第6話
翌朝八時。
「……今何時だと思ってやがるッ!?」
259回目、二時間かけてゆっくりとインターフォンを押し続けていると、窓から禿頭の男が顔を出して怒鳴りつけてきた。
そこは、あのアパートの管理人―――――おそらく兼所有者だろう、彼のものの家を訪ねていた。
男は門扉越しに立つ、私とカオル君を見下ろすなり、その寝不足気味で目の下の黒い顔をこちらに向けて物を投げつけた。
「くそ野郎がッ、毎晩毎晩毎晩毎晩んんん!なんども来やがって!俺は何にも知らねぇよぉお!」
「……?」
不思議だ。
こちらがここに来たのは今回が初めて、私もカオル君もそのことは承知していて二人して顔を見合わせていると、男はピシャッと窓を閉めて、また家の中にこもってしまった。
そして、静寂が周囲に広がり、カオル君は眉を顰めつつ、僕の顔を疑わしげに覗き込む。
「所長……」
「いやいやいや。出歩いていないよ、ましてや夜でしょ、怖くてホテルから出ていないよ」
その通り。昨日は八時ごろ宿のホテルを探し終えると、カオル君を家まで送りそのままホテルで就寝したのだ。
そして朝の五時『所長ぉおおおお!朝ですよぉおおおお!』と暴走族の騒音並みの音量で携帯に通話をしてくる、カオル君を迎えて今に至るのだ。
眠い。
というのはそれとして、昨日ならいざ知らず、それ以前など、このアパートに関わる余地すらなく、私は困り果てて手持無沙汰に髪をかくと、さりとて事態を進展させないという選択肢もないわけで、もう一度話を聞くべく、管理人の家のインターフォンを押そうとした。
と、目についたものが左右にあった。
「……?」
傷だ。
敷地を覆う塀の表面、いくつもの傷があった。
真っ平らなコンクリートブロックの塀には、まるで抉れたような四本の傷跡が、いくつも折り重なって浮かび上がっていた。
それだけじゃない、周囲のアスファルトにもうっすらと爪痕のようなものが浮かんでいた。
それはまるで、大きな『獣』のようなものが、引っ掻いたような傷だった。
更に一部の塀は凹んでいた。
何かが、ぶつかったような大きな何かが通り過ぎていったような跡だった。
「……」
確かに『何か』がいた。
いや、もしかしたら、今も―――――
「……管理人さん」
さりとて、事態を進めないわけにもいかない。私はさらにインターフォンを押し続けた。
一時間が経過した。
さすがに疲れて、103回目、インターフォンを機械的押し続けていると、
「あああああああああああああああああ!」
悲鳴、いや、怒号。
家屋の奥からこぼれる金切声に混じる、狂気、恐怖、そして絶望―――――身悶えるような鈍い音が、敷地の中から響いた。
やがて、窓が開く。
投げつけられたのは、何枚もの紙切れ。
やがて、それらは分厚くなり、今度はいくつもの分厚いバインダーが何冊も頭上から放り投げられてきた。私はあわててカオル君とともに後ずさると、地面に散らばる書類を横目に、薄く開いた二階の窓を見上げた。
厚いカーテンがうっすらと開く。
その隙間には澱んだ暗闇が漂い、その中から震える手で、ほっそりとした男の手が何かを投げ捨てていた。
か細い声が、聞こえてくる。
「なんだよ……俺がなにしたんだよ……。
俺は……俺はただ平穏に生きていただけだろうがぁ……俺はただ見ただけだろうが……!」
か細い声は叫びに代わっていく。そして、投げる力も強くなっていく。
「知らねぇええよぉおお! 何にも知らねぇえよぉおおお!ただ見ただけだろうが、女の死体が釣り下がっていただけだろうが、何が悪いんだよ、俺が見るしかなかったんだろうが、俺が通報するしかなかったんだろうが!
