第4話
「見回りをしてくれって」
僕の名前は梅本カオル。
故あって、グータラズボラ探偵の寺田シロウ所長の元でアルバイトで働いている19歳だ。立ち位置的には助手なのだが、実は実家はあの事務所から離れた住宅街にあって、大学はもっと別の場所にあって、別に探偵にも興味はなくて、本来はあんな人と接点はない。本当なら僕があの人の助手をやっているはずがないのだ。
「……なんで僕が」
―――――あの人がうちの血縁者でなければ。
母親に勧められ、社会勉強をして来いと言われ、無理やり押し込まれ、僕は今もなおやりたくもないバイトを続けている。
確かに払いはいい。突然ポンッと大金を給料だと渡してくる。さりとて仕事は手伝い以外に家事全般で、もう仕事内容は助手というか家政夫という位置づけだが、それでも内容は大したことはない。
ただ、それでもあの人のもとで仕事をするのは、怖いのだ。
あの人の仕事は一言―――――『奇妙』なのだ。
今まで4つほどあの人の仕事に立ち会ってきたが、そのすべてが、まるで呪われているかのような依頼内容だった。
一つは、迷い猫を探してくれという依頼だが、なぜかわからないが所長は危うく食人鬼に食い殺されそうになった
一つは、汚いアクセサリーを捨てくれという依頼だが、最終的に南アメリカの遺跡の奥深くまで安置する形になった。もはや探偵というより冒険家である。
一つは、相手持参の筆で油絵を完成させてくれという依頼だったが、1年近く所長はあの館から帰ってこなかった。所長曰く『文字通り地獄の扉を開くつもりだったんだろうね』ということだが、なぜかイングランドの片田舎から帰ってきたと聞いたときは失神しそうだった。
一つは―――――よそう、僕もアレにはついていったけど、あまりに非現実的すぎて眩暈がするのだ。
ま、という風に所長の受ける依頼はことごとく、奇妙なのだ。
今回もおそらく、そうなのだろう。
「はぁ……まったくどうしたものかなぁ」
「あの……」
と、河川敷のグラウンドをウロウロとしていると、聞こえてくるか細い声。
誰か近くの女性にでもぶつかったかな、そう思って振り返ると、そこには目がチカチカとするほどの赤いレインコートを着た黒髪の女性が立っていた。
僕が見上げるほどの背丈。
顔はフードで隠れて見えないが、そこには周囲の景色に浮くくらい不自然な赤のコートを着た人間が僕の目の前に立っていた。
その背丈には見覚えがあり、僕は少し帽子を目深にかぶりながら、恐る恐る訪ねようとした。
「えっと……」
「あの……この近くにアパートを知りませんか?」
「え……?」
「そこに私の姉が、亡くなったと聞いたんです。テレビを見ていてもたってもいられなくて」
「そ、そうですか……えと、もしかして『志野原、歩美』さんですか?」
戸惑いながら尋ねる僕の言葉に、『彼女』はわずかに安どの声色を浮かべて、僅かにうなずいて見せた。
確かに昨日の女性と声色が一緒だ。
「そうです。すいません、昨日は偽名を使って、私は姉でして、実は妹がどうなったのか知りたくて、あのような」
「そうなんですか……」
「それで、アパートはどこですか?」
「それは―――――」
そう言って、僕は踵を返し、『彼女』に背中を向けた。
―――――好きな時にあなたのほうからこの事務所に来てください。
