第2話 6月4日 「お父さんの蒸発」

六月四日

 午前中、庭に蒔いた空豆を収穫しました。良い出来です。厳しい冬を越えたからでしょうか、みちみちと実が詰まっています。お盆の頃には、きゅうりや茄子が生る予定なので、楽しみにしておいてね。真は茄子があんまり好きじゃなかったけれど、たぶんびっくりするわよ、あまりの美味しさに。お盆には帰省するのかな。去年は仕事が忙しくて全然帰ってこれなかったから、会うのは二年ぶりになるわね。とにもかくにも身体だけは気をつけて。頑張り屋の真のことだから、「無理するな」と言っても聞かないだろうけど。七年前、お父さんが借金をつくって蒸発した時もそうでした。


 たしかあれは、あなたの本命大学の入試一週間前。その日も普段通り自転車で登校しようとするあなたに、

「雪が残って危ないわよ。お父さんに車で送ってもらったら」

 今思えば虫の知らせだったのかしら。そんなことを言ったのは。

「別にいい。帰り面倒だし」

 あの頃の真はほんと素っ気無くてぶっきらぼうだったわね。思春期真っ最中って感じで、ある意味可愛らしかったけど。って脱線。異変に気づいたのは夕ご飯の時間でした。いつもは判を押したように七時十分前に帰宅するお父さんが、その日は八時を過ぎても連絡一つなくて。「あら珍しいわね」なんて最初はのんきに構えていたのだけど、十時になっても音沙汰ないのはさすがにおかしい。仕方なく会社に連絡したら、「今日は休まれてますが……」って。また電話に出た人が意地の悪い人で、嫌味たらしく「が」の部分を大きく言ちゃって。なんだか責められているみたいだった。電話を切った途端、瞼の奥がチカチカと鳴って、何故だか鼻の奥から血の味がしたの。目の前が真っ暗になるって、本当にあるのね。結局、その日も、次の日も、お父さんは帰って来なくて。「ああ逃げたんだ」と思ったのは、四日目の夕方。もちろん事故や事件の線も考えたわよ。でもポストに投函された消費者金融からの督促状を見ちゃったら、誰だって蒸発したと考えるのが普通だと思う。


借金は全部で三百万円。頭を抱える私に、真は言ってくれたのよね。「大学の学費貯めてるんだろ。それで返せばいいじゃん」って。

「そんなこと出来るわけないでしょう。お母さんが何とか返すわよ」

 あの時はそう言ったけど、本当にありがたかった。家のローンもまだ残ってたし、お母さんのパートだけじゃ正直どうにもならなかった。それを察していたかどうかはわからないけど、次の日には新聞奨学生制度のパンフレットを持ってきて、

「学費も生活費も奨学金でなんとかなるからさ。その代わり、大学だけは行かせてくれよ」と、ぶっきらぼうに説明してくれたっけ。


 結局、真に甘えてしまいました。本命を諦め学費が少ない滑り止めの大学を選ばせてしまったことが、今でも本当に申し訳なくてふがいなくて。でもあの時のあなたの決断のおかげで、新井家はなんとか持ちこたえることが出来ました。あなたは私の誇りです。って、親バカかしらん。でも嘘偽りのない気持ちよ。

 日記をつけて一か月。自分史の練習にと苦い過去を振り返ってみたけれど、意外にすんなり書けました。息子への感謝の気持ちもね。面と向かっては言えない恥ずかしいことも言えてしまうから不思議。案外悪くないものなのね。


ではでは、またかしこ。

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