ばしている。


「テッシン。またなんか、考えてるー」


 ナナが言う。

 すこし会話が止まってしまっていたかな。


 あれ? だけど? いま〝テッシン〟って発音したか?


「する?」

「しねえ」


 なんでこいつ。こんなしょっちゅう欲情してんの。ビッチだからか?


「なにをするのか。なんでわかるの? なんで即答なの」

「ビッチの考えることぐらい、お見通しだ」

「夜にはするくせにー」

「そ、そりゃ……、ま、まあ……、な?」


 え? なにこの展開?

 まさか昼間に断ると、夜にはこんどは断られる展開?

 え? マジ? そうなん? ビッチなのに?


「お風呂入りたい」

「体は拭いてるだろ」


 俺たちは折りたたんで持ち運べる、二人用テントで寝ている。

 体を清潔に保つのには、湯を沸かして蒸しタオルを使っている。


 道沿いに民家はいくらでもあるし。ホテルや宿もいくらでもある。風呂はいくらでも見つかるが、水道は止まっているので、蛇口をひねっても水は出ない。

 井戸水だったら出るかと思うのだが、これも、ポンプが電気で動くので、やはりだめだった。

 よって、風呂もシャワーも入れない。

 川で水浴びをするのには、まだちょっと早い。真夏まずはもうすこしある。


 俺はべつに体を拭くだけで問題なかったのだが、ナナには不満があるようだ。

 ああ。そっか。ビッチでも女だしな。


「お風呂入らないと、テッシーがしてくんないんだよね」

「はい?」


 いや。してるし。真っ昼間からはしていないが。夜は毎晩してるし。

 俺が目で抗議すると、ビッチのやつは――。


「だってテッシー。口でしてくんないし。キチャナイって――」


 俺はとっさに、やつの口を押さえた。


「――やめろビッチ。それ以上口走るな」


 口を押さえていたら、舌が、ねろっと――指を舐めてきやがった。


 ナナのやつは、ねっとりと舌を使った。

 指の股のところまで、たっぷりと時間をかけて舐められた。


「うっふっふー……、する?」

「しない」


 俺は自分の手をナナのもとから奪い返すと――。


「あー、ばっちー」


 ペットボトルの水で、洗い流した。


「またゆった!?」


    ◇


「あっ!? ――ほらほらテッシー! 湯気! 湯気がたってる!」


 見えてるから、首を絞めるな。


 俺はバイクを止めた。


 ここが温泉か。

 地図で見つけた温泉マークを目指して、近くの山あいまで走ってきた。

 山と川と挟まれた狭い谷に、旅館やホテルがいくつも立ち並んでいるらしい。

 遠くからでも湯気が立ち上っているのが見える。


 だが問題は、入れる風呂があるのかどうか――。


 俺はバイクを発進させた。


    ◇


「あー、いいお湯だねー」

「まあな」


 隣でくつろぐナナに、俺はそう返した。


 俺たちは露天風呂を見つけて入っていた。

 湯の湧き出る管が崖から伸びていて、そこから流れる湯が、ちょろちょろと注いでいる。

 青空のもとで、完全に開けた露天風呂だった。


 もうしわけ程度の脱衣所しかなかったから、無料の公共浴場といったところなのだろう。

 当然、混浴だ。


 岩組みの露天風呂を、俺とナナは、二人で占領している。


「青い空ー、たっぷりのお湯ーっ!」


 空を抱きしめるみたいに、ナナは両手両足を大きく広げた。湯の中に仰向けに寝そべって、青空に向かう。

 俺はこれについても同意を示そうとした。


「あとそれからー! 男子のハダカーッ!」

「うえっ?」


「うひひひひ、兄さんいいカラダしてまんなー……?」


 ねっとりとした視線を向けられる。

 俺は思わず、体をかばってしまった。


「なっ……、なんなんだ……」

「いやいやいや……、けっこー筋肉ついてるじゃん? 鍛えていたりする?」

「ま……。まあな」

「うっひっひ。目の保養。目の保養」


 そのオヤジくさい笑いはやめろ。


「あ、あんま見ると……、俺もやりかえすぞ。俺だって見るぞ?」

「見れば?」


 かぱー、と脚を広げる。おっぱいのほうなんて、そういえば、最初からまる出しだ。一度も隠していない。

 ビッチおそるべし。


「見せてよ。もっとよく。いいじゃん。べつに減るもんじゃなし」


 どう考えても、これ、セリフが男女逆である気がする。


「こ、こんなもん……、べ、べつに見飽きてるだろっ!」


 俺たちは、毎晩、そーゆーコトを、いたしているわけで……。


「いや。明るいとこで見る機会ってあんまないし。テッシーって、〝恥ずかしいから暗くして〟とか、いつもゆーから。よく見えないし」

「言ってねえ」


 それは絶対に言ってねえ。捏造カンベンだ。


 俺は体をかばって、ナナに背中を向けていた。

 俺のその背中に、とん――と、ナナが自分の背中を預けてくる。


「ね。テッシー。……お風呂って、いいよねー」

「あ。ああ。……まあな」


 セクハラ・オヤジのモードは、ようやく終わってくれたか。

 俺は安心して、ナナに背中を預けた。

 体重を、きっちり半分ずつ預け合う。


 周囲を岩で囲まれた、こじんまりとした露天風呂の中央で、おたがいの背中だけを支えにして、青い空を見あげる。


 いま世界には、俺たち二人だけしかいない。


 そんな気がする。


 もちろんそれは錯覚で――。

 〝あれ〟が起きて以降、たしかに実際に出会った人間は、ナナ一人だけ。

 ナナのほうも、聞いてみたら、俺にしか出会っていないのだという。一人で徒歩で北海道を目指していたのだという。


 背中にかかっていた重みが、ふっと、消える。


「はぁー、ほんとー、いいお湯ー……」


 岩縁に抱きつくように体を乗せる。

 まるいお尻が俺のほうに向いている。

 白い背中と、もっと白いお尻とが――無防備に俺に向けられている。


 それは、なかなか、目を引き寄せる光景であり――。

 俺はチラ見をやめることができずにいた。


 くっそー。いつも、暗くてよく見えなかったもんなー。

 そ。そうかっ。あーなっていたのかっ。


「うふん。……する?」


 ナナのやつが、くいっと、お尻を差し上げてきた。

 湯面の上に、まるいヒップが、ぽっかりと島のように浮かぶ。


「後ろからきて……、いーよー」


 そうつぶやいて、うっとりと目を閉じる。

 答えを求められてはいない。迫られているわけでもない。


 どっちでもいい。本当にそんな感じ。

 すべては俺の自主性に委ねられている。


 迫られてくるときには、「しない」と突っぱねている俺だったが……。


 どちらでもいい。

 どちらでもかまわない。

 選択肢が二つ存在する、いまだったら……。


 俺は、もちろん……。

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