ふと、頭の中に浮かぶ所長の言葉が浮かぶ。
あれ。
その所長はなんて言ったっけ。
―――――それ以外、ここ以外での接触は一切なしということで。
え。
この人、誰。
姉?違う、そんな感じじゃない気がする。
この人は―――――
「すいませぇん。ボール取ってもらえますか?」
河川敷のグラウンドから、僕に向かって声が飛んでくる。足元を見下ろせば、ボールが足元に転がってきている。
その足元に広がる僕の影が、別の影にゆっくりと覆われていく。
これは、雲影じゃない。
人の影―――――誰かが、僕の後ろに立っている。
重たい圧迫感。何かが僕の背中へと伸びてくるのがわかる。
ニィイイイイイ……。
歯を剥いて嗤っている。息遣いが激しくなって、近づいてくる。
太い指先が、僕の後ろ首に近づいてくる。
これは―――――
「どうしたんだい?」
少し呆れたかのような、それでいて優しい声。
ハッとなってボールを手に持ったまま顔を上げると、そこには新たな影が僕の影を包んでいた。
やれやれといった表情で僕の前に立つのは、所長。
クシャリと髪をかき上げ、少し心配そうなそぶりを見せつつ、所長は僕の手元に持ったボールを指さした。
「ソレ。いつまで持っているつもりかな?」
「あ……ああ。そうですね」
僕は手に持ったボールをグラウンドのほうへと投げようとして、ゆっくりと踵を返そうとした。
「ところで」
―――――いない。
「君はさっきまで誰としゃべっていたのかな?」
「え……?」
そこには赤いレインコートの大女は影も形もなくなっていた。周りにも、河川敷一体を見渡そうにも、そこには誰もいなかった。
まるで霞に消えたかのように。
「カオル君。ボール、早く投げたまえよ」
「は、はい」
僕は所長に言われるままに、ボールを投げた。
と、所長は僕の頭にかぶっていた帽子をそっと被ると、僕の肩をそっと叩いて耳元で囁いた。
「予想通り、だったろう」
「……」
「顔は見られていないよね」
僕は無言のままゆっくりと首を縦に振る。
「いい子だ。ならおそらく大丈夫だろう。これから君は今後しばらく帽子はかぶらないほうがいい。
特に、僕と同じ趣味の帽子はね」
「所長、それって―――――」
「大した意味はないよ。ただ君と趣味がかぶるのが嫌なだけだよ」
「……」
「忘れなさい。その女は『志野原歩美』ではない」そう言って所長は僕の肩から手を放し、踵を返しつつ帽子を目深にかぶった。
その横顔は、愉悦にわずかに口元がゆがんでいるのが見えた。
なぜか、少し楽しそうだった。
僕は言わないといけなかった。あの殺意、あの敵意のことを。僕の後ろにいたのは明らかに人を殺そうとしていた人間であること。
「し、所長ッ」
「カオル君、『彼女』は自殺した。
それは誰の目から見ても明らかだ。つまり誰かを殺したという証拠がなければ、いくらそれらしい人物がいようと、それは犯人じゃない。
大凡君が言わんとしていることは、多くの人間に共感を得られることはないだろうね」
「……」
「それにさ、カオル君。僕らの依頼は一つだ。覚えているね」
彼女が殺した人間を探すこと。
『彼女』とは、誰のことなのだろうか。
志野原歩美?それとも僕の後ろにいたあの赤いレインコートを着込んだ大女?