勝手に俺のアパートで死にやがって、くそったれくそったれぇ!俺がアレを手に入れるのにどれだけ金をかけたと思ってやがるんだよぉ!サラリーマンで必死に金ためて趣味も切り詰めてやっと思いで手に入れて、せっかく楽して生きていけると思ったのに全部パァかよ!ふざけるなよぉおおお!お前らが何をしたんだよ、俺が何をしたんだよ!俺が……俺がぁああああ!」
返せよ、俺の贅沢を返せよぉ!俺の生活を返せよぉ! お前らが奪ったんだよ、お前らがぁああああ!」
―――――腐った『魂』
やり場のない怒り、それは黒く澱んで、狂気を孕ませ、男の顔を獣のように変えていく、その顔は、まるでやつれた病人のように変えていく。
顔は笑っていた。怒りで目は血走り、悲しみで涙があふれていた、カチカチと歯がなり、頬はこけ細り、自傷の跡が首筋に見えた。
男は狂っていた。
その狂った目が、顔から剥かんばかりに飛び出し、こちらを見ていた。
嗤っていた。
「―――――ぁあああああああああ!」
「……」
「ガァアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」
やがて、男は髪をかきむしり我を忘れて窓を閉め、ドスン、ドスンと鈍く体の一部を壁にたたきつけているかのような音が、敷地の中から響き渡る。
音は、決して止むことはない。
「……所長、アレ」
「……。カオル君。書類を拾ってあげたまえ」
「了解です……」
私はというと、近くにとめていた車から予備のビニール袋を持ってこようと思い、書類を拾い始めるカオル君を尻目に車に戻ろうとした。
と、つま先にあたる固い感触。
視線を落とせば、そこには分厚いバインダーが一冊落ちていて、私はおもむろにそれを拾い上げた。
「……」
―――――見知らぬ、男の名前の契約書。
それを見た瞬間、おそらく―――――そう予想していたことが、あるいは的中したと、そんな確信のようなものに変わった。それと同時に、見なければよかった、そんな後悔があふれてきた。
私は見ていられずバインダーをそっと閉じて、ため息をついて朝焼けの空を見上げた。
「……『ソレ』をいくら自己責任だと、自分は関係ないと声高に叫ぼうと、『彼女』は死んだのですよ。
死んだら―――――戻ってこないんですよ、どれほど金を積もうと、神に願おうと」
「所長?」
私は独り言を押さえると、手に持ったバインダーを、カオル君が拾い上げた書類の上に乗せた。
「……だから、後悔しないように、人は生きるんです」
「?」
「袋を取ってくる。少し待ちなさい」
私は車から大きなビニール袋を何枚か取り出すと、カオル君が手に持った書類を中に押し込み、そして門扉の隙間から敷地内に書類を押し込んだ。
「……でも、あの様子じゃ、事情は聴けそうにないですね」
「必要ないよ、見るべきものは拝見できた」
「さっきのバインダーですか?」
「ああ。彼女の実家が書いてあるかなって思ったけど、そうでもなかった」
「……あれって署名欄に、貸主借主の住所と名前を書くんですね。それで、前の住所ってわからないんですか?」
「201号室―――――あの部屋を借りていたのは、別の人物だった」
「……もしかして、それが、一昨日僕らの事務所に来ていた『志野原歩美』?」
「さてね」
僕は車に乗り込むと、慌てて助手席に潜り込む彼を横目に、エンジンを起動した。
「もしそうだとしても、クライアントが誰なのか深く問い詰めるつもりもないよ。私たちの目的は一つだ」
「『志野原歩美』が殺した人を探す、ですよね」
「正解だ」と、ポケットで鳴り響く着信音に、私は、再びサイドブレーキを引いて車を止めて、携帯電話を耳元に押し当てた。
「もしもし」
「悪趣味な着信音……」
「煩いね……ダイスケかい?」
と問うまでもなく、着信相手が画面に表示されているのだが、私は確認のために聞くと、受話器の向こうから聞こえてきたのは、うめき声だった。
『……志野原歩美の実家の住所がわかった』
その言葉を吐き出すのにおよそ一分ほどかかっていた。
「そっか」
『……いつから気づいていた』
恨めし気な声に、私は少しばかりかぶりを振る。
「昨日、君と出会ってから。
無論それは、勘や予想に過ぎなかった。でもそれは、彼女の遺体と、彼女の部屋の状況を見て、根拠のない確信に変わった」
『……どういう意味だ』
「単純な話だよ。身元を証明できるものを、彼女は所持もせず、さりとて周りにはなかった。どうやって警察は、彼女を『彼女』だと早期に発見できたのかな?っていう疑問だよ。
もちろんそれは、反証があれば容易に覆るものだった。だけど、君の反応を聞く限り、そうではなかったようだね」
『……』
「伝えなくていいよ、僕らの仕事は、咎めることではない。見つけることだ」
『―――――後でメールで連絡する』
「本籍の情報もわかったかな?」
『ああ。行くのか?』
「必要ならね」
『わかった。それもメールに乗せておく。トラックの行き先、こちらでも今詰めているところだ。そっちもわかり次第連絡する』
「そっちはどうだった?」
『ビンゴだよ。末恐ろしいほどだ。近くの大型のレンタカーショップをいくつかあたらせたら、確かにここ最近、借りたまま返していない大型トラックが一台あったらしい』
「GPSとかは?」
『搭載していないタイプらしいからな、位置情報はわからんらしい。高速道路の監視カメラには引っかかってなから、行き先を割り出しているところだ』
「顔は映っていたかな?」
『レインコートを来た、女性の風貌をした女が乗っていた、それだけだが?』
「まったく……。ありがとう、続報を期待して待つよ」
『気をつけろよ』
「あいあい」
私はようやく通話を切り、ポケットに携帯電話をしまい込むと、再びサイドブレーキを押し込んだ。
「さて、車をしばらく駐車できる場所を見つけないとね。少し高いが時間貸しの駐車場を探すか。
カオル君、来て早々悪いが君は帰ったほうがいい」
「いやです」
「あっそ……」
彼も度胸がある。こうやって少なからず日常を得体のしれない『何か』に脅かされていて、心中穏やかではないはずだが。
横目に助手席を見ると、だがしかし、私の目には彼の顔が生き生きとしているように見えて、頼もしいような、少し鬱陶しいような気持ちになった。
「……怖くないのかい?」
「あれで怖がるやつは、遊園地のお化け屋敷でビビるような輩ぐらいですよ」
「―――――もう好きにしたまえ」
諦めも肝心だ。
私は深くため息をつくと、駐車場を探して、車を発進させた。
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