それとも、誰が、誰を殺したのだろうか。
まるで思考の泥の底に沈んでいくような感覚に、この蒸し暑さとともに眩暈を覚えつつ、僕は歩き出す所長の後ろをついて歩く。
「行こうか。そろそろアパートの中に入れそうだ」
「所長……」
鍔を指につまみ深く帽子をかぶる所長に、僕は何かを言おうとした。だけど言葉は呼びかけるだけで途切れてしまった。
僕は、あの人に何を言うつもりだったのだろうか。
胸の奥につっかえた言葉が出てこなくて、僕はもやもやとした気持ちで、あの黄色いテープで張り巡らされたアパートへと向かうのだった。
道中、誰かに見られている気がした。
じっと遠くから、後ろから、木の影から、人混みから。
誰かが僕らのことを見ているような気がして、寒気がした。
「入ろうか」
所長はそういって、階段を上る。
肩をすくめ、体を僅かに丸めながら歩いていたらいつの間にか黄色いテープを抜けてアパート前についていたようで、僕はキョトンとしながら、二階の一室への階段を登っていく所長の背中を見上げる。
「鍵はもらってある。ただ手袋は忘れないようにね」
そう言って僕に軍手を投げつけると、所長は自身にも薄手の手袋をはめ込んだ。
そうして、階段を上がっていく僕をよそに、この人はポケットから鍵を取り出し、その部屋『201号室』―――――テープが張っているのでおそらくここが現場なのだろう―――――へと入ることを決めた。
ガチャリと音が鳴って、鍵が回り、扉がゆっくりと開く。
そして、入った扉の向こう、部屋の内装を見て、僕は目を見開いた。
「え……?」
―――――ない。
「どういう、こと?」
ないのだ。
本来人がアパートなどで居を構えるためには、現代生活においては色々と需要の高いものがあると思う。
洗濯機、冷蔵庫、ベッド、クローゼットの衣服。調理器具、洗面器具、化粧品、蛍光灯、カーテン、空調機器、靴。
すべて、無くなっていた。
まるですべて洗いざらい、津波に流されたかのように、きれいに払われていた。最初からなかったかのような、部屋本来の清潔感がそこにあった。
「……所長」
「ないね」
「え、ええ……家具とか色々」
「そうだね。だけど、影はあるね」
「?」
「壁のシミ。普通家具を長い間置いていると、壁紙でも日光に当たって変色する部分と、そうじゃない部分に分かれるだろう。
とくにここなんてそうだろう?」
そう言って所長は日当りのいいリビングに入ると、腰を落として、部屋の壁を指でなぞった。
確かにそこにはくっきりと日焼け跡のようなものが壁紙に映し出されていて、そこに家具があったのが見える。
「あと埃。ふつう重たい家電製品なんかを置いていると、その置いた部屋の隅なんかは埃が溜まりやすい。
置いていない場所なんかはそうじゃない。ふつうは掃除するからね」
所長は次に部屋の隅、特に備え付けのキッチンの隅―――――おそらく洗濯機か冷蔵庫が置かれていたであろう部分を丹念に調べた。
そして、その都度手帳にわかったことをメモをしているように見えた。
「ふむ……」
「何かわかったんですか?」
「大したことじゃない。『彼女』は少なくとも数日前までにはこの部屋に住んでいたということが大凡想像しただけだ。
そして、昨日か一昨日かで家具をまとめて引き払った。
そして、リビングの真ん中―――――およそここかな?首を吊ったのだろう」
そういって、縄がつるせそうな部屋の真ん中、所長はその天井を帽子を押さえつつ見渡していた。
「だが、僕の話は少し矛盾がある。どこだと思う?」
「……家具を引き払った?」
「普通じゃないか? テレビでたまに聞かないか? 自殺願望者はその傾向として身の回りを軽くして、なるべく物を残さないようにしていると。
どういう心理なのかはこの際置いておくとして、今の状況と、今回の結果に齟齬は生じていない。
なら別の点に矛盾がある」
「?」
「カオル君。一般的な20代の平均体重はどれくらいだい?」
「えっと……」
慌ててスマホを手に取り、インターネット経由で調べてみて、わかったことを僕は口にする。
「約52キログラムです」
「それを支える縄は用意できる。ならその縄と女性を吊るすものが天井のどこにある?」
そう言われて僕も、天井を見上げて。
「……ない?」
天井に見える蛍光灯の接続口。あそこに蛍光灯を取り付け、なおかつ接続口と蛍光灯の隙間に縄を通さないといけない。
そして、その接続部分は凡そ、人の体を吊るせる強度はしていないはずだ。
「まぁ、これは蛇足だろうけど、ふつう首を吊るときは台とかに乗ってそれからその台を蹴るものだと思う。その登る台も見当たらない」
「……」
「矛盾だらけだ。なのに、報道はここで『志野原歩美は首を吊って自殺をした』という報道になっている。
そして、それもまた事実だ。ならば、どうやれば君はここを『首つり自殺の現場』にできると思う?」
―――――吊れる、重さにする。
接続部分が耐えられる重さにする。耐えられて2日、それくらいの重さに『設定』すれば、たとえ脆弱な接続部分でもそれは可能だろう。
けど、それは―――――
「正解だ。なら具体的にはどうする?」
「それは……」
「軽くする。そうだろう」
「……」
「肉をそぎ、皮をはぎ、内臓を取り出し、脳みそをぐちゃぐちゃにかき混ぜで吸い出す。そうして人の原型を最小限に保ったまま『中身』を吸い出す。
そうして、文字通り骨と皮だけにした志野原歩美を、吊るすんだ」
想像を絶した。想像をはるかに超える行為が、行われていたのだろう。そしてそれは所長だから、できたことなのだろう。
この人には、人の心の泥の底が見えているのだろうか。
「……もう一人。いや二人、か。『彼女』の周りには誰かがいた」
「それが、志野原歩美さんを殺した」
「かもしれないし、そうじゃないのかもしれない」
「? 随分と曖昧な物言いをするのですね」
「カオル君。君は大変な思い違いをしている。我々の依頼内容は、志野原歩美が殺した人を探してほしい、だったはずだ。
マインドマップを明瞭にしたまえ。私たちが動く目的を決して忘れちゃいけない。でないと、私たちはただただ事態に踊らされるだけの人形だ」
「所長、よくそういうところこだわりますよね」
「私は昔から優柔不断でね。せめて根っこのところをしっかりしておかないと、本当にアタフタするはめになるのは、経験からわかりきっているんだよ」
そう言って所長は胸ポケットにしまおうとして、ハッとなったのか、僕を指さし、そしてきょとんとする僕に尋ねた。
「ああ、これを検討しそびれていた」
「え……?」
「カオル君。彼女はいつ死んだのだろうね?」
「え……?」
「昨日、私の事務所に彼女は来た。そして依頼をしてきた。そして今朝死んでいた。吊るせる重さになって、死体が死体らしく首をつっていたという結果を残した」
もったいぶった言い方―――――所長は答えを大凡つかんでいて、そして確認のために僕に尋ねていた。
その口元はわずかに歪んでいた。
その目は、少し青く澄んでいた。
「カオル君。ここで死んだ彼女と、私のところにいた彼女は、『同じ』だと思う?」
―――――頭をよぎる、先ほどの赤いレインコートの女。
僕は首を横に振った。
「わかりません……」
「ああ。そうだ、彼女は人を殺した、そして彼女は自分を殺した。殺した人物というのが自分自身という結果なら、調査報告書を簡単だ。
だが、その結果を『志野原歩美』は望まないだろうね」
志野原、歩美。
それは、一体だれのことを言っているのだろう。
僕らの事務所に来た『彼女』なのか。
それともここで死んでいた『死体』なのか。
それともあのグラウンドにいた『赤いレインコートの女』なのか。
全員が同じなのか。それとも全員が違うのか。
混乱が深まっていく中、グッと帽子の頭を押さえ目深にかぶるいつものそぶりを見せると、所長は踵を返す。
「そろそろ時間だ、カオル君。いつもの喫茶店に行こう」
「あそこですか? またなんで?」
「ダイスケと待ち合わせているんだ。それが終わったら一度管理人に挨拶に行こうか」
「了解っす。事務所には戻らないんですか?」
「しばらくね。またホテル暮らしだ」
そう言いながら、所長は手に持った手帳をポケットにしまいこみ、踵を返した。僕はその問いかけに苦笑いを浮かべた。所長はいつもこうなのだ。依頼を一度始めると、よほどのことがない限り、あの人は事務所に戻らない。あの人なりの願掛けなのかもしれない。
もっとも、今回に関しては理があるのだが。
「―――――ああ。カオル君。君はこの部屋にいてくれ。私が車を回してくるよ」
と、突然そう言って部屋の入り口前に足を止める所長に僕は当然ながら、首をかしげてみせた。
「え、なんでです?」
「うーん……じゃあ、ちらっと外を見なよ」
「え?」
「ほら、道路挟んで反対側。電柱の裏側」
「いや、透視能力があるわけじゃないし、裏側なんて」
そう言いながら、私は恐る恐る部屋の入り口から顔を出した。そして言われた通り、道路を挟んで反対側を見渡す。
確かに何本か電柱が立っていた。そのほか街路樹も並んでいて初夏の風に枝葉が揺れて木漏れ日が薄暗い歩道に差し込んでいた。
「―――――」
木漏れ日に照らされ、何かがいた。
ちょうど反対側。電柱の裏。うっそうとした土手の影に隠れて、それでも木漏れ日に照らされながら、何かが立っているのが見えた。
誰が、こちらを監視している。
舐めるような視線が、僕らを見ている―――――
「所長、なんかいる……?」
「顔を隠して。早く」
「は、はい……」
「いいかい。誓約は3つだ。玄関は締めること。車を回したら、僕が携帯で連絡をするよ。それまで君はここで静かに待機していること。
そして、決して外には出ないこと。いいね」
「は、はい……!」
「いい子だ。すぐに戻るよ」
そう言って所長は帽子を目深にかぶりつつ、扉をゆっくりと締めると、鍵を閉め自殺現場を後にした。、
僕はその場で立ち尽くしたまま、このままならない緊張感の中、ただスマートフォンを複雑な感覚の中いじる。
早くあの人から連絡が来ないか、ありえないほどの焦燥感に駆られながら。
と、ドンドンと目の前の扉がたたかれる音が聞こえてきた。
「すいません、警察のものですけど」
聞こえてくる男の声。
僕はハッとなって顔を上げた。声は続けざまに聞こえてくる。
「こちら現在立ち入り禁止となっているところです。もしここに誰かいらっしゃいましたら速やかにここを離れてほしいのですが」
警察か。
そう言えばそうか。ここにいつ警察が戻ってきてもおかしくないし、こちらを見張っていた人間もそうだったのかもしれない。
僕は安堵して、玄関のノブに手をかけようとした。
―――――ここから離れてはいけない。
ふと頭の中で思い浮かぶ所長の声。
僕はノブに手をかけようとした手を下ろすと、ドアスコープを覗き込んだ。もしそこにいるのが、警察だったらそれでいいし。
「聞こえてますかぁ? 警察ですよぉ」
―――――目の前に立つ、赤いレインコート。
長い髪。高い背丈。
『彼女』がそこにいた。
スコープに血走った赤い目玉がくっつかんばかりに覗き込み、こちらの顔を見ようとしていた。
ニィと歯をむき出しにして笑う口元からよだれがあふれる。
僕を―――――殺そうとしている。
「ヒッ」
一つ目の誓約が破られた。
短くこぼれた悲鳴とともに、僕は玄関で腰を落とすと、その音は玄関扉を通じて外に響いた。
途端に、声が止む。
代わりに響いたのは、ノブの回る音。
ガチャガチャガチャガチャガチャガチャ……回らないノブをまるでこじ開けんと、無機質に回す音が繰り返される。
そのうち扉をたたく音が追加される。
扉を蹴破らんとする音。拳がドスドスと金属の扉をたたく音が響き渡る。
扉の蝶番がガタガタときしみ始める。
何かが、入ってこようとする。
「し、所長……所長ッ」
僕はかすれそうな声でスマホを震える手で取り所長に連絡を取ろうとする。その間、扉の蝶番のねじがドンドンと外れていき、扉をたたき、ノブを回す音がだんだんと激しくなっていく。
入ってくる。
『彼女』がッ。
「所長ッ……!」
『着いたよ』
スマホから聞こえてくる優しい声。
それとともに少し離れた場所から車のエンジン音が響いてきて、それとともに扉をたたく音がぴたりとやんだ。
その代わり『声』のようなものが、扉から聞こえてきた。
「―――――見つけたぁ……」
「え……」
僕が呆けた声を出したと同時に扉の向こうにあった気配は、まるで霞のように立ち消えていった。
残ったのは、静寂。それもすぐに扉の鍵が開く音でかき消される。
ガチャリと外れかけた扉が開き、帽子を目深にかぶった男が玄関で崩れ落ちた僕の目の前に現れた。少し心配した表情のその人は、安堵にため息をこぼしていた。
「……すまないね。一緒についてきてもらったほうが或いは安全だったのだろうか」
「所長……」
「これは私の判断ミスだ。金銭でしか解決できないが、その分の補填は必ずさせてもらうよ」
「い、いえ……」
「立てるかい?」
所長はそっと手を差し伸べ、僕は抜けた腰を立て直しつつ、所長の手を取りまるで生まれたての小鹿のような足取りで立ち上がった。
「……厄介だねぇ。少し手を早めないと、こっちも食いにかかっている、か」
「所長……」
「警察に相談したほうが早い、そんな顔をしているね。だが、答えは残念ながらノーだ。事件にならなければ警察は基本動かない。だから僕か君が殺されなければ、彼らはあまり動きたがらないだろう」
「だけど……!」
「自分の身は自分で守れ―――――現代社会の悪い点だよ。互助というもの一切を捨てて死んだ他者を嘲笑うかのような物言いすら見受けられる。この社会には今一切の余裕がない。年間2万人以上の自殺者が出ているのが証左だ。
警察に頼る前に、僕らは残らず殺されるかもしれない。それほどに猶予はない」
「じゃあどうすれば……!」
「何もしないよ、ただただ真実を見つけるのみ。僕らは僕らの仕事をするんだカオル君」
―――――この人は、一切ぶれない。
涼しい表情でそう言いつつ、僕と一緒にアパートに横付けしていた車に乗り込む所長を僕は茫然とした面持で見つめていたことだろう。
強いのだろう。何事にも負けない信念のようなものがあるのだろう。狂気に飲まれない何かがあるのだろう。
あるいは、この人そのものが『狂気』なのかもしれない。
真実に固執し続けるという『何か』なのかもしれない。
「さて、例の喫茶店に行こうか。ダイスケも待っているかもしれないしね」
そう言って、車を発進させる所長。
僕はそんな彼の横顔を見つつ、無言で頷いて―――――ふと誰かが後ろにいないか振り返ろうとした。
―――――ニィ。
電柱の裏から見える赤いレインコート。
『彼女』がこちらを見ていた。
嗤っていた。
「しッ」
「体を低く、シートに頭を埋めていなさい」
所長のことを叫ぼうとした僕の頭を押さえつつ、所長は少し険しい表情でアクセルに足をかける。エンジンをふかす。
「やれ。少し遠回りしていかないとね」
「所長ッ」
「……よほど調査経過を知りたいようだ。
だがまだ資料も情報まったく出そろっていない。それらが出揃ってからしかるべき場所で相対するとするかね。
それまで、彼の顔を見ちゃいけない」
「……彼?」
「カオル君。あんな180超えの背丈で女って普通かな?」
「……珍しいです」
「ならば、そこを疑おう。志野原歩美の家族状況、交流関係も見てみないとね」
そう言って所長は車を発進させた。
サイドミラーから見える後ろのアパートの景色はドンドンと遠のいていく。
なのに、赤いレインコートの『彼女』の姿はいつまでも視界の端にこびりついて離れなかった。
その人影は流れる景色の中、一向に小さくならず、僕らの後ろにいた。
僕らを『視て』いた。
僕らを―――――
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